本当に竜がいるなら見た者がいるはずだが、今まで誰もいなかった。カノ様の川は流れが穏やかで、この世界においては珍しく透き通っていた。

 暖かい季節には、妹とよく水汲みや水遊びに来たものだ。採って来た小さな果物を冷やしたり、母について洗濯の手伝いをしたりもした。優しい風が吹いている。背の低い野の苔が、さわさわと足裏を撫でる。懐かしい気持ちに誘われ、散策をしようと川縁を歩いて行く。渇きも疲れも心の痛みも全て消え、今はとても安らかな気持ちだ。



 今は暖かい季節だ。妹の好きだったクローバーが咲いている。緑色の中で光が当たっている所だけ、ダイヤモンドダストのようにちらばる白。これほどの数が咲いているのを、ハロルドは久々に見た。シェスカはこの時期になるとこの場所へ来て、飽きもせずクローバーで花冠を編む。そうして完成したものを、自分や母に突然被せては無邪気に笑っていたものだ。

 その内辿り着いたのは、カノ様の川だった。立ち止まって水に右手を入れると、柔らかい冷たさに包まれる。指を動かし、感触を楽しんでいた。久方振りに少しだけ、表情が綻ぶ。

 そんな事ができたのも束の間、突然刺されるような冷たさに襲われた。急いで引き抜くと、片手は真っ赤になっている。驚いて吐き出した息が、白い。ハロルドは今いる世界の色が、全く変わっている事に気づいた。


 上げた顔を右に振ると、あれだけ生えていたクローバーが全て消えている。左側も同じ状況だった。ひび割れた灰色の地面に、鉄骨の隙間から弱々しい光が落ちる。吐き気を催す嫌な臭いが、集落の方向から這い寄って来るのが分かった。あまりの寒さに両腕で身体を掻き抱き、何度も擦る。視界に纏わりつくのは、紫黒の霧。思い出したくないものがやって来る。後ろから、前から、横から。震える呼吸と共に奥歯が鳴るのは恐怖のためか、または寒さのためか。分からない。どこからか無数の呻き声がする。空耳に決まっている。


「お兄ちゃん!」

 切迫した様子の妹の声に立ち上がり、あの時のように急いで後ろを振り返る。振り返りたくなかったが、自然と振り返ってしまった。ああ、そうだ。



 シェスカは、逃げる途中で転んでしまったらしい。彼女の背後に浮かび上がるのは、赤銅色の全身竜を纏う人型の何か。竜だ。言い伝えでしか見た事がない少年ハロルドは、狩人を前にした獲物のように震え上がった。相手は大人の何倍も巨大だ。頭に生えている一対の角は、右が大きく欠けていた。竜は一言も喋らず、勿論表情は分からない。幻獣の如く禍禍しい右手で、倒れたまま動けない幼気な少女の胴体を掴んだ。そのまま潰してしまうのかと思われたが、無理矢理立たせただけだった。妹の目がこちらを見つめている。シェスカの瞳は、自分の持つものと対照的に花のように愛らしい。ハロルドはいつもそう思っていた。笑顔を忘れる日のなかった彼女の顔は、哀れにも恐怖で歪んでいた。

 緑色の瞳に涙を溢れさせ、擦り傷のできた二本の足は小刻みに震えている。ハロルドはまだ小さな子どもで、力の差は歴然だった。差がどうのという話ができる領域ですらなかった。


 妹を取り返すため我を忘れて立ち向かったハロルドだったが、なけなしの勇気は軽く往なされ蹴り落とされる。こんな子どもに武器を使うまでもなく、手足を少し動かすだけで事足りた。

 相手にそうする気さえあれば、息をする片手間に殺されているに違いなかった。ハロルドの恐怖以外の全てを、数秒で持って行くに十分な一撃。それからはもう、地に蹲ったまま動けなくなる。金属の擦れる音、何かを引き摺る音、妹の泣き叫ぶ音。こんな状況にも関わらず、彼女は逃げろと言っている。すぐ近くの当たり前だったものが、容赦なく遠ざかって行く。

 目の前には黒い地面しか見えない。頭を抱えている両手の指が、離そうとすればするほど喰らいつく。膝から下が石と化し、震える事すら叶わない。涙か鼻水か、はたまた血か何か分からない物が、口の中へと流れ落ちてくる。


 無力だった。ただひたすらに悔しかった。ハロルドは、何の力もない子どもである自分を呪った。妹の名を呼ぶ事すらできない、己の臆病さを情けなく思った。何故村がこんな酷い仕打ちを受けねばならない。何故何の罪もないはずの母が、苦しんで死ななければならない。何故可愛い妹が、恐ろしい目に会わねばならない。怒りと悲しみは幾度となく頭の中を駆け回り、疲れ果てた頃にハロルドは一人になっていた。それに気がついた時には、全てが終わっていた。



「今回も、そうなるのか?」

 何かが聞こえる。言葉だ。最後に出会った、青き竜の声。暗く冷たい水底から、少しずつ浮かんでは弾ける。ハロルドの視界は闇そのもので何も見えず、触覚も嗅覚も世界に届かない。ただ寄り添う竜の、水面のような心を感じとる。静かにハロルドの姿を見守っている。

「新たにやってきた死鬼に囲まれている。さっきより多い数だ。このままでは、お前は死んでしまうだろう。そうなればもう永遠に、全て、取り返しがつかなくなるぞ」

 彼女の口から平坦な温度で言葉は紡がれ、絶望的な状況を伝える。ハロルドには、いまいち実感が湧かなかった。と、言うのも、自分が既に死んだ気でいたからだ。音が聞こえるという事は、この体はまだ、今際の際に留まっているというのか。

「私もすぐに契約主を探さなければ、消滅するしかない」

 知った事ではないとハロルドは思った。自分の元へ来たのはあまりに運が悪かった。どうでもいい。煩わしい、早急に消えてしまえばいいとさえ思う。現在から棄てられ過去だけに苛まれ続ける、未来のないただの死体だ。なのに、そんな言葉をかけられても、そんな風に近くに居られても、苦痛なだけなのだ。

「憎くないのか。赤銅色のあの竜が。いつか見つけ出して、妹の仇を取るのではなかったか。次こそ渡り合って、負かしてやるのではなかったのか?」

 何故それを知っているのか、ハロルドには分からなかった。竜は心が読めるとでも言うのだろうか。深く考える余裕も力もなく、あの時の感情だけが反射的に蘇る。

赤銅色の竜、その一連の言葉に反応をして。いつか追いついて、全て聞き出さねば気が済まない。妹が生きていてくれたとしても、もう死んでいたとしても、その思いだけは変わらない。

「ならば、死んでいる場合ではないはずだ」

 消えかけの魂に、手が差し伸べられる。竜の手だ。竜の声だ。

「私と共に来い。私と共に生きよ」

 氷の息吹に、遂に熱が籠った。ハロルドは芯だけになり消えんとしていた己の命を、大きく燃やし答える。いいだろう。生かせるものならこの身体、死鬼の群れの中から救い出してみせろ。口も脳もろくに動かない身体で、意識を竜へと叩きつける。何が起こるか分からない。

 考えている暇もない。未来との距離は一瞬で、今頷かなければ則ち死のみ。ただ、生への執着で魂を焦がした。

「我は竜。力そのもの。共に生きると言うのなら、私の血に耐えてみせよ」

 誇り高き竜の向上を聞きながら、ハロルドの意識は真に暗闇へ落ちた。



 赤茶の荒野に強く短く、青白い閃光が迸る。死鬼の群れの中心で渦巻いているのは、炎ではなく細かい氷の粒だ。乱雑に裂かれた紫煙の向こうから、群青色の巨大竜が顕現する。そこには少女の姿も、瀕死の男も消えていた。全身を竜のようなものに覆われた人型の獣、群青色の竜ただ一体があった。それの体高は、人間の五、六倍ほどはある。鋭い手足の爪、各所から生えた棘、太く長い尾。全身の構造は甲冑に似て、頭の両側に丸みを帯びた角が一対。面の下半分の構造は、大きく裂けた口に牙が交叉している形だ。

「なるほど。悪くない」

 竜は呟く。死鬼達は様子を伺っている。過去しか見えない者どもも、場の空気が変わった事にようやく気づいたらしい。

「こいつは……あの後すぐに気絶したのか。そうか、そこまで弱っていたか」

 牙の間から嘆息を漏らす。危ないところだったが、死にかけの人間は契約作業に耐え切ってくれた。しかし一番肝心な今意識を失ってしまい、竜自身の人格が表に引き摺り出される羽目になった。青き竜にとって、これは想定外だった。

「何も感じなかったなら、いい。その方が幸せかもしれないな」

 竜は人の姿で飛来したが、外形を簡単に模しただけだ。ただでさえ別の種族の状態などを、正確に判別するのは難しい。産まれたばかりの自分は、人間という種と産まれて初めて接触したのだ。機微が分からなくても致し方ないだろう。

「悪いな。このまま行くぞ」

 竜面が不適に牙を剥く。今この時より、男と青き竜は運命の共同体となった。群青色の長い尾を地面に打ちつけると、地面が砕け赤い土塊が跳ね上がる。それが一匹の産声であり、二人で放つ鬨の声だった。

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