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そして今も、お絞りで手を拭く事でやりすごそうとしている。ダルクロッサの黒手袋を脱いだ手には、両の薬指に指輪が嵌まっていた。銀色に光る何の装飾もない指輪だが、彼にとっては両方何にも代えがたい特別なものだ。返事をしなかったので、セドリックは言葉を続ける。
「それに、アルフリート爺さんの遺言はどうする。強きを挫き弱きを助く船団を作り、いつか真の楽園を目指す旅に。お前それが条件で、あの飛空艦と遺産を継いだんだろうが」
ちょうど作り終えたバーテンダーが、同じ酒をカウンターに並べた。銘柄の軽い説明があったが、思考に集中していたため聞き逃してしまった。だが、それでもいい。今日は、それで。ダルクロッサは礼を言いつつ受け取る。取っ手はなく、高さが低めのグラスだ。
ダルクロッサはすぐに口をつけなかった。せっかくなので観察してみよう、と考えた。目線まで持ち上げ、中にたゆたう液体を眺めてみる。芳醇な香りがする、濃い琥珀色をした酒だ。透き通った丸い氷がひとつ入っている。涼しげな照明を取り込んで、角度を変えるたび不思議な色合いを魅せる。ダルクロッサは黄金の瞳を開いたままでいる。今までも、これからも。
竜は、瞬きを必要としない。涙液で角膜を保護する必要がないからだ。人型端末形態の竜と普通の人間を、誰もが簡単に区別できるようにするためでもある。古代人達が設定した、恒久的に削除不可能とされる特徴のひとつだった。
「アルフリートさんの夢、か。それは君に引き継いでもらおうかな」
「冗談じゃねえ。俺は条件のいい環境で研究させてもらえそうだったからお前さんの下に入っただけで、命を賭けた大冒険がやりたい訳じゃねえんだよ」
「冗談だとも。後継については、先日言った通りだ。臨時でライノに任せて、それから……」
「あいつか?」
「いいや。そこに口を出す気はないよ。相応しいか、やる気があるかが大事だ」
「お前さんは相応しかった。仕事中はちょっと盛ってるけどな」
セドリックは冗談めかして言い、グラスを傾け一口飲んだ。それから溜め息音を発する。
「仮面を被ると派手になるからね。服装と振る舞いも上げておかないと、頭ばかり大きくて振り合いが悪いだろう」
ダルクロッサはいつもの声、いつもの調子で返す。
「常に相応しくありたいとは思っていたよ。いつかきっと、アルフリートさんの夢を真にしてやりたいとも。ここでの生活だって、楽しいものだしね。だが現実は、いつまでもそうさせてくれなかった」
すぐに返事をしていたセドリックが、何も言わなくなった。この店を指定した彼は、やはり待っているのかもしれない。隣の友が、自由になる時を。仮面の奥に押し込めていた、個人的な感情を出せる場所を。
「そうだね、私は」
「無理をしていたんだ、ずっと」
いつもの声、が出せない。自分の喉から出たとは思えないほど、老人のように弱々しく、おまけに少し掠れていた。
隣の自動人形は、静かに背中をさすってくる。セドリック・ロウは量産型の枠内を逸脱し、自らを改造してまで個性的に生きたいと望んだ。だがその本質は、人に寄り添い、人を守るために作られた自動人形。人の心身を静かに見守り、受け止めてやる事を機能のひとつとする。ダルクロッサの体を構成する組織は人間ではなかったが、その精神構造は人に極めて近いものだった。彼が人の世に降りたのは、数十年前の事だ。以来ずっと人の中で生活し、人の心に触れていたせいだろう。いつしか人型端末の外見が、人間のように歳を取るようになって行った。酒を飲めばこうして酔えるモードも習得している。彼はダルクロッサを、人間と認識しているのかもしれない。
「アステール。どうして君は、私に何も告げず、いなくなってしまったのだろうね」
ダルクロッサは、もういない人間に語りかけた。一語一語を噛み締めるようにして呟くと、グラスの中身を一口流し込む。酒の度数が強い事は分かっていたが、また一口。格調高い苦味。一口。心地好い香り。もう一口。空の体内に次々酒を入れる。グラスを空にする頃には、紛雑な感情に襲われていた。みるみる内にテーブルの上へくずおれる。人間で言う胃にあたる場所はほんのりと暖かい。一方両手には、冷たい石が手に当たって心地がいい。しかしそれだけだった。彼を核から焼き続ける業火が、消える事は決してない。
「子どもがいたなんて。二人も」
これはダルクロッサ自身の炎だった。命そのものであると、彼自身も解っている。生きている限り燃やされ続け、生きている限り止める術のない炎。自分のみならず、時に触れたものまで燃やしてしまう。真っ白に枯れた湖の底で、身も凍るような水を求めている。あの日以降、探し続けていた。
「仕事がもう少し安定して安全になったら、絶対迎えに行くと約束をしたんだ。だが、女王の兵が事態を嗅ぎつける方が早かった。たった一人で子どもと私を守ろうとして……どんなに心細かっただろうか」
小さな声が、静かに、点々と絞り出されて行く。ダルクロッサは、苦しげな表情を隠そうともしなかった。彼は、自分が今どんな顔をしているか知らない。殆どの時間仮面をつけているため、他人のために表情を作る必要性に駆られなかったのだ。背を丸めたまま、左薬指に嵌まった指輪を見つめている。
「この心を、感情を。どうすればいいんだ。私は」
全てはハロルド・フォーサイスを見つけた時、ダルクロッサ自身が決めた事だった。仲間達も事情を理解し、覚悟も決めて準備を進めてくれている。彼とて覚悟をしていたはずだった。
心が、心だけがついていかない。確かに何も言わないでいるのは心苦しいのだが、真実を口にする勇気がなかった。彼が向けてくる感情はあまりに真っ直ぐで、何が起こるか予測がつかない。あるいは真実を知ったハロルドが、彼の言う『復讐と恩返し』を止めてしまうのが恐ろしかった。狂ってしまったカニスマヨルを倒せるのは、もはや彼しかいないからだ。
「まあ、飲めよ。今日は。飲んじまえよ」
セドリックの声が降ってきて、目の前に新しいグラスが置かれる。グラスの形、香り、色、全て同じだった。いつの間にか、同じものを注文してくれていたようだ。
「普通なら止めるところだが……」
医者だからな。隣に座る友は、誠に不服であると言わんばかりだ。ダルクロッサは無言で肯定を表し、静かに口をつけた。自分が許される事は永劫ないと、ダルクロッサは思っていた。結末は決まっている。だが、必ず向き合わなければならないのは確かだ。今はまだ、答えが出そうになかった。明日がくれば。最悪の場合、その瞬間まで。
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