第二節 業火の剣

  ハロルドの竜体化は無事成功した。調整と調査が終わる頃には、すっかり疲れてしまったハロルドである。彼は空気の抜けた風船のようになって、扉を出てすぐの壁にもたれ掛かっていた。頭から湯気が出そうだ。ハロルドは無闇に溜め息をついたり、唸り声を上げるばかりだ。科学者が恐ろしい生物だと、身に染みて分かった。隣ではレイチがぼやいていたが、返事をするどころではないのでしなかった。彼は何かを納得し、ハロルドの肩をひとつ叩く。そして、こちらを気遣いつつも離れて行った。これで静かになった。と思いきや。


「おい」

 ミラの声だ。

「何だよ」

「処理落ちか?」

「ちょっと放っておいてくれ」

 ハロルドは忘れていた。ミラだけは離れられないと。ハロルドの契約した、ハロルドと一心同体の竜だからだ。休ませて欲しいというハロルドの要望は、無情にも無視された。彼女は下から顔を覗き込んだり、背中をさすってきたり、頭を撫でたりしてくる。ちょっかいに嫌気がさしてきたが、元気づけようとしての事、というのはハロルドにも分かっている。

「どうした、帰るぞ。あのホテルのふかふか布団に寝転べば、疲れが回復できるはずだ」

「引っ張るな。まだ歩く気力がない」

「大丈夫かい?」

「だから、放っておいてくれって……」

 追い払おうと振りかざした手が、中途半端な場所で止まる。ミラの顔があると思っていた場所に、予想外の黒い竜面があった。ハロルドは、息が止まるほど驚いた。いや、実際一瞬止まっていた。いつの間にか社長がやって来て、背を屈め、横から覗き込んでいたのだ。しまった、とハロルドは思ったが後の祭りである。反射的に邪険な言動をしてしまったが、声も口調もミラとは全く違うものだ。落ち着いた、優しい声。

 ダルクロッサは同じ体勢のまま固まって、黙っている。どうすればいいのか分からない。

見つめ合っている内に、ハロルドは違和感を覚えた。妙に作りがいい金色の瞳に、一瞬生物らしい感情が宿ったような。もしかすると、少し動いたかもしれない。

「おっと」

 ダルクロッサが背筋を伸ばしたので、顔が上へ逃げて行く。そして、これは愉快と言わんばかりの声が落ちてきた。ハロルドはとりあえず、胸を撫で下ろす。怒ってはいないようだ。

「すみません。失礼な事を」

「そんな事で機嫌を損ねないさ。私はできる上司だからね」

「何をしに来た?」

 ミラは率直に尋ねた。なかなか言い出せないであろう、ハロルドの代わりに。軽快に冗談まで言う社長に対して、彼女は目に見えて緊張している。無理もない事だ。

「いや、すまない。謝るのは私の方だね。からかいに来た訳ではないんだ」

 ダルクロッサは、高級スーツの襟を少しばかり正した。スーツの黒と、両の手袋の黒が重なり合い、そして緩やかに離れる。

「場所を変えようか。君達二人と、真面目な話がしたい」



 ダルクロッサの目的地は、同じ建造物の三階にあるそうだ。常に共にいる執事のライノは、今回着いて来なかった。ハロルドにとっては予想外な状況だ。

 不意打ちとも言える形で、一対一になると緊張する。心の準備ができていない。かといって断る理由がとっさに見つからなかった。この場にいないライノに、助け船を出してもらう事は期待できない。相手がどこまで気づいているか分からず、何をして来るか分からない。どうにも気が重い。もしかすると、ダルクロッサも同じ事を思っているかもしれなかった。考えている間に、扉の前まで来ていた。ダルクロッサが事前に許可を得ている事を示せば、すんなりと扉に承認される。黒いスーツの背を追って、二人は中へと足を踏み入れたのだった。


 廊下とは流れる空気が違うのを、ハロルドの鼻と肌は正直に察した。湿気があり、ほんのり甘く、泥臭い。ドーム状の屋根がついたこの空間は、箱庭として作られたように感じる。まず目に入ったのは、見渡す限り生い茂っている緑色の植物だ。暖色系の石で作られた小道には、草木の隙間から柔らかい人工光が降り注いでいる。バランスよく植えられた、色形も様々な花々。

 面積自体は広くないだろうが、視覚的に実際より広く見えるよう工夫がなされている。自然と人工物の生み出す、計算された調和。見た事がない光景に、ハロルドは感嘆の息を漏らした。

「こんな場所があったなんて」

「今となっては制作者不明だが、楽園の一部の環境を再現しているそうだ。心が疲れた時、私は……よく……」

 ダルクロッサの声は、話の途中で音量が小さくなっていき、消えた。ハロルドはつられて、彼の竜面が向いている方を見る。ミラが小道の中で、何かに躍起になっていた。キュロットスカートの裾を翻し、子どものように跳ねたりしゃがんだり。彼女が手を振り翳す先には、鳶色の美しい蝶が舞っていた。光の加減によっては緑に見えたり、青く見えたりする。まるで踊るように、手の動きを難なくかわしていく。


 いや、そもそもだ。ハロルドは考える。何故ミラは、断りもなく捕まえようとしているのだろうか。自分が何者かを思い出し少し大人びたとはいえ、まだまだ彼女は学習途中だ。目を離すと何をするか分からないのは、変わっていなかった。

 ミラも、彼女の中のシェスカも、人間の世界より竜帯で育った期間の方が長い。人生の中では誰もが学習途中だが、人間としての経験はハロルドの方がミラより上なのだ。柵を越えて行こうとしたので、さすがに慌てて止めるハロルドだった。

「おい待て、小さい生物を虐めるな。それに、よその庭を荒らしちゃ駄目だ」

「綺麗なやつがいたから、捕まえようとしていただけだぞ」

「それが駄目なんだよ。ここで飼われてる生物なんだから、むやみに触ったらよくない」

「狩ってはいけない?」

「こういう場所の生物は、普通観賞用だから」

「そうか。見るだけか」

「見るだけ」

 ハロルドが言い聞かせていると、突然背後から妙な音がした。不規則に息を吸ったり、吐いたりを繰り返すような。振り向けばなんとダルクロッサが、俯いて笑いを堪えているのだった。普段の芝居じみた雰囲気は消えており、どうも素で笑っているらしい。こんな様子は、ハロルドもミラも初めて見る。仮面に包まれていて、声しか聞こえないのが口惜しい。一体彼はどんな顔をしているのだろうか。こんな風に笑うのだろうか。

「いや、他意はないよ。何だか微笑ましくてね」

 ダルクロッサはすぐに笑うのをやめ、真っ直ぐに顔を上げた。黒い角の先が空を切る。緊張しているようだが、ハロルドが懸念していた敵意の類はない。傍らのミラも怖がっていないのが分かる。杞憂だったのだろうか。ダルクロッサは二人の側へ歩いて来ると、右のポケットから何を取り出した。

「これを君に、持っていて欲しい」

 黒手袋に包まれた掌の上で、木漏れ日を反射する銀の輪。ハロルドは慎重に受け取り、指輪の内側を覗く。少し掠れてはいるが、アステールという女性名が読み取れる。間違いなく、母親の名だ。ハロルドが村を出る時、彼女の墓に置いてきたはずの指輪だった。

「これ、どうして……」

「もう何年も前の話になる。どうしても行かなくてはと、強い思いに駆られてね。そこで、これを見つけた」

「あなたが持っていなくて、いいんですか?」

「私が君に、持っていてもらいたいんだ」

 ハロルドにとって、意外な答えだった。知らないふりをされるか、はぐらかされると思っていたからだ。返事がない場合すら考えていたのに、即答されるとは。

「プロメテスが君達に、赤い竜の話をしたそうじゃないか。そんな事までされて、自分だけ知らないふりは続けられない」

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