まずい、とハロルドは思った。デネブの言葉が嘘でも真でも、ミラがその気になってしまっては困る。何も成し得ぬまま自分の人生が終わる。彼女が理解できないのをいい事に、言い含めて自滅させようとしている可能性もあった。ミラの迷いが伝わってくる。ハロルドの焦りも伝わっているだろう。今はただ、彼女が即断しないのが救いだ。デネブが畳み掛けてくる。

「ミラ、一旦竜帯に帰りましょう。二度の失敗については、私が総司令に話をつけますから」

「なに……?」

「竜帯に何があるって……?」

 ハロルドとアミスは、揃って耳を疑う。

「あなたが得たアステラス号の情報を渡せば、内容によっては恩赦があるかも」

「そんな事、僕が許さない」

 アミスが一歩、詰め寄った。

「心配せずとも、一般艦員に興味はありません。我々が欲しいのは、頭目の」

「なおさら駄目だ。何が目的かは知らないが、ろくなものではないのだろう」

「餌の分際で生意気な」

 デネブの表情は固く、アミスは怒りの表情を隠さない。ミラは相変わらず難しい顔で考え事をしている。ハロルドが体を押さえ続けているのも気にしないほど、集中して。突然現れた自称知り合いから身に覚えのない話をされ、それを忘れていた事すらも忘れているのだと言われれば、混乱するのも仕方ないだろう。アミスが舌打ちした後、下唇を噛んだ。こちら側にとっていい状況ではないのは明らかだ。デネブは再度、思考の海に沈むミラを引き揚げようとする。

「とにかくミラ、あなたが餌に選んだそいつは危険です。手遅れになる前に、さっさとこ」

 相手が言葉を言い切る前に、アミスは地を蹴った。直後にデネブは、人間を越える跳躍力で遥か後方に飛び下がる。アミスは勢いを殺さず、むしろ加速した。シリウス、と叫ぶ。アミスに呼応した深紅の鱗が少年の体を次々突き破り、慣れた調子で手早く竜を形成していく。


 アミスは竜体化して襲いかかるつもりで、そしてシリウスは体に鞭打ちきっかり間に合わせた。

 デネブは両足を開き、身構える。人型端末を消せば逃げられるはずだが、彼女はそれをしなかった。アミスは構わず獣のように飛びつく。デネブは、大きな爪の一撃で地面に叩きつけられたらしい。と言うのもハロルドからは、シリウスの背と大量に舞い上がる砂しか見えていなかったからだ。

 紅竜の翼が、雄々しく広がる。荒れ狂う紫黒の竜瘴を纏う。誰よりも先に左側から飛び出したのは、紫電の輝き。どうやらアミスは捕まえ損ねた。小さな角が砂煙を裂いたのは一瞬で、その辺りから一息に躍り出た菫色の竜体。紫色の爪が大地の表面を叩き割り、また激しく砂が散る。紫竜デネブは勢いのままに横滑りして、振り返りつつあるシリウスの左斜め後ろを取った。躊躇いなくデネブは飛びつく。そして二体は、揉み合いながら転がっていく。



 やられる。アミスを助けなければ。強い思いが、ハロルドの神経上を稲妻のように駆け巡る。何の考えも浮かばないまま、地響きに邪魔されながら必死で追いかけた。友達になれないだろうかと少しの希望を抱いた。世話になるばかりでは気が済まないと思った。もう誰も目の前で失いたくなかった。だが追いついたところで、どうすればいいのか。上手く竜体化できる自信もない。何しろハロルドは、大きな失敗をしたばかりなのだ。何かが奥底で怯えている気配がする。怯えているのは自分だった。


 紫竜は紅竜の身体を、勢いよく大地に叩きつけた。デネブがそのまま体重をかけて馬乗りになり、両手で首を抑え込む。シリウスが大口を開けて、圧迫された喉を震わせ苦しげに吼える。砂煙は竜の尾や手足と共に踊り、狂う。ハロルドはその隙に、何十歩も空いていた距離を詰める。せめて、自分の剣が手元に戻っていれば。精神的なショックからミラが立ち直って、今からでも加勢してくれれば。

 鈍く唸る、風を斬りつける音。ハロルドの両目は、頭上を過ぎる尾を捉えるのが精一杯だった。固い鱗に覆われた、菫色の長い尾。強靭な竜外殻。足が止まる。

 浅く繰り返される呼吸が苦しい。足が動かない。ゆっくりと動く視界の中、ただ、立ち尽くしたまま。緑色をした瞳の中に、黄金の燐光が散って消える。視界が真っ白に染まり、何も見えなくなる。



 お兄ちゃん!


 耳鳴りを掻き分けて、妹の声が鼓膜へ到達する。シェスカが、自分の名を呼んだ気がした。逃げろと叫んだ、あの日と同じ幼い声で。目の前の白い光を力任せに破り、叩き割って、飛びついて来るのはミラの姿。それでもハロルドは、無防備に立ち尽くしていた。自分の体が突き飛ばされた状況を、どこか遠くの出来事に感じた。



 世界、一転、現実へ。


 二人で遠くへ転がった事で、尾を叩きつけられる事態は回避できた。ハロルドの視界の端では、シリウスの大きな爪がデネブを切り裂かんと繰り出されていた。デネブは済んでのところで回避し、大きく飛び下がる。シリウスとデネブの距離が離れた、その時だった。

 轟、と、二体の間に光の筋は落ち。問答無用の衝撃派に揺さぶられ、竜達は体勢を崩す。

地面に深々と刺さっていたのは、薄緑色に輝く一本の剣。デネブは興奮覚めやらぬ様子で、存在を誇示してきた乱入者を思い、低く喉を鳴らす。ハロルドとミラは砂まみれで抱き合い、大地に転がって動けずにいた。状況が変わりつつあっても、ただ、悪い方へ行かないように祈るのみだ。ハロルドが意識を傾けると、ミラもそう思っているようだった。


 何かが臆せず近づいて来る。短い間隔を以て、断続的に空間が唸る音。だんだんと大きくなる。竜の翼が、羽ばたいている。


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