初めて見る光景だった。抜けるような青い空と少しの白い雲。下の方には灰色の雲が滞留している。遠くに細長い銀の帯のような物体が、斜めに聳えている。表面を走る黒い筋は模様かもしれないし、深く刻まれた凹凸かもしれない。

 いや聳えているのではない。あまりに巨大だったため、ハロルドの首がぐるりと捻られる。それでも全てを視認する事などできはしなかった。まさか、世界を一周回っているのか。

「ハロルド、あれが竜帯だ。竜帯は、竜が目覚めては還る場所と言われてる。鋼鉄女王が言うには、浮いた輪っかのように世界の外側を一周しているんだってさ」

 手頃な席へ腰掛けながら、レイチは説明してくれる。エリテンシアも彼の隣へ腰を下ろしていた。ハロルドは向かいで盆を置いた後、言葉を失い立ち尽くす。竜が雲の上から飛来するのは知っていたが、具体的にどこからなのかは初めて知った。

 ハロルドは竜に意識を向けてみた。己の中でミラが、食事に絶大な興味関心があるのが分かった。中でも四角い肉が気になるようで、食べないのかと問いかけてくる。自分が産まれた場所が見えるのに気づいていないのか、忘れてしまったのか、少しも気にならないのか。のんきな彼女はあんな場所から落ちてきたのだ。あんな、途方もないところから。

「あそこは僕らの世界とは違う世界で、水も空気もない闇……いかなる生者も存在できない世界の果て、と言われる。鋼鉄女王は場合によって、竜帯を破壊する事も考えているんだってさ。人が竜や竜瘴の影響を極力受けず、安全に暮らせるようにね」

「討つべき敵を失った今、竜の牙がどこへ向かうか分からないから」

 鋼鉄女王とは、都市を管理する最上位の自動人形だ。ただでさえ少ない上層民の中でも、一握りの人間にしか謁見が許されていないので謎が多い。かつて共に戦ったはずの三つの種族、人間と自動人形、そして竜。いざ共通の敵がいなくなると、人々の驚異として認識されるという訳だ。『大いなるもの』とは何だったのか、どういう戦いだったのか。人々が世代を重ねるうち御伽噺の域となってしまった。竜の翼がばらまく瘴が、生物世界を変質させる方が驚異となった。何だか寂しい話である。それにスケールが果てしなく大きく、今まで小さな世界で生きてきたハロルドにとっては現実感がなかった。

「いや無理だろ。世界の果てに存在する物体が、遠くからでもあんなに巨大に見えるなら……」

 実際どれだけ巨大なものか、想像もつかない。しかも世界の外側を一周している。どれだけ住んでいるのか分からないが、もしも竜が一斉に牙を向く事でもあれば、人間などひとたまりもないだろう。女王はその可能性まであると考えているようだ。冗談ではない。


 ただただ圧倒されていると、痺れを切らしたミラがハロルドの肩を揺さぶる。もっとも彼女は身体の中に収まっているので、物理的にではなく精神的感覚のみなのだが。

『早く座れ。口に入れてみろ。この食べ物をくれた女が、滅多にないごちそうだと言っていたな。セドリックがくれた食べ物よりも、ずっとずっと素晴らしい味がするんだろうな』

 医務室の食事は病人用だから、味が薄くて歯応えがなくても仕方がない。薬は苦いものだし、口に入れるものが全て栄養摂取目的とは限らない。弱った人間にはその辺りの調整が必要なのだと説明しておく。この機会だから、ついでに竜帯についてどう思うかを聞いてみる。

『あれか。いずれ帰る場所だが、今は興味ない』

「ちょっと淡白過ぎないか?」

 途中から声に出してしまっていた。エリテンシアが頬杖をついて、何とも表現しがたい顔でこちらを見ている。よくない意味の表情には見えなかった。微笑ましい、懐かしい、とでも分類すればいいだろうか。ハロルドはひとつ咳払いをして、いい加減席につく。埋まっていたはずの椅子がひとつ空いている、と気がつき見渡せば、三人分の水を持って立つレイチが視界の端から滑り込んでくる。礼を言うエリテンシアに、ハロルドも慌てて続く。中身をこぼさないようひとつひとつ配りながら、レイチは口を開いた。

「アミスに冷たくされてない?」

「凄く嫌味を言われますね……」

「それは元から」

 エリテンシアが、愉快そうに口を挟んだ。やられる方はたまったものではないのだが。回避の仕方を知っているなら、是非とも教授して頂きたいものだ。

「君が来てくれたから、標的が分散するんだよね。ありがたいね、前まで僕だけやられてたの」

 被害を受けているとは思えないほど呑気に喋りつつ、レイチの体は元いた席へと収まった。早速フォークを右手に取り、肉の端を削って口に入れる。

「うん、美味いよ」

 その言葉をきっかけに、ようやく食事が始まった。エリテンシアがパンを小さく千切る。

 口に入れる。乱雑で静かな咀嚼音。発生しては泡のように消える雑談の音が、ゆっくりと周囲に戻ってくる。ハロルドもスープの器を持ち上げ、啜ってみた。やや冷めていたが、味は悪くない。どこかの誰かの笑い声。身体の中で肉はまだかとミラが言う。エリテンシアがぽつりぽつりと話し出し、周囲の音があっと言う間に遠ざかる。

「最近、一人欠員が出て……だからあなたがここに来てくれて、ちょっと助かったわ」

 同意しつつ中のものを飲み込んでから、レイチも口を開く。

「アミスは隊長として、責任を感じているんだろうな。社長からも期待されてる。カリカリしてるところばっかり見せてるだろう、僕から謝らせて欲しい。まだ引き摺っているのに、新人を教育して仕上げろと言われてもなあ」

「言われてもなあ、じゃないでしょ。あなたが押しつけたんじゃない」

「勘弁してよエリィちゃん、僕には率いるとかそういう役は無理なんだって」

 ハロルドの頭にある疑問が浮かぶ。

「もしかしてその欠員っていうのは」

「隊長」

 そんなまさか。ハロルドは初めてアミスに同情した。次々不運な目に会わされれば、どこかに当たりたくもなるだろう。全てを水に流す気などないが、少し気の毒ではある。

「何か、凄く冷静なんですね」

 人が一人死んだというのに。この言葉は幸いと言うべきか、喉の奥につかえて出てくる事はなかった。エリテンシアは寂しげに、食べかけの食事が乗ったテーブルに視線を落とした。

「竜と契約した時に、以前までの私という人間は死んだのよ。大抵の事はもう怖くない。先輩として、みんなを支えないと」

「僕は……こんなところまで来ておいて、まだちょっと割り切れない、かな」

 レイチは片手を伸ばして、暇そうに遊ぶ長めの白髪に触れている。竜の契約者として先を行く彼らの言葉は、ハロルドにとって重く、はたと考えさせられるものだった。力が手に入ればどうでもいいと即決した自分は、何年か経ったらどうなっているのだろう。刺し違える事もあり得るつもりでいたが、復讐の先など考えていない。エリテンシアのように達観するのか、レイチのように運命を恐れるのか。

 ハロルドは気を紛らわすため、ようやく肉を口に入れる。臭みや筋がなく、全体的に食べやすい。どんな動物の、どこの部位なのかは不明だ。酷い食事を知っているハロルドはとても美味しいと感じたが、ミラは違ったようだ。彼女はぽつりと、あまりに期待をし過ぎたらしいと呟いた。年端の行かない子どものようだ。一体彼女は、どこまで過大な妄想を広げていたのだろうか。思考を開示するなり即座にミラが怒り出すので、堪えられずに少し吹き出してしまう。思えばミラは地上に来たばかりで、肉を口にするのは産まれて初めてだった。


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