第一章 感染者──四九頁
初め、ナチは冗談だと思った。この冗談の利かなそうな雷路という男が考えた、精一杯の冗談なのだと。しかしその屈折を知らない眼差しを受け取って、それが冗談などでは無いことを思い知る。真剣な眼差しだった。真偽を問い詰める、真っ直ぐな眼差し。ナチは見つめ返せなかった。熱くなる頬を抱えて俯くのが精一杯だった。雷路の穏やかな低い声が今一度、どうなんだ、と問いかけてくる。
「······そうよ」
「そうか」
「どういうつもり?」
雷路が、さあ、と吐息混じりに応える。自分から訊ねた質問に対してどういうつもりかを問われたら無知のフリ、とは肝の据わった男だ。彼は小指で目尻を掻きながら続ける。
「確認しろと言われたんでしたまでだ。別に俺個人の興味じゃない」
「······あっそう」
呑気に欠伸をする彼の隣で、ナチが理由もなく身動ぐ。出会って一日も経たない男に自身の異性経験の有無を知られるのは、多感な時期のナチにとってはとことん恥ずかしいことだった。両手の平に汗が滲む。というか、全身が熱い。頬に関しては今にも火がつきそうなそんな気がした。
「失礼します」
「入れ」
その時、扉が四度ノックされて、物腰の柔らかそうな女性の声が転がり込んできた。雷路がそれに応える。窓の外ではさっきの鳥が、仲間を呼んで遊んでいるところだった。
「遅れました、担当のエルバスです。引き継ぎ致します」
「俺の方での確認は済んだ。健康診断と当面の世話は頼むよ」
「勿論です」
入ってきた女性はクリップボードに目を通しながら、にこにこと陽気にナチの元へやってきた。彼女がナチを担当する世話係らしい。軽くナチの身体を触診し、満足そうにボードへ書き込んでいく。時々話しかけられたが、どうやら彼女の扱う言語は英語ではないようで、思わず眉間にシワを寄せる。すると隣の雷路が状況を理解して翻訳してくれるのだった。
「痛いところはないか、苦しいところはないか、と」
「な、ないわ」
「大丈夫だそうだ」
雷路はベッドから立ち上がりながら、彼女と同じ言葉でコミュケーションを取る。短い会話を終え、彼は扉へと向かいながら何か思い出したようにナチを振り向いた。
「今日の夜か明日には、英語が話せる担当も着く。安心するといい」
「わかった······」
「言うこと聞くんだぞ」
おそらくはわざとであろうが、彼は最後に、小さな子どもをあやすような口調でそう言った。言うほど歳の違わない相手に、つまり馬鹿にしているのだろう。悪戯に口角を吊り上げて、彼は部屋を去っていった。ナチの心がざわめく。これはきっと、不安と高揚感とが喧嘩した摩擦だ。
「······ギデオンが恋しい」
朗らかな笑顔を携えた世話係が、ナチの呟きに眉を動かして振り向いたが、首を横に振ってみせるとそそくさと自分の仕事に戻った。窓の外を眺めながら、ナチは長く隣にいてくれたギデオンを想った。知らない場所、知らない人、知らない言葉。何もかもが知らないことだらけのこの部屋の中で、まだ未熟な心は必死になって自分を励ます他なかった。
Vulgar. 雉男一色 @haiume8116
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