ハロルドは訝しんだが、ただ考えても分かりそうにない事柄だった。思い込みで何とかなるものなのだろうか。しかし彼女の言う通り、息が苦しくなくなったのは事実だ。死ぬ寸前だから感覚が麻痺している、という訳でもなさそうだ。破裂しそうになっていた心臓が、命の危機はないと判断し緩やかな鼓動に戻って行く。そうなれば水の冷たさも心地いいものになるし、周囲を観察する余裕もでてきた。



 ほどなくして二人は、湖の底に辿り着く。上から差し込む光が、ところどころに白っぽい模様を落としている。二人の目の前には、見上げるほど大きな白い岩があった。ところどころ骨に似た形状の突起が飛び出している。生物、だろうか。

「底に近づいたらね、この人がわたしに話しかけてきたの」

 カノープス。カノ様の川、その名の由来となった竜。村に清流があるのは、この竜のおかげなのだと言い伝えられていた。水の力を持つ竜が沈んでいるから、豊かな川が生み出され続けていたのだ。ハロルドは感じ取った。白い表面が淡く発光すると共に、思念のようなものが流れ込んでくるのを。幼いシェスカが確かに聞いた、カノープスの声だった。言葉と表現できるほど明確なものではなかったが、言わんとする内容は確かに伝わった。


『戦いに疲れ、肉は崩れ、核の機能も低下してしまった。どうか、そこの竜体形成不全の竜よ。わたしの肉を喰い、補修して欲しい。あなたの血肉となったなら、きっとまた、何度でも、空が飛びたい』



 水から上がると、兄妹はずぶ濡れになっていた。二人で遊んだ日々を思い出し、どちらからともなく忍び笑いが零れる。小声のはずが、やけに大きく響いた。泥や水で体中おそろいに汚して帰り、よく母に叱られたものだ。懐かしい日々を思い出しても、今は寂しくはない。隣で妹が、シェスカが笑っているからだ。二人の世界は飛び込む前と同じで、虫の声ひとつしない静かな湖畔のままだ。片手を繋いだまま、隣り合って腰かけた。

「わたし達ね。本当は、一人で産まれるはずだったんだって。二人でひとつなんだって」

「誰が言ってたんだ?」

「フォーマルハウトさん」

 フォーマルハウトは竜族であり、真竜だ。人間でいうところの学者に似た立場だと、シェスカは言った。空の人々が『竜帯』と呼ぶ場所に、その人物は……いや竜は、住んでいるという。

 そう言えば、とハロルドは思い返す。デネブと出会った時、彼女も竜帯から来たと言っていた。途方もない。何せ竜帯は、世界の果てのそのまた向こうだ。そんな場所で自我を持った竜達が共同体を築いているとは、にわかに信じがたい。竜帯は空からでは単なる銀色の輪にしか見えず、機械的に竜を投下している印象しか受けない。しかし実際に行って、人間や人形族とは違う知的存在と交流した人物がいる。それが目の前のシェスカだと言うのだ。

「お兄ちゃんを助けようと思って竜化した後、もう無我夢中で。気がついたら、カニスマヨルと世界の果てを越えてた。当然だけど、わたしじゃ全然歯が立たなくって。殺される! って思ったその時、偶然通りかかったデネブさんが助けてくれた。その後は、竜帯で育ったんだ」

「竜帯ってどんなところ?」

「総司令っていう、一番強い真竜が一番偉いの。中はすっごーく、横に長い。あとね、ご飯が美味しくない」

 両手を限界まで使って形を表現し、食べ物について話す時には渋い顔と忙しい。彼女の説明は大雑把過ぎて、あまり参考にならない。

「人間はいる?」

「もういないみたい」

「真竜って何体いるんだ?」

「あんまりいないよ。両手で足りるくらい。多分。真竜じゃない他の人は、液体の中にいて、大体いつも寝てる。まるで産まれる前の赤ちゃんみたいね」

 しかしハロルドにとって、情報の内容自体は重要ではない。シェスカが楽しそうに語るので、それでもよかった。今はただ、彼女と話がしたいのだ。きっと彼女も、ハロルドと話がしたいのだ。心に空いた穴を、あたたかいもので埋めるような作業に思えた。それで少しは修復されたが、見つからない星がまだひとつ残っている。カニスマヨルだ。

「俺が空で見た事、君にも見せてやりたいと思ってたんだ。聞かせようか」

 シェスカは首を横に振る。

「わたしも一緒に見てるよ。見てたんだよ。お兄ちゃんとわたしの竜体を馴染ませるために自分を使っちゃったから、心の一部しかこの場所に残ってないんだ。お兄ちゃんは気づいてなかったし、わたし自身も忘れちゃったんだけどね」

 今にも泣き出しそうな顔になるシェスカ。彼女につられて、ハロルドも同じような表情になってしまう。

「でも、仕方ないよ。あの時死にかけてたお兄ちゃんの前に落ちてなければ、きっとわたしも死んでたから……カニスマヨルにやられて」

「そうか……」

 ハロルドは一度、宙を仰いだ。瞼で蓋をしないと、きっと涙が溢れてしまう。そう思って目を閉じたのだが、隙間から勝手に零れた。慌ててうつ向き、鼻を啜る。手を繋いでいるシェスカが、握る力を強めた。人間の体温を感じる。氷竜ミラが忘れているものが。何があっても壊れないよう自ら奥底に封じたものが、ここにある。

「シェスカはずっと、俺と一緒にいてくれてたんだな」

 どちらからともなく互いを抱き締め、瞬きの合間に静かに涙を溢した。名残惜しいが、この場所にずっといる訳にはいかない。ハロルドは彼女の後頭部を撫で、気合いを入れて立ち上がる。元来た道を戻れば、夢から覚めるだろうか。先へ進もうとしたのは気持ちだけで、ハロルドは一歩も踏み出せなかった。やはり振り返って、シェスカの様子を確認してしまう。

「さあ、行って。わたしは、いつもお兄ちゃんと一緒にいるよ。この場所をしっかり守ってるから。ミラちゃんとも仲良くするんだよ?」

 シェスカは悪戯っぽく笑って、ハロルドの背を叩いた。無理をしている。気がついたその瞬間に、ハロルドを支えていた地面が消えた。妹の仕業かどうかは分からないが、どうやらまた湖に落ちるらしい。またね、という声が聞こえた気がする。自分の悲鳴すらも、くぐもった水の音で掻き消された。



 転がり出た場所は、暗闇の満ちた空間だった。体の痛みを感じながらも、ハロルドは立ち上がる。寒さも暑さも分からないが、自分の呼吸音が聞こえるので音はあるらしい。視界の方は、いくら見渡せども闇しか見えなかった。シェスカはどこに行ってしまったのか。破壊される前の懐かしい村の光景は。カノープスの沈んでいた、清らかな湖は。

「やっと、繋がったか」

 背後から声がかけられる。慌てて振り返れば、古びた外套を纏って立つ師匠の姿があった。いつ、なぜ、こんな場所に。ハロルドが混乱している反面、落ち着き払っている彼はゆっくり面を上げる。目深に被ったフードの隙間から見える顔に、ハロルドは息を呑む。母に似た黒髪、自分やシェスカと同じ翠色の目、そして。

「せっかく空まで出たというのに、良かれと思って酷い結果を産んでしまったな。お前が俺に従う時期は終わった。俺の体も損傷が激しい。要は潮時なんだろう」

 自分の顔に見えないだろうか。ハロルドは考えた。少し老けているがやはり似ている。外側から聞こえる自分の声が、不気味な気配を連れている。改めて目の前にして知る。今まで見ていたものは、真似て来たものは、何だったのか。師匠と呼んでいた人物は、自分の竜体で間違いないのか。ハロルドの口から情けない声が出てしまう。

「何ですかその顔、俺じゃないですか」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る