竜星のミラ

政木朝義

第一章 竜、竜星の如く

第一節 荒野のアストラ

 とても長い年月をさ迷っていた気がする。裾の破れた外套を両肩に引っ掛け、ぼろを纏った一人の青年が歩いている。ハロルド・フォーサイスは立派な長剣を今や憐れにも杖がわりに、身を引き摺るようにして歩いている。

 人気も道もないどころか、生物の気配も殆どない中では、動く者の姿は異質だ。灰色の空と、赤黒い地面がどこまでも続く。地下都市聖国に住む人々から、地上は死の国だと呼ばれていた。ハロルドは実際にそこへ出てみて、全くその通りであると身を持って知る。ここまで来ればさすがに何か掴めるだろうと思っていたが、どうやら考えが甘かった。思っていた以上に広い場所だ。彼は、行くべき方向を見失っていた。時折見つける僅かな植物はどれも硬く項垂れ、まるで自分が草にさえ無視されているような気分がする。最初は植物を見つけると、師からの知識と照らし合わせながら食べてみたものだ。しかしどれも美味しくないので、最近ではそこまでの意欲もわかなくなっていた。

 彼の睫毛の奥に覗く瞳は緑色だった。いつの間にか伸びていた黒髪が、重力に従って落ち、ぼんやりとした視界を塞ぐ。最早正常に汗が出るほど、体に水分が残っていない。ひとつ、ねっとりとした唾を飲み込む。内側の肉が動いた時の痛みで、酷く喉が乾いている事を思い出す。体はまだ生きようとしていた。溜め息すらもつけず、静かに顔を上げる。淀んだ瞳が、荒涼たる大地を真っ直ぐに眺めている。


 かつて、雨が降れば外套に水を溜め、小動物を捕まえると火を起こして食べ、朽ちた建造物や岩の影で眠る日々だった。それももう、できる環境ではなくなって久しい。ハロルドという自分の名を、誰かに伝える機会もなくなった。最後に水にありついた日はいつだったか、全く頭が働かないが、偶然見つけた小さな水溜まりの泥水を、倒れ込むようにして貪ったのは覚えている。こんな場所まで来て何故生きようとしているのか、よく分からなかった。赤銅色の竜が現れてからというもの、ただひたすらに生きるか死ぬかの生活、平穏のない人生だ。自分の歳もはっきりとは知らない。幼い時分故郷の村を飛び出して以来、誕生日を祝ってもらう事がなくなったからだ。多分、十七年か十八年くらいは生きてきたと思う。

 村と家族を奪われて逃げ、その内唯一助けを請えたはずの師からも逃げ出し、一人になっても何かから逃げ続けていた。この体が朽ちて乾き、足元の砂粒と見分けがつかなくなっても、それは続く予感さえしていた。ここがどこだか分からない。行くべき方向も分からない。ずっと前からそうだった。ただ生きるために生きていた。

 少しの風も吹かず、空気すら死んでしまったようだ。機械に満ちた街周辺と違って、地面に近い場所に魔霧の気配はない。空の高いところで、雲に混じって燻っている。

数日前いた場所の環境は、もう少しましだったように思う。悪い方向へ引き寄せられている気がする。それならそれでいい、と彼は思った。それもまた、運命なのだ。不穏な事を考えていると、空間を切り裂く一筋の咆哮が響く。


 状況把握のため、ハロルドは動かずにいる。すると突然、どこからともなく人型の幻獣が這い出してきた。素早く視線を走らせ数える。色は白く、醜い姿をしている。それが六匹。

 大きさは全て、人間の成人ほどはあるだろう。思い思いに呻き声を上げる幻獣に囲まれながら、やけに静かな頭で考える。生者を迎えに来るとも語られる、死鬼系幻獣。何も守れなかった自分には似合いだとさえ、彼は思っていた。生き別れたままの妹と再会できなかった事が、ひとつ心残りで仕方ない。ただ、大人しく喰われる気はなかった。両足を開いて、長剣を抜き、構える。鞘を落としてしまったが、拾っている余裕はない。黒い鞘紐が女の髪のように舞い、赤い荒野にからりからりと打ちつけられた鞘の音。鈍い輝きを放つ赤い刀身。何の考えもなく迷わず抜いてしまった。やはり自分は、こうする事でしか生きられない。彼は思うと同時に、自嘲で僅かに唇を歪ませる。


 何度か幻獣狩りを逃れようとしたが、彼は他の仕事を知らなかった。出身地を知られると、大抵嫌煙されてしまうのだ。育ての父親と言える剣の師が、それしか教えられないのを了承しろと言ったからだ。幼いハロルドはそれで十分だと答えた。思えばあの男との出会いは不運と表現されるものだった。家も家族も失ったハロルドが進退窮まった時、財布を盗もうとしたのが剣の師だった。彼はハロルドを一発殴り、転がした。そして、つまらぬ暴力に屈するのが悔しければ自分自身が強くなれと告げる。雷に撃たれたような思いがした。何としても彼に強さを教えてもらわねばと考えた。しつこく追い縋り相手の根を負かし、ようやく権利を手に入れた。そして時が経ちある程度の力を手に入れたハロルドは、再びつまらぬ暴力によって命の危機に追い込まれる。まだ、力が足りないらしい。

 得物の重量に耐えられるだけの腕力はなくなっており、切っ先がふらふらと揺れ、定まらない。散らかりがちな精神をなるべく集中し柄を握りしめると、うっすら伝わって来るものがあった。食欲。相手が幻獣類ならば相応の反応があり、刀身が血を求める。これはそういう剣だ。呪われた剣とも言える。目と目を合わせ、死鬼達の視線を受け止める。皆一様に白く濁っていた。彼らはハロルドというよりも、剣へ敵意を向けているようだ。瀕死の人間など、単なる付属物に過ぎないと。だが、それは侮りというものだ。一匹や二匹、できれば全て、道連れにしてやろうという気持ちが湧いてくる。


 思案をしている隙を突いて、先鋒役が飛びかかって来る。ハロルドは果敢に走り寄って、相手が後ろ足で地を蹴った瞬間、大きく一歩懐に入る。

 寝かせた刃を振り何とか腹に叩き込んだが、腕に力が入らない。霞む目では固い肋骨を避ける事が完全にはできなかった。その反動で、両の足がよろめく。獣達は獲物の隙を逃さない。

 どす黒い霧を吹いて転がって行く仲間を、見向きもしない。二匹目の白い影は素早く背後へ回り、姿勢を低く四つ足で向かって来た。しかしハロルドは転ばない。得物を振った勢いを使い、身体を翻しながら無理矢理体勢を立て直す。真っ直ぐに伸びる剣の切っ先の、血塗られた光が上向きに軌道を描く。半端に伸びた黒髪は振り乱れ、頂点で溜めていた息を大きく放つ。間合いを詰められ過ぎる前に、思いきり脳天に向け打ち下ろした。頭骨を捕らえた衝撃で腕が痺れ、白い獣から黒い霧が噴き出す。気を失ったか死んでしまったか、地に崩折れ動かなくなる。下半身に組みつき、自分を引き倒そうとしたのだろう。とハロルドは思った。まだ生きているか分からないが、念のため距離を取った方がよさそうだ。


 視線を走らせ敵の配置を把握し、安全な位置まで飛び下がる。また背後を取られないよう、足の運びに気をつける事も忘れない。再び距離を詰めてくる獣達の中には、腹から霧を流している者もいた。先鋒役だ。まだ戦意を喪失していないらしい。つけた傷が浅かったか。今度は一度に二匹が、正面から走って来る。普段のハロルドなら難なくこなせるだろうが、満身創痍の状態だ。捌き切る自信がない。



 避けろ。


 誰かの声がした。



 もう最期まで聞く事はないと思っていた、自分ではない誰かの声が。

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