両目が、開く。大きく。血が全身を駆け巡り、緑色の瞳に黄金の欠片が滲む。ここで死ぬと思ったはずなのに、死にそうだったはずなのに、不思議な事だがその瞬間だけ、好調時と同じだけの力が出た。長年の修練の賜物と言うべきか、本能と反射神経が促す後方へ体を捻り、靴底を鳴らし転がるように距離を取る。


 甲高い音が一直線に落ちてきた。ハロルドの頭上から凍てつく風が、天から地へと駆け抜けて行く。白い筋が乾いた地面へ放射状に刻まれ、敵の中心で荒れ狂う風を起こす。魔法のように、鋭利な剣が生まれた。氷だ。水一滴すらない干からびた大地に、突然氷の花が咲いた。

 前方の幻獣達は巻き込まれ、上へ飛ばされる。そうして落ちてきたところを、ことごとく凍った刃に刺し抜かれた。透き通った花弁は、敵の血で先から根本へと黒へ染まり、濁って行く。


 一方ハロルドはというと、体の表面がひやりとするだけで済んだ。さきほど取った行動は的確だったようだ。なけなしの神経と力を振り絞ったためか、非常に疲れた。気づけば目蓋から、すっかり力が抜けていた。緩慢な動作で目の前の物体を観察する。普通の氷のようだが、群青色の巨大鎧が一人天辺に。


 いや、次の瞬間姿は少女に変わった。十六、七くらいの、何の武器も持たない、体格も普通の少女。一糸纏わぬ姿で、群青に光る髪を靡かせ、こちらを見下ろしている。よく見れば臍も何もかもがなく、体表面が人形に近い。

 髪と同じ色の長い尾と、頭には丸みを帯びた一対の角。幻妖を相手にしてきたこの男が、畏れを感じるほどに清高な姿。格が違う。


 人成らざる黄金色の瞳と視線が交錯する瞬間が、やけに長く感じる。あれは竜。空の向こうより流星のように現れ、強大な力を持つ。古くから人と共に在ったと、語り継がれる謎多き種。最初の竜が大地に降りた時、幻獣種が産まれたとも言われている。


 とりあえず直近の危機は去ったらしい。安心した直後転びそうになり、長剣を直接地面に突き刺して耐える。突然の目眩に襲われ、手足が震えて言う事を聞かない。そんな状態だったので、彼女が飛び降りてきたのに注意を払えなかった。

「大丈夫か?」

 顔が突然至近距離に現れたので、ハロルドは心臓が強く掴まれる思いがした。全く理解し難い事に、初対面の人間の間合いを躊躇いなく侵してきたのだ。彼女は不思議そうに首を傾げた。形のいい、意思の強そうな瞳をしている。声色などから害意の類はなさそうだと判別できるが、何故こうも警戒心がなく無防備なのか。やはり彼女は強き者であり、ハロルドなど少しも脅威に当たらないと判断されているのか。幻獣達を容赦なく氷で刺し抜いた、あの冷徹な姿との齟齬に混乱する。服を着ていないにも関わらず恥じる気配が微塵もないのが、心までも人間でない事を物語っている。

 ハロルドが口を開けると、意図と違う妙な干からびた声が飛び出した。余計に不信感を与えたかもしれないと焦り、とっさに体を動かした拍子に尻餅をついてしまう。彼は自分で思うに口下手な方だったが、別にそこまで会話ができない訳ではない。ずっとそう思っていたし、多分そのはずだった。しかし他人と喋っていない期間が長過ぎたため、自然に適当な言葉が出ない。地面に突き立てていた剣から、手を離している事にも気が回らなかった。掠れたような音が、ただただ口の端から漏れるばかりだ。恐らく年下の、しかも女の子の前で何とも情けない、と彼は脱力した勢いでそのまま後ろに倒れる。正確には少女の姿をしているだけなのだが。

「すまない。まさか、気絶するほど怖がらせてしまったなんて」

 不思議な少女は謝罪の後、側にしゃがんだ。彼女は何か勘違いをしているようだ。気絶などしていないのを伝えるため、顔を動かして相手を見上げる。しかし一人でなくなった事により、気合いを入れていないと意識が途切れそうだ。彼女が人間の形をしているから、身体はどこかで同種だと思っている。だが、助けてくれたのは確かだ。

「目覚めたばかりだから、制御が上手く行かなくて」

 ハロルドは敵意を見せない事で、彼女に答える。それにしても、何故こんなところに竜が落ちてきたのか。目覚めたばかりとはどういう意味なのか。髪も肌も綺麗で、顔も人形のようだ。小綺麗な服を着て装飾品をつければ、良家の娘と言っても違和感がない。

「お前のその剣。何だか嫌な臭いがする」

 返事をしようとすれば、また気色の悪い声が出てしまいそうだ。ハロルドは何も言わず、片手を上げて軽く振るだけに止めた。剣を向ける気がないのだけは伝えたい。竜は表情をようやく和らげ、一度小さく頷いた。どうやら分かってもらえたらしい。

「そういえばお前、名は何と言う? さきほどから意味ある事を何も言わないが、もしや言葉が喋れないのか? 人の言語を知らない? それとも凄く無口なのか? 私の言語が間違っていたか? 何故動かない?」

 上半身を抱き起こされながら、矢継ぎ早に質問をされる。顔が近くに来たので、長い睫毛までよく見える。状況の処理が追いつかないハロルドは、いよいよ困ってしまった。脳に予想以上の負荷をかけられ、意識が重く沈んでいく。体を繋いでいる撚り糸の端から、何かが一本ずつ千切れていく音がする。いよいよ最期かもしれないと思うと、今更悲しい気持ちが胸を覆って行く。乾いた唇が上手く動かないのが、とてももどかしい。白く柔らかい腕に、音に、光に、世界に。今度こそ置いて行かれる。遠くで何かが唸るような音が、耳の奥にこびりついて離れない。先ほどと同種の死鬼の気配がする。それが、次第に増えて行く。


 ハロルド・フォーサイス。彼が自らを表すその単語は、しっかり言えたか。果たして彼女に届いただろうか。言い終えたと思った直後、意識が自分の肉体から浮き上がる感覚があった。





 ハロルド・フォーサイスには父と母がいて、双子の妹がいた。ハロルドの中にいる父の顔は、いつも朧気だ。母が兄妹を身籠った頃に出て行ったらしく、母の思い出語りの方がよく記憶している。妹はハロルドと同じ緑の瞳と黒髪を持っていた。名をシェスカという。

 何の変鉄もない家庭だった。住んでいたのは聖国外周部分の下層。首都の情報が届くのに何ヵ月もかかるほどの、前時代的な暮らしの残る田舎。動いている魔霧機関は灯りくらいしかなく、修理できる者など誰もいない。時々薬売りや行商が訪ねて来るくらいである。最下層に近いこの場所には、僅かな水がと多くの土が残っていた。暖かい時期になると、強い大人達は狩りに勤しみ、他の大人と子どもらは植物の栽培と採集をした。寒くなってくるとそれぞれの収穫物を皆で分け、大人達が狩ってきた下級幻獣の肉を干す。夜に暖炉で身を寄せ合い、昔話をしながら温かく煮た家畜の乳を飲んだ。そんな生活だった。


 突然足の裏に何かが触れ、目を開く。転々と落ちている濡れた土の匂い、水の流れる音、苔の表面を跳ねる優しい陽の光。足元を流れる川を見下ろしながら、ハロルドは立ち尽くしていた。不思議な状況だが、紛れもなく故郷の川だ。いつの間に帰って来たのだろうか。村の人間はいつも、カノ様の川と呼んでいた。村長によると、昔々旅の人型自動人形がやって来て告げた。この川の上流にカノープスという竜がいたようだ、と。

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