4
「ハロルド!」
目の前に、ミラの顔があった。酷い顔だ。恥も外聞もかなぐり捨てて、美しい少女の顔を台無しにしている。落下中の強風で、群青色の髪がめちゃくちゃに掻き乱されている。見え隠れする丸みを帯びた角。再会する前と同じ彼女だ。ハロルドは安心してすぐに、冷たい感触に気がついた。ミラはハロルドと離れないよう、必死に両手を掴んでいる。黄金色の瞳を、今にも泣きそうな形にして。だが、どちらの瞳からも水滴が溢れる事はない。竜は涙を流さないのだ。涙の有無など関係なかった。彼女の気持ちは伝わっている。彼女から届く感情の中で、初めて触れる感情だった。
「ハロルド! よかった、よかった……!」
「もう大丈夫。終わったよ。俺達、終わらせたんだ」
ハロルドは、力強く頷いて見せる。その時右耳の横を、群青色の鱗が掠めていった。氷竜ミラの体組織だ。酷使された竜体が崩壊し、空へと落ちて行くのだ。
いや、落ちているのは自分達だ。ハロルドは、やけに冷静な頭で考える。抜けるような青い境界の空で舞う、大きな欠片、小さな欠片。大陽の光を受けて、無作為に発生する反射光。
その多くは、竜体収納時に表面から剥がれた欠片だ。しっかり休めば、いつかは必ず回復するだろう。
そこは、二人の世界だった。ハロルドと、目の前のミラしか存在ない。通信は聞こえない。竜体が維持できなくなったから、機能も十分発揮されないのだ。耳を打つのは、激しい風の音。見えるのは、ミラの黄金色の輝く瞳。考える内にも、緩やかに回転しながら落ちて行く。灰色雲との距離が縮まって、凹凸や雲の流れがはっきり確認できるほどだ。風に翻弄されているのは、ハロルドも同じだった。半端な髪が邪魔で前が見辛い。偶然二人が引き寄せられたタイミングで、ミラを強く抱き締めた。ハロルドの体にしがみついた彼女が、小さな嗚咽を漏らす。
赤。
ハロルドの緑色の瞳に、突然映り込んだ真紅。
時が止まったかと錯覚するほど、体感速度が極端に緩やかになる。どうやらミラを抱き締めた拍子に、懐から飛び出した物体だ。掌に収まるほど小さく、形は歪で、砕け散った何かの一部と思われる形跡がある。自分の体組織とは色が全く違う。ハロルドは、目の前の物体が何かを察した。刹那たりとも迷わなかった。人間とは思えない動体視力で、真紅の欠片を捕まえる。二度と離さないよう、しっかりと握った。
右手の中にあるのは、石よりも硬い感触。角は丸く、肌に当たっても痛くない。そして仄かに暖かい。確認した直後、ハロルドは再び意識を手放していた。
見覚えのない天井だ。病室ではないらしい。ハロルドはうっすら目を開けたまま、ぼんやりと考える。背中の感触から察するに、どうやら寝台に横たわっている。上半身部分にだけ透明な板がぐるりと貼られており、人間が入るほど大きい容器といった構造だ。視界がぼやけているのは、液体に浸かっているからだろう。少し身体を動かすと、耳周辺でくぐもった水音がする。液体が緑色をしているせいで、視界は緑がかっている。
固いマスクのようなもので、口から鼻にかけて覆われている。手を伸ばしてみると、腕や手首に複数のコードが繋がれていた。他の場所にも刺さっているだろうか。進む指先は、途中で固いものに当たる。不自由な体を捻り、横を見てみる。
透明な板の向こうに、白衣を着た数人の人物が見えた。その内の一人がこちらに気がつき、足早に近づいてくる。減速するかと思いきや、勢いが衰えない。問答無用で感情の高ぶるままに、透明な板の上へと張りつくのだった。体の表面は黒く、顔は骸骨に似ていて、腕が四本ある。誰かと思えばセドリックだ。驚き過ぎて、マスクの隙間から気泡が漏れてしまった。すかさず側の研究員が注意する。
「駄目ですよ先生。契約者六番の体に障」
「気がついたか! よかったー! 死んじまったらどうしようかとー!」
「聞いてます?」
「うわーんお兄ちゃん!」
ジーナまで泣きながら飛びついてくるが、彼女もまた、透明な壁に容赦なく阻まれる。赤毛と同じ色の獣耳は、すっかり寝てしまっていた。心配してくれるのは有難いが、親子揃って叩くのはやめて欲しい。水の中にいるので、言いたくても喋れないハロルドである。この親にしてこの子あり、というやつだ。
「ここは、アストラノーツ号の特殊兵器管理研究室だ。お前さん、帰って来たんだぞ」
「頑張ったな」
盛り上がる二人を押し退け、間からミラが顔を出す。ハロルドの意識がない間、ずっと側にいてくれていたらしい。ミラは、透明な板の向こうで手を掲げた。彼女の指先から、銀色の細鎖が二本垂れている。先についている輪が、軽くぶつかり合って揺れた。逆光で少し眩しい。
「形見の指輪にチェーンを通してみた。エリテンシアが、こういう方法もあると教えてくれてな。私は母さんのを下げているから、お前は父さんのを下げろ」
そう言うとミラは、母のネックレスを首につけて見せた。ハロルドが頷けば、周囲のコードも一緒に揺れる。形見で思い出したが、真紅の欠片はどこに行っただろう。
どちらの掌にもない。まさか、失くしてしまったか。ハロルドが挙動不審になっていると、物々しい造形をした小さな箱が置かれる。ミラが横に倒せば、真紅の欠片が中で浮いているのが見えた。
「これなら無事だ。カセイ博士が専用の容器に入れてくれた」
ハロルドは納得した。体はだるいが、意識ははっきりしている。当分眠たくならなそうだし、久しぶりに彼等と話したい。もう少し自由にならないものか。起き上がって喋りたいというハロルドの希望は、ミラがすぐに研究員へ伝えてくれる。少しだけならと許可された。できるのは上体を起こすまでで、出歩くのはまだ禁止である。何しろ、カニスマヨルに剣を突き刺したまま丸一日浮遊し続け、回収後も三日間近く昏睡していたらしい。
周囲に満ちていた謎の液体が、ゆっくりと抜かれていく。必要最低限を残してコードが外されて行く。思えばアストラノーツ号に初めて来た時、今と同じような状況だった。もう一度目が覚めてよかった。また皆に会えて嬉しいと感じる。あの時は誰かを信じる事ができず、世界の全てに対して不貞腐れていた。同じ人間とは思えない心境の変化だ。自分の事ながら面白い。
ハロルドを閉じ込めていた透明な板が、上半分だけ開く。体が濡れているせいだろう、少し肌寒く感じる。慎重に身体を起こしながら密かに笑んだが、ミラには気づかれていた。彼女は自分自身でもあるため、隠し事はできないのだ。照れ臭い気持ちを咳払いで誤魔化す。
「お兄ちゃん、苦しいの?」
「大丈夫だよ」
ジーナが不安そうに獣耳を動かす。小さな子どもに心配させてしまった。慌てて否定していると、背中に大きなタオルがかけられる。セドリックだ。手早く上半身を拭いて、タオルにくるまる。彼はまたどこかへ行った……かと思いきや、戻ってハロルドの顔を覗き込んでくる。
「お前、その目どうした」
彼の声色からして、想定外の物事に戸惑っている様子だった。顔が映るものを探していると、ジーナが手鏡を渡してくれる。女児用の可愛らしい装飾があしらわれていた。子ども用とはいえ、ちゃんと使える鏡だ。映る範囲は小さいが、瞳を映す事ができた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます