第二章 薄明に至る種族達の革命

第一節 紫電の一閃

「シェスカ、カノ様の川で溺れたんだって?」

 どこからか、幼い子どもの声がする。傷ついて伏すハロルドには、顔を上げて確認する力もなかった。大人しそうな男児。シェスカという単語。己の声を外から聞く事はないので、すぐには分からなかった。記憶を辿ってみれば、それは確かにハロルド自身の発言だ。数年後に赤銅色の竜によって村が破壊され、妹が攫われてしまうとは少しも思ってもいない頃の。

 ハロルドの心は過去を掘り起こし始める。ある日シェスカは一度川に落ちて、ほんの少し変わって帰って来た。双子のハロルドにしか、母親にさえ恐らく分からない、言語化するのも難しい違和感だった。例えば、砂糖の壺に塩が数粒紛れ込んだ。あるいは、赤い染料の中に落ちた一滴の黒インク。

「溺れてないよ。ちょっと沈んだけど」

 記憶の中そのままのシェスカの声。少し擦りむいただけ、とでも言うような軽い口調だ。

「それを溺れたって言うんだよ」

 ハロルドは呆れた声を出す。困った事に、彼女は大して深刻に捉えていないようだ。大人達はシェスカは前向きでいい子だ、ハロルドも見習えと言ってくる事もあり、この歳の頃はそのたび不服だった。妹に眩しさや愛らしさを覚える反面、彼女ばかりが周囲に肯定される事への嫉妬もあった。前向きばかりというのもどうかとハロルドは思う。前向きとは前進への力となるが、時に慎重さを欠く。例えば興味本意から一人で川に近づいて、うっかり落ちる。

「家で寝てなきゃ駄目なんだってば」

「もう治ったもん」

 シェスカは少し前から、体調が悪かった。この村に医者はおらず、来るとしても旅の者だ。簡単な薬草を塗るなり飲ませるなりして、寝かせておくくらいしかやる事がない。

「青いお姉さんがねー、カノ様の川に行って、川の底を見てみたら、きっと治るって」

「またそれ」

 シェスカの前によく現れるというその女性を、ハロルドは一度も見た事がない。名乗らないので、いつしか青いお姉さんと呼ぶようになった。今思えば、幼児によくある妄想の友達ではないかと思う。母曰く、シェスカがもう少しお姉さんになれば自然といなくなるらしい。

いつまでも固く信じているところを見ると、ハロルドにはにわかに信じがたいのだった。

「綺麗であったかくて、お母さんみたいに優しい人だよ」

「あんまり関わらない方がいいんじゃ……」

「お兄ちゃんも友達になろ!」

「やだよ。何か怖いよ」

「怖がりー。シェスカの方が、一人でおトイレ行けるの早かったしー」

「やめろよ」

 こういったやりとりも、兄妹にとってはいつもの事だった。言い合っていると、母親の声が降ってくる。

「まあまあ、二人とも喧嘩しないの。ハロルドは、シェスカを心配して言ってくれてるのよね」

 背後から二本の腕が伸びて、暖かい胸の内へ抱き寄せられる。二人を同時に包んだのは母の温もりだ。彼女はいつも、二人をいっぺんに抱き締める。二人は不思議と心が丸くなってしまう。ずっとこの状況が続けばどんなに幸せだろうと思う。二人が彼女の温もりを失ってから十年以上が経つ。シェスカが今も生きていれば、母親に似た風貌になっているかもしれない。



 もしもあの時。突然現れた赤銅色の竜が、小さな村を無慈悲に破壊し住人の多くを喰らったあの日に。顔も名も知らない父親が都合よく現れて、自分達を助けてくれはしないだろうかと思った。実は父親は家族を捨てて行ったのではなく、やむを得ず一時的に側を離れただけだと。本当は放蕩で無責任な男ではなく、母の言っていた通りの強く理知的な男であって欲しいと。だが、現実はそうはならなかった。非常時極まっても、父は迎えに来なかった。

 母は父の事を貶めたり文句を言ったりしなかったが、実際に起こった事はこれだ。母は父に置いて行かれ、子どもが大人になるのを見届けないまま竜に喰われて死んだ。以来、ハロルドの父に対する一縷の希望は、煙のように消えてなくなってしまった。


 今から未来へ時は流れ、日は登って沈み、動けば腹が空き、若者は老いて行く。

一度目を閉じれば、いずれは目が開く。





 今まで見ていた光景は、やはり夢だったらしい。幼い妹の笑顔や母の腕は、この場所からあまりにも遠い。背中に乾いた土の冷たさを感じながら、のっぺりとした灰色の空を仰いでいた。やけに静かで、微かな音すらもない。振り出しに戻る。そんな言葉が頭の隅に、ひっそりとこびりついていた。その内聴覚が戻ってきて、近くで風に押された赤砂の滑る音がした。


 ここがどこだか分からない。服が全て破けてしまったので、余計に惨めな気分だ。誰も見ていないとか、そういう問題ではないのだ。仰向けで脱力していると、いつの間にか現れたミラが横から覗き込んでくる。彼女はエリテンシア指導の元自分で作った服、赤いリボンつき白ブラウスと紺色キュロットスカートを着ていた。眉間にうっすら皺が寄っている。

「お前、よくもやってくれたな。さすがの私も気を失っていた」

 ミラは突然頭の両側を掴んで、顔を近づける。ハロルドは無理矢理上体を起こされる形だ。

「直ぐに死ぬような真似はしてくれるなよ。餌というのは、食う時には美味くなければならん」

 黄金色をした瞳の中央には、縦に細長い瞳孔があった。一切の瞬きもなく、未知の輝きを湛えている。竜は少女の形をした細い指で、ハロルドの頬を横髪ごと撫でる。一度、二度。

 手つきは優しいものだったが、ハロルドはむしろ動揺した。竜にとっての人間が餌でしかない事を、すっかり忘れてしまいそうになっていたのに気づいたからだ。何も言えずにいると、ミラは手を離す。

「今それを言っていても仕方ないか。作り方を覚えた事だし、服を着せてやろう」

 呆けている内に、事態は進んだ。ハロルドの皮膚表面からミラの体組織が盛り上がり、群青色から素早く色形が変化していく。前着ていたのと同じ、鉄飛蜥蜴乗りのような服だ。

「艦に戻るか? 力の大半を消耗してしまったが、救難信号くらいは出せるぞ」

「違う艦が受け取った場合の危険が高い。と、思う」

 ハロルドは座り込んだまま、小さく首を横に振った。

「彼らが必要としていたのは竜の契約者であって、俺個人じゃない。重要視されていたのはミラ、君の方だ。よっぽど有用だからな」

「よく分かっているな人間。竜とは人間より遥かに強く有能な種であるし、それ故に私は有用な個体なのだ」

 ハロルドは返事をしなかった。緩慢な動作で片手を上げて眉間を押さえ、ひとつ息を吐く。立ち上がるには、もうしばらくの時間が必要そうだ。

「どうした、腹が減ったのか」

 表情を直接確認しなくとも、不思議そうな顔をしているのが手に取るように分かる。ミラはのんきなものだ。ハロルドにとっては、それが少し羨ましい。うつ向いたまま自嘲する。

「馬鹿やって勝手に落っこちた奴を、わざわざもう一度拾いに来るほど、あの人達はお人好しじゃないんじゃないかな」

「竜は群れを成す生物でないから分からないが、人間の群れはそんなに厳しいものなのか?」

「そうかも。俺だけが、そう思っているだけかもしれない」

 顔を上げると、ミラが予想通りの表情をしていた。行く宛はないが、足を運ばなければ進展もない。確かにその通りだ。ハロルドは勢いをつけて立ち上がる。

「やる気になったか」

「とりあえず、人のいそうな場所を探そう」

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