第一章 感染者──二九項

「──チ、ナチイイ! 大丈夫かナチイイイ!」

「……嗚呼、面倒なのをひとり忘れていた」


 腹の底からの絶叫を撒き散らして、こちらへと駆けてくる人間の気配がふたりをこの場に繋ぎ止めた。大きくため息をこぼして、雷路は淑慰を制する。何者かは慌ただしい足音で扉のすぐ手前まで来たかと思えば途端に減速して、そこからヨタヨタと頼りない歩みで部屋へとやって来た。弾み放題の息に肩を揺らして現れたのは、当然の事ながら、割れたランタンを携えた汗まみれのギデオンだった。


「ギデオン! ギデオン助けて……! 見て、おかしな奴らがわたしを攫おうとして……!」

「済まない、済まないナチ……!」


 彼の姿を見て、ナチが再び必死に声を上げる。先程よりも体感女らしさが滲む声だった。ギデオンがそれを聞いて何をしてくるのかと一瞬気を張った雷路だったが、それはあっという間に緩むこととなった。


「遅れて済まないナチ……そして残酷にも、私には君の“輸送”を止めることが出来ない……! 彼らには敵わない、この無力で情けない役立たずを、どうか、恨まないでくれないか……!」


 ギデオンは泣いていた。芸術的なまでの豪快な男泣きであった。涙か鼻水かもわからない透明な液体でぐちゃぐちゃに濡れた顔に、色とりどりの屑ゴミの欠片が引っ付いているのが窺えた。よっぽど床とじゃれあって来たに違いない。手にしたランタンは時折、不安定な点滅を見せていた。目視出来るほどに膝が笑っており、思うように整わない呼吸のせいで肩も忙しなく上下していて、あらゆる方向に対して何かしらの動作が行われているという非常にやかましい佇まい。彼は思うことがあって悲しみの涙に暮れているのだろうが、雷路はどうしても彼の動きが気になってしまい上手く雰囲気を飲み込めなくなる。


「ギデオン、待って、どういうことなの……? 済まないって、なんで謝るの……? わたしは、わたしは、どうなるって、いうの……」

「ん、そんな壮大に捉えなくていい話だ。お前は俺が所属する組織の巣穴まで輸送される、ただそれだけ」

「ごめんよナチ……本当にごめんよ……」


 呆気に取られて放心したまま大人しくなったナチをそっと降ろしてやりながら、淑慰はそれでも意識下で彼女の動きを監視し続ける。暴れる気力は無くなったらしかったが、いつまたそうなるかはわからないからだ。その向かいで、やっと落ち着いてきたギデオンが突如思い立ったように扉を閉めてもたれ掛かり、雷路に厳しい視線をぶつけてきた。


「だがしかし、悪いね、私も潔く引き下がれるほどデキた男じゃないんだ。首輪付き、君に聞きたいことがたくさんある! 答えを聞いて納得するまでは、ここを通さないつもりだよ!」

「良いさ、俺もお前に教えて欲しいことがあったんだ。丁度いい、ここに話し合いの場を設けようじゃないか」

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