第三節 アストラノーツ
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自分はやはり、とんでもない場所に来てしまったらしい。それを思ったのは何度目か、とにかくハロルドは社長室兼艦長室に足を踏み入れてから落ち着きがない。久々に顔や髪を整えられたので、気分からして違う。医務室で借りたそれなりの服が、やや丈が短く窮屈なのも要因のひとつだ。病衣のまま社長室に入る訳にはいかないので、仕方がない。
上品な暖色のシェードが被さった、一際大きな天井の陽石。全体的に茶色と黒で構成される、落ち着いた部屋だ。色形さまざまの球儀が、本の隙間に置かれ、天井から吊るされ、机に置かれている。不気味な形状の鉢植え植物、古美術らしき小さな壺、鉱物や小動物の標本。
どれもが一見乱雑なようでいて、ある種の拘りを感じさせる配置で置かれていた。両の壁際には小型の陽石灯を備えた本棚が、剣掲げる門番のように聳え立つ。分厚く小さい本もあれば、薄いが大きい本もある。少し見ただけで辟易とするほど分厚い辞書もあった。こんなに沢山本がある光景をハロルドは見た事がない。公的書類ならともかく、同じ紙でも書物となれば骨董とも言うべき貴重品だ。背表紙を見る限りでは古代語だろうし、何が書いてあるのか想像もつかない。僅かに残る壁のスペースにも、蝶や甲虫の標本、絵画がかけられている。まるで御伽話に聞く、空賊船長か魔法使いの部屋のようだ。
社長兼艦長室の壁にも、放送機械は生えている。ようやく視線を下の方に落とすと、高級そうなカーペットが目に入った。その上に来客用の小テーブルと、囲むように置かれた黒いソファがある。さてどう動くべきか。ハロルドは入室後の体勢のまま、無言で立ち止まっていた。一応ノックをしてから入室する旨を伝えて、部屋の主の返事もあった。しかし、勝手に座っていいものではないだろう。ハロルドは結局、何か言われるまで待っている事にした。こんな状態の部屋であるから、どこに誰がいるのか全く分からないのだが。
「よく来たね」
正面にある重量感のある机の上、積まれた紙や本の向こうから声が聞こえた。低く落ち着きのある男の声だ。先ほど入室を促したのと、同じ人物のものだった。彼は黒い手袋に包まれた手を卓上にかけ、ゆっくりと腰を上げる。黒を基調とした洒落たスーツの端々が、ゆるりさらりと擦れ合う、耳心地のいい音がする気さえした。彼の顔を見た瞬間ハロルドは、両目を開きひとつ息を呑む。
男の頭が、人間でなかった。鈍く輝く滑らかな黒肌、人ならざる異質な瞳、天を貫かんと聳える黒い双角。そんな頭部を前にした者は、誰しも竜と呼ぶだろう。しかし情報が噛み合わない。確か社長は人間だと聞いたはずだし、体が人間で頭が竜の生物など存在しない。ハロルドの内心を知ってか知らずか、竜頭の男は姿勢良くハロルドの前まで近づく。彼の顔が予想より高いところだったので、ハロルドは少し顎を上げた。その頃には彼の目にあたる部分が、無機質な質感と光沢を発しているのが分かる。そう、仮面を被っている。
「ようこそ、アストラノーツ社へ。この飛空艦はアステラス号だ。主に浮遊遺跡の調査、傭兵護衛空賊退治、女王陛下の許可証はなし。行き場のない者追われる者、隠されたものを探す者、世に見捨てられた者達の城だ。要はもっぱら、荒事家業さ」
物騒な単語が混じったが、聞き間違いではないだろう。目の前の男は堂々として、よく通る声は拍子良く踊る。
「そして私が、それを作った。社長のダルクロッサ・フォン・メイ=レンツィオだ。社長、艦長、もしくは親しみを込めてダルクさんと呼んでくれてもいい」
竜頭の社長ダルクロッサが、滑らかな動きで右手を差し出す。ハロルドは自分からも名乗りながら、軽い握手を交わす。人肌の温もりが、薄い布越しにでも伝わる。互いの手を動かした拍子に、黒手袋と袖口の間に現れたのは、紛う事なき肌色。白襟と仮面の間に見えるのも、柔らかそうな人間の首だ。人間だ。彼の語り口の効果も相まって、ハロルドの緊張は少し解れた気がした。仮面を被っているせいで、表情は全く分からない。だが、仕草や声色は一貫して友好的なものではあった。
「そうか。君が、あの竜の。とりあえず、そこにかけなさい」
示された彼の右手に促されるまま、素直にソファに腰かける。触り心地のいい革が、服数枚隔てた尻の表面を滑る感覚が伝わる。なるほどこれが高いソファか。寝転がったらもっと気持ちがいいとの誘惑に襲われるが、子どもではないハロルドは密かに耐えた。
「お茶をお持ちしました」
突然、別方向から穏やかな声が投げかけられる。何もないと思っていた本棚の間から人影が現れたので、ハロルドは驚きの声を上げてしまう。柔らかい灯りの下浮かび上がってくるのは、微笑みを浮かべる老人の顔。彼は小綺麗な執事服を着て、茶器一式の乗った盆を手にしている。
「ああ、すみません。私がここから出てくると、皆さん一度は驚かれるのですよ。誰かさんのせいで」
初老の執事は、ライノと名乗った。物が犇めき合っているから窮屈に感じるだけで、実際はそうでもないと続けた。部屋の主が物を持ってきては詰め込んだから、狭くなってしまったと。
「いつも手厳しいな」
主人ダルクロッサが苦々しく呟くのもどこ吹く風、ライノは澄ました顔でいた。彼は馴れた手つきで作業を進める。紅茶が二人の目前で順に注がれていく。湿り気のある芳しい香りが、いつの間にか乾いていた鼻腔をくすぐる。高そうな茶器だ。落とさないよう、きちんと掴まなければならない。そう言えば、ダルクロッサはどうやって飲食をするのか。ハロルドが視線を前に移すと、ちょうど片手で促しているところだった。自分の事は気にせず先に飲め、と言いたいのだろう。人前で仮面を外さない主義の人物ならば、確かに今は飲めない。変な主義だが。ダルクロッサは両手の指先を合わせながら、ゆっくりと身を乗り出す。
「どうかな。行くところがないと聞いたが、このまま私のところに来ないか」
ハロルドはすぐに返事をしなかった。できなかったとも言える。
「ただし、割り振られた職務はしてもらう。衣食住の保証と引き換えだな。探し物や悩み事があるなら、こちらもある程度協力しよう。おっと、もちろん月に一度は給料を払うとも。君の働きによっては昇給や役職の昇格もありだ」
「ひとつ、お聞きしても?」
竜仮面の男は、ハロルドの言葉を待っている。彼の表情はもちろん窺えず、顎を動かす度に光の角度で印象は移ろった。こちらの内心が映っているかのようで、何となく落ち着かない。ハロルドは紅茶を一口、二口程度運んでから喋る事にした。やはり専門家が淹れたものは味が違う。だがジーナが淹れてくれたものの方が、何となく懐かしい。
「あなたはどうして、希少な物や行く当てのない人間を集めているんですか?」
「希少な物が何故希少になった、分かるかい? 元々少なかったり、自然の淘汰という場合も多いが、心ない人間の仕業であるのも決して少なくない。猫も杓子も大航海を始めた。灼熱境界以下の浮遊遺跡なら、容易に手が届くようになった昨今は顕著だ。知識も教養もない人間が手に入れ、おまけに雑に扱われでもしたら、せっかくの人類財産が失われる。やたらな者の元にあるより、私が一時預かっておいた方がマシかと思ってね。幸いにも、金なら潤沢にある」
「では、何故俺にそんな提案を?」
「君が竜と契約して、普通の人間と違う存在になったからだ。身体組織や金目当ての者達が、昼夜君を追い回す。普通に暮らすのは難しいだろう。それに契約したばかりの契約者など、軍にとっては捕まえやすいし、いい研究材料だ」
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