5
「まさか。あいつが、またこんなところに来るはずは」
エリテンシアは苦い顔をして、絞り出すような声で呟く。彼らは一体、何と戦っているのか。過去アストラノーツ社とあの竜との間に何があったのか。ハロルドには全く分からない。
何も、分からない。仇である赤銅色の竜が目の前にいる。右の角が大きく欠けた、特徴的な姿。追い求めていた仇が、ついに目前に現れた。ハロルドは自らの選択で、憎み続けていた仇と同じものになっていた。
覚悟はしていたはずだった。しかしそれが、ハロルドを酷く混乱させていた。放送機によると赤銅色の竜は、現在攻撃が届かないギリギリの距離を保ち、様子を伺っているらしい。妹を攫った時何を考えているか不明だったが、竜と契約した体になって遠くの声を受け取る事ができる。ただひとつ、破壊への歓喜に沸く意味のなさない声が、ハロルドへと乱暴に叩きつけられる。ここにいるぞと嘲笑う。相手の顔も年齢も性別も、全てが謎のままで、分かる事などただそれだけだ。
それだけで十分だった。
ハロルドの心は、掻き乱される。アルコルの視界映像が切断される。えもいわれぬ感情が全ての血管を押し広げ、凍りついて動かなかった肉体へ瞬時に火をつける。その熱さに何も考えられず、引き摺られるように前へ出た。誰かが何かを叫ぶ声がしたが、遥か遠くの出来事にさえ思えた。あるいはそれは、自分の叫びだったかもしれない。足が遅くて仕方ない。体が重くて仕方ない。竜よ。その鎌首をもたげよ。己の牙は、とっくに仇の首筋へと喰らいついていても可笑しくないというのに。
音も、色も、群青色の竜でさえも、ハロルドは置きざりにしてもう一歩。やけにゆっくりとした世界の中で、床を蹴る度に視界が高くなって行く。手足に硬い爪が生え、食堂の床が悲鳴を上げて裂ける。心臓が軋むほどに鼓動は加速し、鋭利な群青の鱗が皮膚の各所を突き破った。麻痺しているのか元から感じないのか、それに関する痛みは少しもなかった。鉱物的でありながら肉のようなそれは生き物のように組み合って、人成らざる攻撃的な脚が、腕が、胴体が現界する。ほんの数歩の出来事だった。容赦のない速度で変化は進み、ハロルドの全てが竜の外殻に覆われて行く。遂に見開かれた緑色の瞳さえもが胴体の辺りに飲み込まれ、進む先には人が扱うに大き過ぎる竜騎士の兜が形成される。丸みを帯びた一対の角が空を示す。陽光を受けた面の禍々しい輝きは、激しい獣性を浮き彫りにするようであった。
かくしてハロルドの肉体は、呼び覚ました竜と一体化した。その名はミラ。刺と翼で天井に傷を刻みつけ、全身にかかる重みをものともせず四つ足で強引に進む。空へ。奴を殺す。
ハロルドの脳は、その二つに支配されていた。突進する群青の竜に動揺し、数人の船員が転がるように避けて行く。多少の怪我はしたかもしれないが、死んではいないだろう。視界の端で捉えた限りでは。そう願いたい。
気を反らした直後、何かに進行を阻まれた。実のところ数秒前、艦橋からの操作で窓の内側にある隔壁が閉まり始めていた。ハロルドはそれに体を挟まれたのだ。強烈な衝撃。だが死ぬほどではない。少し痛いだけで、強固な外殻はものともしない。床を掴む群青色の手の甲は刺々しく、先に霜が降りて輝いているのに気がついた。
大きく、強く、異形と化した体。心を殴られる。竜の、体か。しかしそれでは、全てが遅い。舞い戻って来た獄炎が、再びハロルドの身を焼き始める。群青の竜は四方八方からの痛みから逃れようと、体全体で隙間を抉じ開けて行く。
その内に体表面から氷が吹き出し、障壁を凍らせ表面を霜が駆け巡る。乱暴に溢れてくる力に、逆に自分が殺される恐怖。竜と化したハロルドは、たまらず牙を剥き長い咆哮を放つ。
「ねえ、待って! しっかりして!」
エリテンシアが叫びながら、長い髪を振り乱し走り寄る。彼女が追って来るのが恐ろしい。衝動のままに行動した結果船員を傷つけ、船の一部を壊してしまったのだから。早くこの場を去りたかった。この痛みから逃れたかった。
「落ち着け、ハロルド!」
レイチの声が投げつけられる。体が言う事を聞かない。振り上げた長い尾が、食堂の机と椅子を凪ぎ払う。またもや後方の人々の無事を身勝手に願うしかない。ミラに何度も助けを求めてはいるのだが、どこへ行ってしまったのか音沙汰がない。心が繋がっていない感覚は、気のせいではないだろう。歪な肌触り。始めての事だ。どうして、何故、こんな事に。いつも、いつもだった。いつも奴は台無しにしにきて、手に入れたものを奪おうとする。赤銅色の竜への怒りの炎は、心の芯まで到達しても収まらない。
ハロルドはやっとの事で隔壁から抜け出すと、体の大きさと重みを使って窓を強引に破壊する。外殻に細かい傷を作りながら、青空の飛び方を知らぬ幼竜はよろめき外へ飛び出した。
エリテンシアは、レイチの腕の中で呆然としていた。あの時彼が走って来なければ、彼の竜アルコルの能力を使わなければ。長い尻尾に叩かれて死んでいたところだった。彼女の竜アルタイルは、遠距離攻撃性能が高いものの、攻撃を受ける側になるとめっぽう弱いのだ。
理不尽な暴力の去った後に残されたのは、盛大に割れた分厚く透明な窓の欠片。最後まで降りる前に止まった、ひしゃげて凍りついた障壁。床や天井が傷だらけとなり、塗料や建材の剥げた無惨な食堂。音もなく静かに、煙と埃が霧散していく。人の姿は他に見えず、全てが死んだように静まり返っていた。
棚や厨房の影から、数人の頭が恐る恐るといった様子で出てくる。彼らは誰もが無傷だったが、単なる偶然という訳ではない。レイチが膝をついた姿勢で右手を前へ翳している。彼より後ろに飛んで行った瓦礫は、殆どなかった。透明な壁に跳ね返されたかのような落ち方をしている。実際レイチは背後の社員達を守るため透明な壁を作り、次々降りかかるとばっちりを凌ぎ続けていたのだ。長らく黒に染まっていたレイチの白眼が元に戻る。持ち上げていた手を下ろすと、途端に彼は大きく肩で息をし始めた。そして息を荒げたまま呟くのだった。
「暴走、してる。ハロルドの奴、暴走してるよ」
竜体化しないまま竜の権能を行使する時、大きな技ほど契約者への負担が大きくなる。
エリテンシアはレイチの手を借りながら、慎重に立ち上がる。
「助かったわ」
「いいって。これくらいしか、取り柄ないからさ」
「今から追いかけて押さえるのは?」
「僕が行っても駄目だし、君が行っても痛い事になる。速度的には追いつけるだろうけど」
竜は大抵、自分の肉体から武器を作る。ハロルドの得意武器は長剣だったから、恐らく同じ武器だろう。攻撃能力を殆ど持たないレイチのアルコル、防御能力の低いエリテンシアのアルタイルは、こういった近距離攻撃型を押さえつけるのには向かない。さらに言えば暴走状態にあるため、手酷い反撃を食らう可能性が大きい。
レイチとエリテンシアが相談する事、数十秒。その間にも場の変化はあった。鳥仮面を被った術着の集団が入って来て、言葉少なく冷静に各々の仕事を始める。セドリックの部下達だ。彼らは流れるように二手に別れた。竜体化したハロルドの体から撒き散らされた竜瘴が、影響を及ぼす前に処理しようという集団。力を自分で制御できていなかったため、通常よりやや濃度が高い。もう半分の鳥仮面達は怪我をした艦員を探し、手当てをするために動く。赤銅色の竜カニスマヨルが再び動き出したと、放送機が告げる。それを聞いて同じような制服を着た者数人が、食堂の出入り口へ次々飛び込んで行った。あまり時間はない。
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