「それは脅しですか?」

「いや、助言だよ。ここにいれば、そういう意味の危険から君は守られる。つまりはだね、私は、そういう逃げ場のない境遇に置かれた者達の力になりたい。一人は辛い。私だって、若い頃そうだった」

 ハロルドは再度沈黙した。だがそれは、緊張や恐怖から来るものではなかった。ようやく安全そうな場所へ辿り着き、温かい人々に囲まれて思考が楽観的になっていく。この船で会った人間は、友好的な態度ばかり向けてくれる。今のところ。

 しかし結局、自分は自分を追い詰めた人間達と同じだった。ハロルドは少し俯く。生きるためと言い訳をしながら幻獣達を狩った。幻獣と渡り合えるほどに強くなれば、赤銅色の竜にも刃が届くのではないか。そういった利己的な心情もあった。凶暴化した獣や人間性を失った者ばかりだったが、それでも感じるものはある。

 師のように確固たる覚悟や芯を持って進む心もなかった。自分のような人間がダルクロッサの手を掴む事が、果たして許されるのだろうか。ハロルドは世界の広さを思う。あの時地上で死んでしまっていれば、何も知らずに終わっていたのだ。ここでは孤独で危うい人間達が集まって、聖国の作った磐石な常識をものともせず生きている。

 鋼鉄女王の勅令で討伐対象となっている竜を、一緒に匿う事までも厭わない様子だ。彼らは死の大地で倒れていた得体の知れない自分を拾い、起き上がって喋れるようになるまで治療してくれた。その上仕事と寝床を分けてくれると言う。怪しむべきかもしれないが、ここに導かれたのは幸運かもしれない。田舎者の自分が、今こうして死の世界である地上を超える事ができた。噂の通り空に留まっていれば、赤銅の竜へいつか辿り着けるはずだ。


 妹の手掛かりを掴めるのではないかという希望。あるいは縋るような願い。ハロルドは、そのために空を目指して来た。それに二度目に地上へ放り出されたら、今度こそ死んでしまうだろう。彼自身、そろそろ限界だった。誰かに手を取って欲しかったのだ。

「ここでも即答しないという訳か。誠実なのか、臆病なのか、果たして君はどちらかな」

 誉めているのか貶しているのか分からない言葉だ。ダルクロッサは顎を引いて、ひとつ頷いた。それからは置物のように、ハロルドの様子を眺めている。出された直後は暖かかったカップが、だんだん熱を失って行く。

「俺は……俺の剣を見ましたか? あれは幻獣を殺すための物です。人間以外を排除するための武器だ。あなたの信念がそうなら、俺は即刻去らなければならない人間だ」

「言い方を変えれば、人を超える力から誰かを守るための武器だ。ここにいる者は、本当に様々な過去を持つ。私もまた、乗員達と同じだ。だから私は、今まで何をしてきたかより、これから何をしたいと思っているかが重要だと思っている。要は、捉え方の問題だよ」

 ハロルドは、改めて悩んだ。このまま厚意に甘えていいのかを。彼は自社を変に良く見せようとしたりしないし、己の権力を無闇に誇示したりもしない。穏やかな紳士といった印象だ。厳つい竜の仮面を被って顔を隠している妙な事実を、見なかった事にしさえすれば。セドリックやジーナも、何だかんだダルクロッサの事を慕っているようだった。

 病室で聞いていた二人の話に、会社に関する深刻な類の悪い話は出てきていない。引っかかるのは、ここが荒事を生業とする会社であり、そういう意味の危険からは守られるという意味深な言葉だ。ハロルドを引き入れて、何らかの形で利用しようと思っている事は確かだろう。現にダルクロッサ本人が、包み隠していなかった。例えば、竜の力を使わせその荒事を処理させようとしている。



『とりあえず今は、この者達の世話になってもいいと思うが』

 考え込んでいたところに、突然耳元を息で擽られた気分がした。予想だにしていなかった事態に、ハロルドはソファから飛び上がりそうになってしまう。声の聞こえたと思わしき方向に目を向けると、そこには誰もいない。

 何かの気配がぼんやりとした煙のように、ハロルドの周囲を滞留している。大きなものに身体が包まれている感覚。聞き覚えのある声だと気づいたのは、謎の声が二言目を発してからだ。

『人間の感覚能力では、現在の私は視認できない』

 誰だ。ここまでされれば予測はついていたが、念のため心の中で問いかける。

『青き竜だ。話すのは地上以来だな。今、お前の中で休んでいる』

 竜と名乗った者が話している間、掌で体を撫でたり軽く叩いてみる。特に違和感や不快感はない。他人に気を配る余裕を失っているハロルドは、挙動不審な行動を繰り返す。だからもちろん、気がついていなかった。ダルクロッサが顎に右手を添え、ハロルドを眺めているのにも。

『この者達は私とお前を治療し、必要な食事もくれた。骸骨男は煩いし無礼にもほどがあったが、それを除けばおおむね待遇はいい』

 骸骨男とは、どうやらセドリックの事らしい。辛辣な言われようだったので、事情も知らずして同情せざるを得ないハロルドだった。治療以外されていないと思っていたが、やはり何かあったのだろうか。

『気をつけろ。セドリック・ロウという男、竜の尾を触る事も、角の組織を削り取る事も、何もかも躊躇わない』

 竜はどうやら、体に気安く触られたのを不服としている。声色から何となく分かった。もっと深刻な内容を想像してしまったので、拍子抜けだ。大した問題ではないのではないか。

『そんな事とはなんだ。お前の体でもあるんだぞ』

 どういう意味か分からない。ハロルドはその旨を伝える。すると呆れたと言わんばかりの冷たい吐息が、首筋に柔らかく触れた気がした。座り直す振りをして少し離れようとするが、上手くいかない。竜の気配はハロルドに重なっているらしい。誰かが至近距離にいる状態は、どうも落ち着かない。ハロルドは、彼女が気安く触られた怒りで暴れていないかの心配をした。

『お前だって暴れただろう』

 ハロルドが目覚めた時、セドリックが過剰に動揺していた訳だ。また竜に攻撃される可能性を危惧したのだろう。彼女はハロルドより先に目を覚まし、逃げようと考え一度暴れていた。竜が暴れたら一番危ないし、船の中なら大勢を危険に曝しかねない。

『お前だって暴れた!』

 今、その話はしていない。それに、竜と人間では生み出す被害の規模が違い過ぎる。

『と、とにかく、看過できない不都合が生じた時は、さっさと逃げればいいだけの話だ。分かったな。煮え切らないお前に変わって、私が決めてやったぞ』

 やはり彼女は、ハロルドの考えがある程度分かるらしい。とっさに心で引き止めたが、彼女は言う事を聞いてくれなかった。一方的に会話を終了させて、密着していた第三者の、竜の気配は忽然と消えた。あれほどはっきりしていたのが嘘のようだ。



「相談は終わったかな?」

 ハロルドは弾かれたように、竜面男の顔を見る。

「何故分かるのか、って? 竜との契約だよ」

ダルクロッサは無言で仮面に手を当て、目の辺りを人差し指でつついた。動作の意味がハロルドには分からなかったが、無理もないといった様子だ。ハロルドが尋ねるまでもなく、ダルクロッサは自ら明かし始める。

「君が当艦に発見された時。セドリックは、もう長くないと考えたそうだ」


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