5
セドリックとジーナが、何も要求していないのに会社や空に関する情報をくれる。当たり障りのない事ばかりだが、ハロルドにとってありがたい事だった。
回復したハロルドは社長室兼艦長室に呼ばれ、竜仮面の社長ダルクロッサと会話する。彼によるとハロルドは竜との契約を果たし、命と引き換えに強力な力を手に入れた。本当にそうなのか疑問なほどに、いまいち実感が湧かない。すぐに小柄なくせして態度の横柄な上司アミスが現れ、向こうの都合で宛がわれた殺風景な自室に放り込まれた。そして現在に至る。
そろそろ支度を始めないと、アミスに文句を言われてしまう。ハロルドはベッドへ移動すると手始めに靴を脱ぎ、ズボンを取り替える作業に入る。亜麻色をしたそれは、太股辺りの空間だけやや余裕がある。空調が効いてはいるが、下着だけでは寒いのでさっさと穿いてしまう。靴の方はハロルドにとってあまり見ない形状で、膝上辺りまで長さがある。
どうやら紐を交差させて締めるブーツのようだ。左右を両手で持って吊し上げ、難しい顔でひとつ首を捻る。少し身を屈めながら片足を入れてみると、きつくて入らない。
「下から全部緩めろって? 面倒臭い。長過ぎるよなこれ」
ハロルドは誰もいない部屋で一人愚痴を言う。
「お前さっきから文句が多いな」
そう、誰もいない部屋だ。返事が帰ってくる訳がない。だが聞き覚えのある声であり、社長室でも聞いた声だった。少し屈んだ体勢のまま恐る恐る首だけ回し、ハロルドは背後を確認する。驚くほどすぐ近くに、あの時の青い竜が立っていた。出会った時と同じく堂々たる姿勢で、一糸纏わぬ人に似た姿を陽石の下に惜し気もなく晒して。もちろん彼女の体表面には、臍も何もかもが存在していないのも変わらない。顔が近い。
突然の襲撃にハロルドは悲鳴を上げた。そうなっても仕方がないというものだ。ベッドの上に飛び乗ると、その勢いのまま壁に激突してしまう。ズボンを穿くため靴を脱いでいたのが幸いし、マットを汚さずに済んだ。
「お前そんな固体だったか? 出会った時はもう少し……」
二人は無言で見つめ合う。先に口を開いたのは、竜の方だった。
「いや、その片鱗はあったな。焦ってハズレを引いたかもしれない」
「どういう意味ですかねそれ」
彼女はハロルドの醜態をつまらなそうな目で一瞥すると、群青色の髪を揺らし周囲を見渡す。黄金の瞳が一転、新しい玩具を与えられた幼子のような光を宿し始める。
「今日からここがお前の巣か。人間の縄張りに入ったのは初めてだ」
「て言うか、どっから入って来た!」
「ずっとお前と一緒にいたが。強いて言うなら、お前の中から出てきた」
「出てきた?」
「ミラだ」
「え?」
「皆は、私の事をそう呼んでいた」
どうやらそれが、目の前の竜の名前らしい。竜にも名前があるのだなと、ハロルドはぼんやりと考える。竜の投げかける言葉は跳ね回る兎のようで、上手くついて行けなかった。彼女が竜だからだろうか。
「呼んでいた」
「ああ、そう呼ばれていた。恐らく今も、そう呼ばれる事だろう」
群青の竜ミラは、ハロルドの真似をしてベッドに上がる。パイプ足のつけ根が軋む僅かな音が、やけに大きく聞こえた。彼女は足の裏で、マットの感触を確認し始めた。白く細い指で掴めばその通りの皺が寄り、重みを受け止めて凹んだ。足を上げた瞬間から元に戻っていくのを見て、小さく感嘆の声を上げる。ハロルドもつられて覗き込んでいると、彼女が突然顔を上げる。ぶつかりそうになり、慌てて回避する。
「ところで、なあ、どうだ? 最初に会った時より、私は人間に似せられているだろう?」
確かに目立つ尻尾は消えているが、頭の両側には角が生えたままになっている。消すのを忘れたのだろうか、それとも角を隠すのは難しいのだろうか。竜の自尊心を守るため、真の理由としては不用意に怒らせると怖いので、ハロルドは角の件を指摘しなかった。代わりに肯定しておく。彼女のように堂々として、とは行かなかったが。
「そうだね」
ミラはやはり、己の形状に拘りはすれども、身なりの方は気にしていない。それどころか、ハロルドの返事に気を良くして得意気に胸を張るのだ。竜の体表面が人形に似てつるりとしているとはいえ、他は人間と違わないくらい精巧にできている。更に見た目はハロルドと同年代の少女。ハロルドは正直に言って、度々目のやり場に困っていた。しかしミラは寒がる様子も恥ずかしがる様子も見せない。竜には服という文化がないらしい、とハロルドは結論づけた。
だが本人がよくても人の社会に混ざりたいなら、そのままでは不都合がある。クローゼットにあった毛布でもかけてやろうと動きかけた時、人ならざる黄金色の瞳がハロルドを阻んだ。
「お前の持っていた剣は嫌いだが、私はお前の目とか、好きだぞ」
「そうかな」
ミラの純粋かつ突拍子もない言葉に、どんな表情を浮かべていいものか分からないハロルドだった。以前清高な獣王である竜の御前に立っていると感じていたのが、今は奔放な幼子を相手にしているかのような気分にさせられている。現に毛布を取りに行くという目的は悪意なく阻害された。
「ところで、セドリックさんや社長が言った事は本当なのか?」
「ああ、本当だ。竜はな。世界の果てより目覚めると、地上へ向かって飛ぶ。そして己で選んだ純血の人間を依り代にして成長する。時期が来ればその生命を喰らい、果てへと帰り、眠りから目覚め次の人間を探す」
「俺は本当に食われるのか」
「最終的には。それまで力を貸してやるのだ。悪い話ではないだろう」
「死ぬ前にけりをつけられるなら、俺に文句はない」
親切のように聞こえるが、当たり前の話だ。自分の身体の一部となった人間だから、目的が果たされるまで守らなければならないだけだ。何はともあれ、いつまでも壁に追い詰められているままでは落ち着かない。
ハロルドは壁と竜の間を抜け出して、クローゼットにあった毛布を取って戻る。ややかび臭いそれを、不思議そうに立ち尽くしているミラへと戻りがてら放った。ひらりふわりと広がり踊る毛布を、ミラは全身で受け止めて何とか捕まえる。
「服を着た方がいい。俺の外に出ていたければな」
「人間達は、何かで身体を覆っているのか。どうりで胴体の色や形が変わると思った。その言い方からすると、肉体の一部ではない?」
ミラは己の体より大きな布を、丸めたり伸ばしたりして弄り回している。顔を埋めて匂いを嗅ぎ、渋い表情で小さく唸った。どう使うのか分からないのだろうか。教えようかハロルドは迷ったが、質問への回答を優先させる事にした。
「服だよ。一枚布を纏うのは、一番古くて一番簡単な形式だと聞いた。胴体とかの大事なところを、隠して守るためにそうする」
「なるほど、服というのか。人間という生物は外殼がなく体表面が柔らかいから、別の素材を外から調達して防護する訳だな」
彼女は頭から布を被り、交差する部分を正面で押さえた。慣れない動作で隙間から頭を出し、丸みを帯びた角、人ならざる群青色の髪、金色の瞳と順に覗かせていく。
「それにしては柔らかいな。大事なところを守るためにあるのに。攻撃されたらすぐに穴が空いてしまうぞ。お前のもだ」
ミラはハロルドの服を引っ張ったり、つついたりして確かめ始めた。
「これは寒さ暑さを調節するタイプの服で、防御力は低いけど軽いから普段使うのに丁度いい。別の素材でできている、重くて固いのもある」
ハロルドの説明は、どうやら納得してもらえたようだ。ミラは斜め左上に視線をやり、しばし黙り込む。何か考えているらしい。そして突然表情を明るくし、閃きのままに頭部以外の全身の色だけを黒く変えた。予想外の服を見せられ、ハロルドは面喰らってしまう。
「それはさすがに変過ぎるよ! シャツを着るとか、ズボンを穿くとかさあ。今まで見た他の人間を参考に!」
「注文の多い奴だな」
「人間の服は、見た目も大事なんだよ」
つい豊富な知識を持っているかのように言ってしまったが、見た目のいい服というものがハロルドにはよく分からない。女性の身につけるものなら尚更だった。しかし、今のミラよりは知っているはずだ。ミラは今から人間の事を知ろうとしている竜で、ハロルドは初めから人間として産まれた人間なのだから。彼女には、どんな服が似合うだろうか。
「ところで君は……やっぱり女の子、だよな」
「いや、竜に肉体的な性別はない。お前が人間の若い雄だったから、雌の姿が何かと有利に働くと考えそうしている」
「はあ、そうですか」
「雄の姿が好みならそうするぞ。何なら細かく指定してもらっても……」
「いや、そのままでいいよ」
「本当にないのか? 初期設定のままで? 妹の姿で側にいて欲しいとか、」
考えるより先に、ハロルドの体は動いていた。少女の姿をしたそれを、素早く壁に押しつける。自然と浮き出た彼の形相は、相手にしか見えないものだ。喉の奥から低く震える声が出た。
「その言葉は二度と口にするな」
群青色の竜は、動じる事は全くなかった。黄金の瞳を細めて不敵に笑む。一体何が可笑しいというのか、分析をする心の余裕が今のハロルドにはない。
「……覚えておこう」
ハロルドの頬にそっと片手で触れたかと思えば、煙のように竜は消えた。足元には、抜け殻の毛布が残されている。黄金の瞳を睨みつけた際に垣間見た、奥深くに滞留していた何か。
得体の知れない光が、ハロルドの心にいつまでも取り残されている。やはりあれは、人ならざる者だ。
「女じゃあるまいし、支度に何分かかっている」
「ごめん」
支度を終えたハロルドが扉を開けると、向かいの壁に寄りかかるアミスの姿があった。腕組みをしている上、表情に疲れが見られる。かなり待たせてしまったらしい。彼は視線だけを向け、意地悪く口角の片側を持ち上げた。
「お前の竜と話していたのか?」
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