ハロルドはカニスマヨルの頭に飛びつき、角を片方へし折っていたのだ。どうやったのか分からない。ただ、頭を振り回し苦悶するカニスマヨルの姿が目の前にあった。

 カニスマヨルは妹を掴んだまま、摺り足で後退して行く。シェスカがしきりに何かを叫んでいる。逃げて、だ。小刻みに震える幼い両足、恐怖に歪んだ翠色の瞳。汗で貼りついた黒髪の隙間から、何かが浮き出て来ている。ハロルドは目を凝らした。愛らしい頬に不釣り合いな、禍々しい鱗のようなものは、何だ。暗いので色は分からない。

 今だから判断できるが、あれは竜外殻ではなかったか。食堂でハロルドが竜体化しようとした時、腕から生えてきたものとよく似ている。シェスカは何故、逃げてと言い続けていたのか。竜体化してカニスマヨルと戦うつもりだったのではないか。カニスマヨルは飛び去った。妹を掴んだまま。置き去りにされたハロルドは、頭を抱えて咽び泣くしかなかった。いつまでそうしていいのか分からなかったし、いつまでそうしていたいのか分からなかった。


 どこからか、いつからか、人間らしき足音が近づくのに気づいた。母ではない、もっと重い足音。村にはもう誰もいなかったはずだ。ハロルドが蹲っている村外れまで、難なく歩いて来られるような者は。右腕を掴まれ、引っ張り上げられる。うちひしがれていたハロルドは、膝で立つので精一杯だった。一言声をかけられ、彼の正体を悟る。師匠だ。

 その男は容赦のない大人で、口にしたのは安心させるための言葉ではなかった。共に来いと、冷たい声で言うのだった。俺の持つ全てを、お前が生き残るためのものを、俺が教えてやらねばならないと。目深に被ったフードの隙間から、こちらを覗き込んでくる鋭い視線を感じる。ハロルドは恐怖を感じながらも、確認せずにはいられなかった。彼の顔は。信じがたい事に。





 何者かに揺さぶられて目が覚めると、見知った顔が覗き込んでいた。暗闇の中で黄金色の瞳が、宝石のように光っている。顔の距離は適切に離れていたので、ハロルドはもう驚かなかった。彼女もそろそろ、人との距離感を学習してきたらしい。好奇心旺盛で、何故か人間の真似をしたがる竜。大人のようで子どものような竜。角の生えた美しい少女の姿をしている、今は傷ついた群青色の竜。ミラだ。

 そう言えば、小型飛空艦の床で寝ていたのだった。ハロルドは念のため、声を押さえる。

「ミラ。落ち込んでたんじゃなかったのか」

 ミラもハロルドに合わせて、小さな声で言った。興奮を押さえ切れていないようだったが。

「私がいつまでも腑抜けたままでいると思うか? あの後突然襲われて、今まで戦っていたんだ。弱っている所に奇襲をかけるとは、卑怯な奴だ」

「その話、詳しく教えてくれ」

「私の竜体を寄越せと言ってきてな。そこからは食うか食われるかだ。お前達が色々な話をしていたのは知っていたが、返事をする余裕がなかった」

 ミラの興味は別のところへ移ったようだ。ハロルドの両頬を押さえると、色々な角度から顔を眺め回す。そして彼女は小さく唸った。唸ると言っても獣の威嚇ではなく、人間が不思議に出会った時出る音だ。

「あいつ、お前に似ていた気がするな」

 ハロルドが夢で見たものとミラが見たものは、どうやら同じだったらしい。自分の父親くらいの歳に見えたが、確かにあれはハロルド自身だった。壮年の自分に似ている何か。自分が師匠と呼んでいた、人型の何かだ。どうりで追って来る気配のひとつもない訳だ。最初からハロルドの中にいるのだから、追いかける必要がない。出てきたい時に出てくればいいのだ。

「お前も竜体を持っているなら、最初からそう言え。普通だったら、契約した瞬間に両方死んでいたところだぞ」

「そう言われても。俺が普通じゃないって知ったのは最近だし、今初めてあれが竜体だったって知ったからなあ。この場合、最終的にどうなる」

「竜同士なら、どちらかがどちらかを食って全て吸収する事になる。だが、我々の事例は稀らしいからな……どうなるか分からん。お前が竜の血を半分しか持っていないからか、あいつは体が不完全のようだった。本当の自分を思い出さないと、共倒れになるとか何とか」

「食べたのか?」

「いや、途中で逃げられた。次こそは食ってやる」

「食うじゃなくて、思い出さないと。ミラの本当の自分が何か分からないけど」

「そいつ、信用できるのか?」

「経験上、師匠は俺を生かすために動く。今回も多分そうだ」

 物騒な言い方をするものだ。彼女はハロルドと繋がっているから、現在置かれている状況も概ね理解しているだろう。ハロルドは短く溜め息をついて、水筒の水を一口飲む。あまり深く考えると熱が出そうだ。二人はしばらく無言だった。静かな空調の音に混じって、ジーナの寝言が聞こえる。何だかよく分からない意味不明の言葉だった。セドリックは椅子に座った姿勢のまま、微動だにせず項垂れている。人間からすれば死んだように動かないというやつだ。

 睡眠中の自動人形を、ハロルドは初めて見た。目には光がないせいもあって少し不気味だ。もう一度横になる気になれずぼんやりしていると、再びミラによって静寂が破られた。彼女もまた、セドリックの方を見ていた。

「セドリックの奴。こそこそしないで、最初から全て説明しておいてくれれば、無駄な疑念を持たずに済んだのだが……」

「俺達が事実を受け入れられるか、心配してくれてたんだろう。確かに出会ったばかりでそれ言われても、俺は納得できなかったと思う」

 ミラは頷いた。ミラのセドリックに対する誤解は解けたと言っていいだろう。ハロルドは次の目的地へと思いを馳せる。空中要塞プロメテス。もちろん行った事はなく、初めて聞く場所だ。新しい刺激に満ちている予感があった。願わくはミラが、本当の自分とやらを思い出せればいいのだが。



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