第三章 凶星よ境界の空で眠れ

第一節 二人の真実

 誰かが叫んでいる。



 ぼんやりとしたり、部分的にはっきりとしたり、遠くなったり、近くなったり。同じような言葉を放っているらしい。短い単語だ。何度も聞く内に、ハロルドは気がついた。声の主は、誰かを呼んでいるのだと。一体誰が、誰を、と考えた直後だった。



「おにいちゃん!」


 心臓を強く殴られるような感覚と共に、両目が見開かれる。驚いた流れで上半身を起こしていた。ここは故郷の村だ。自分のベッドから飛び起きたのだから、間違いない。固く握りしめていたのは、兄妹が小さい頃に使っていたお気に入りの毛布だ。今思えば上等な生地ではない上にかなり使用感があったが、村にある布の中では防寒性能の高い方だ。母親が無事双子を産んだ時、隣の家が譲ってくれたものだった。自分がどこにいるかは理解した。しかし、何故こんな場所にいるのかについては首を捻るしかなかった。アステラス号の仲間と共に、空中要塞プロメテスのホテルにいたはずなのだ。浸かれる風呂には、もちろん入ってみた。清潔で暖かいお湯が循環していて、大変いいものだ。大袈裟でなく、心までも洗う効果がある。

 プロメテス公爵からされた話が気がかりだったが、一旦脇に置いておくべき事だ。今は休息が優先される。晩にも生活質の高い食事をした。ベッドの布地は肌触りがいいし、マットが適度に柔らかい。妹や母親に見せてやりたい物事だらけだった。気晴らしにアミス達と一緒に内部の散策をし、色々な自社社員や従業員と出会った。初日から張り切り過ぎた事もあって、部屋に帰るなり疲れて眠っていたはずだった。


 そのはずが。目が覚めるとそこは、高級宿泊施設ではなく、古くさい家である。故郷の家は、おおむね記憶そのままだ。しかし、言い表せない程度の些細な違和感がある。記憶というものは劣化していくから、思い出した時に食い違うものもあるだろう。そう言えば、ミラと一緒に寝たのだった。理由としてはベッドがひとつしかなかったからだが、特に緊張せず入眠できた。確かに彼女の顔は、人形のように美しい。しかし目を閉じてしまえば、まるで家族と寝ているかのような感覚になっていた。隣にいたはずのミラはいないが、さっきまで誰かが寝ていた痕跡はある。皺のつきかたを見れば分かるものだ。

 周囲を見渡しても、誰もいない。人間どころか動物の気配すらもなかった。使い古した暖炉からは細々と炎が出ている。出かけたというよりは、突然全てが途切れてしまったかのようだ。いつまでも動かないでいても仕方がないので、寝床から降りてみる。

「やっと届いた。お兄ちゃんってば、いつまでも小さいわたしの方しか見てないんだもん」

 今、妹の声がしなかっただろうか。少し大人びてはいたが、絶対に彼女の声だと確信があった。外だ。ハロルドは走り出し、立て付けの悪い扉を乱暴に開ける。木屑と埃が舞う中、転びそうになるのを踏み留まる。ハロルドと同じくらいの歳の、黒髪緑目の少女。彼女がこちらを見ている。家の石壁に寄りかかる、シェスカがいた。

「最初から誰もいないよ。ここは私達の心の中だから」

 長い間会いたかった、たった一人の家族だった。シェスカが動いて、笑っている。小さい頃着ていたようなものと違う、少し大人びた服を着て。幼少期の面影を残す、懐かしい顔で。

あの頃の彼女はハロルドによく似ていたが、今やすっかり成長していた。笑ったところなど、母親に近い印象を受ける。と言っても、ハロルドは父親の顔は全く知らないのだが。

「俺は、夢を見てるのかな」

「ちょっと違うかなあ」

 シェスカは屈託のない顔でまた笑う。ハロルドがどんな思いで探し回っていたか、彼女は知っているだろうか。

「夢って言ったら夢なんだけど、現実でもある、っていうか」

「ますます分からない」

 困惑するハロルドの様子も、彼女にとっては想定内らしい。悪戯っぽく、お兄ちゃんには分からないでしょうね、なにせお兄ちゃんですからね、などと言う。

ハロルドはますます妙な顔になってしまう。ひとしきりからかった後で、シェスカはついに壁から背中を離す。そして短く息を吐き、気合いを入れた。

「ついて来て。見せたいものがあるから」



 ハロルドは言われた通り、シェスカについて行く。カノ様の川に到着するが、まだ目的地ではない。最初は川沿いを歩いていただけだった。途中から雑草だらけの坂道を登らされたり、岩だらけの短いトンネルを潜らされたりするハロルドである。このトンネルは体が小さい方が楽だろうが、子どもが行くにしては大変な道のりだ。本当に、小さな少女が通ったのだろうか。するすると進むシェスカに対し、ハロルドは度々つかえそうになってしまう。双子も成長すると、体の大きさに差が出るものだ。

「でもわたし、行けたよ。青いお姉さん……わたしの竜体が教えてくれたから。これは風邪なんかじゃない。辿り着けなければ、このまま弱って死ぬんだって」

 差は他にもある。シェスカの竜体も不完全だったろうが、ハロルドのよりははっきりしていたようだ。当時のハロルドは、自分に竜体があるのを少しも感じ取れなかったのだから。

トンネルが終われば、また坂道だ。背の高い草を掻き分けて顔を出し、前方が開けた場所だと理解した。ようやく到着だ。妹は少し離れたところで、振り返って待っていた。細々と上から差し込む光の中で、手を降るシェスカの姿。肘や膝の辺りに泥がついている。

 ここは恐らく、カノ様の川の源流地点だ。距離としてはそこまで村から遠くないが、道中が険しいため疲労感がある。村の人間の殆どは、源流まで来た事などないだろう。ハロルドが見る限りでは、人の手が入っている形跡はない。だが、蔦の絡みつく錆びたパイプや、岩とは違う質感の平たい壁が、異様な存在感を放っている。かつてこの場所が何らかの人工物だった事を思わせる。中央にちょっとした泉があり、クローバーが群生していた。透き通った水が満ちていて、そこから一本の川が流れている。下流方向には、ハロルド達の村があるのだ。

「小さい頃に、カノ様の川でわたしが溺れたでしょ?」

 ハロルドは頷いた。次の瞬間、シェスカは何でもない事のように地面から離れた。自然な動きでハロルドの手を取り、足から泉の中へ。突然全体重をかけられ、抵抗する間もなく。

「この辺で落ちたの」



 二人は飛び込んだ。冷たい水がまとわりつく。思った以上に深く、足がつかないどころではない。吸い込まれるように沈んで行く。息が苦しくなってきた。水面へ向かおうとするが、シェスカが邪魔をする。口から踊り出た空気が玉となり、乱雑な動きで次々上へと逃げて行った。

「殺す気か!」

「お兄ちゃん、大丈夫だよ。落ち着いて」

 やけに落ち着いたシェスカの声がする。何が大丈夫なのか。何故彼女は、水の中で喋れるのだろう。そう考えてからハロルドは、自分も普通に喋っていた事に気づく。

「普通人間は水の中で息ができないって思うから、そうなっちゃうんだよ。わたし達は竜の子だから、大丈夫。たとえこの夢が覚めても、世界の果てに行ったとしても」

 シェスカはハロルドの片手を握る。冒険という名の散歩に出かけた時のように。彼女はいつでもハロルドを引っ張り、危なっかしく前を歩いた。今、その時ほどの不安はない。二人でゆっくりと、水の中を降下し始める。不思議な現象があるものだ。

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