第二節 惑いの大地

『アミス、ハロルド。生きてるわね?』


 エリテンシアの声が降ってきた、と理解できたのはデネブ以外の者だ。各々見上げた先には、線の細い萌葱色の巨体が、そう遠くない距離で停止飛行している。鎧を纏う獣面の巨人、竜。彼女の周囲を同じ剣が五本、適度な感覚を保ちながら正面に切っ先を向けて浮いていた。地面に突き刺さっていた薄緑色の剣が自ら動き、空いている位置に戻って行く。

アルタイルだ。最初の一発が威嚇射撃である事は、どちらに当てるでもない場所に刻まれた弾痕が証明していた。以降武装は収めて、攻撃してくる気配はない。が、何を思ったか、着陸するなり体を前に倒して伏せた。

 間髪入れずに竜の頭部が迫って来たので、ハロルドは飛び上がってしまう。紫黒の竜瘴が翼の周囲を渦巻いて、強い風を生み出しハロルド達の服や髪を靡かせる。勢い余って尻餅をついた目の前で、大きな牙の並ぶ口が開いた。危機的状況ながらハロルドは、竜に舌はないのだなあなどと考える。

『あなたね! いきなり飛び出して行っちゃうなんてどういう事? 何考えてるのよ! 死んだらそこで終わりなのよ?』

 耳を塞ぐ暇もなく、酷い声量が叩きつけられる。人の怒鳴り声よりも竜の咆哮と言った方が正しい。怒られても仕方がない件だったので、鼓膜が刺されるような痛みを抱えながらハロルドは耐えた。今更両耳を塞いでも遅いのだが、そうせざるを得ない。

「すみません」

『怒鳴るのはその一度でやめてやれ。事情が事情だったようだし、こいつも十分反省している』

 未だ竜体化を解除していないアミスが、横から助け船を出した。重い音を立てながら数度地面を踏み、ハロルドの側に前脚を置く。彼女も歓迎会の時は深く酔っていたため、ハロルドの妹に関する身の上話は聞いていなかったらしい。もしくは覚えていなかった。もっとも辛い経験をしたからと言って、あの行動を正当化する気はない。集団に属しているにも関わらず、勝手な都合で周囲を危険に曝すのはよくないと、ハロルドも分かっていた。アルタイルは、釈然としない様子で首を動かした。双方竜体化したままなので、妙に迫力がある。彼女はすぐに、ハロルドの側に立つミラの姿も認めた。

『ミラちゃん大丈夫? あの紫竜に酷い事されたの?』

「ああ、大丈夫だ」

 アルタイル、もといエリテンシアの勢いには、さすがのミラも怯んでいたようだった。問題ない旨を伝えはするが、戸惑いの色が濃い。何体もの竜に囲まれ戦闘に巻き込まれ、おまけに罵られるか弱い人間の事も心配してもらいたいものだ。そうハロルドは思ったが、冗談めかした事を言える雰囲気ではない。おおよその状況を把握したエリテンシアは、アルタイルの面でデネブの方を向く。

『こっちは三体に増えたけど、どう? まだやる気?』

『興が削がれました』

 デネブは、今まで様子を窺っていたらしい。獣のように背を丸めていた彼女は、戦闘体勢を解く。そして、わざとらしく大きな溜め息をついた。まるで人間のように。あれよと言う間に踵を返すと、翼を広げ竜瘴を纏う。彼女は一度も振り返らずに、灰色の雲へ飛び込んで行くのだった。



 ようやく嵐から解放された。押し寄せてきた安堵が、ハロルドの四肢から力を奪っていく。情けない話だが、腰が抜けたらしい。忘れていた心身両方の疲れが、どっと襲ってくる。

 抵抗する意思も失せ、赤茶色の地面の上に転がってしまった。覗き込んでくるシリウスとアルタイル、そしてミラに、ハロルドは問題ないという意味で軽く腕を上げた。謎は増えたが、生命の危機は去った。それだけで今は、十分だ。

『二人とも大丈夫そうね。そういう事なら、わたし帰る。因みにアステラス号は無事だし、救助はそろそろ来るわ』

 状況が収まったのを確認したアルタイルは、喋りながらも空へと舞い上がる。帰るという言い方からして、彼女の目的地はアステラス号だ。真っ先に話を出してこなかったところから、最悪の事態は避けられたと想定される。

『詳しくは救助の人に聞くのよ。絶対追いついてよね』

 エリテンシアの声は、アルタイルの姿と共に遠ざかって行った。





 竜体化を解いたアミスが、ハロルドの隣に座り込む。ミラも黙って地面に座り、膝を抱えた。ハロルドに会話する意欲はなく、逆に誰かが話しかけてくる気配もない。重苦しい色をした空を仰ぐ。澄んだ青空を知ってしまった後では、代わり映えのしない灰色雲の下は気が滅入る。あの上に違う世界が広がっているのを、ハロルドはこの目で見た。

 青、どこまでも続く青。本物の青だ。そして世界の果ての向こうを一周しているという銀色の輪、竜帯。かつてあまねくを照らし、古代の楽園を維持していた大陽。目が潰れるほどの、ただ唯一無二の眩しい輝き。地下人は一生見られないような、世界の果てに最も近い場所からの光景を。嘘のような本当の話だ。ハロルドにとって空は自由であり、可能性であり、希望でもあった。そして噂通り空には赤銅色の竜がいた。きっと自分は、妹に近づいている。大丈夫だ。この方向で、大丈夫だ。必ず真相を暴いて、仇を取って見せる。

「そう言えばエリテンシアさん、普通に飛んで行ったけど大丈夫なのかな」

 ハロルドは寝転んだまま、独り言のように呟いた。

「アルタイルは、並みの竜や飛空艦などあっと言う間に振り切るほど速いからな。外殻に迷彩機能もついている。心配ない」

 ぼそぼそとした力ない声ではあるが、アミスは律儀に返事をした。そして大きな溜め息をつき、地面に転がった。

「まったく、初っ端から大仕事だった。わりに合わない。救助が来ても立てないようなら、ここに置いて行ってやるからな。いや立つな、一生寝ていろ。土に埋まれ。その方が都合がいい」

「俺、解雇されるのかな」

「馬鹿を言え、社長は寛大な御方だぞ。そもそも訳あり人間の寄せ集めだ、迷惑をかけるにしても、どいつもこいつも規模が違う。……まあ、罰則はあるだろうが」

 ハロルドは返事をしなかった。相変わらず励ましたいのだか貶したいのか分からないが、本気で邪険に思っている訳ではないと何となく気づいていたからだ。彼の性質は、分かり辛いようで分かり易い。もし本当にハロルドが立てなければ、引き摺ってでも連れて行くつもりだろう。不思議な人間だ。

 村に住めなくなってから、ハロルドは塞ぎがちだった。母と妹がいなくなってからは一人、拭い切れない孤独感に苛まれていた。この世界は、竜瘴に汚染された場所やそこから来た者に厳しい。集団に何となく馴染めず、友人はできそうになかった。師匠と共にいた時も、心が安らぐとか、そういった感情には浸れなかった。これからも一人で逃げるように生き続けるのだと、そうならざるを得ないのだと諦観すら覚えていた。そんな青年ハロルドは、自分らしくない思考を巡らせていた。アストラノーツ社、そして社員の彼らと出会わなければ、湧いて来なかった感情かもしれない。


 二人は空を眺め、ミラは静かに膝を抱えている。救助の到着を待つ間、三人は無言だった。それぞれで何かを考え、そして何かを思っていた。


 聞こえる。ハロルドはすっかり疲れていたのも忘れて、急ぎ上体を起こした。灰色から黒へ染まって行く雲の合間から、人工的な光がひとつ浮かび上がる。夜を迎えつつある世界の中、確実に向かって来る小さな点。ハロルド達にとっては希望の光だ。エリテンシアの言った通り、小型飛空艦が近づいて来る。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る