あたらしきもの

 サナの妹マオカは、王の部屋にいた。このところ王は体調が優れぬことが多く、この日も床に伏せており、妻のうちの幾人かと娘が交代で看病をしている。

 マオカの背後に、タクはいない。外交の役目があって数日前から旅に出ている。


 王の具合についてであるが、これより少し前にタクが他国より買い付けてきた大陸渡来の霊薬という鈍い銀色の液体を少しずつ飲んでいるがいっこうに良くならず、むしろ日によって起き上がれぬほどに篤くなっている。


「そこにいるのは、マオカか」

 ほんの数ヵ月前まで忙しく立ち働いていた王が、見る影もないほどに痩せた身体から弱々しい声を発し、マオカを呼ぶ。

 マオカは、そっと王の手を握った。

 王は少し首を上げ、自らの翡翠の勾玉の首飾りを外し、

「これを、そなたに」

 と言って渡した。次に硝子でできた腕輪を外し、

「これを、お前の姉に」

 とマオカの腕に握らせたところで息絶えてしまった。あまりにも、あっけない死だった。


 一座は、静寂につつまれた。王の幼い頃より常に側でつき従ってきたユウリという者が、はち切れたようにわっと声を上げ泣き崩れると、次第にそれが伝播し王の部屋は嗚咽に包まれた。

 マオカは握り締めた首飾りと腕輪に、ただ眼を落としていた。

 知らせを受けたサナや他の姉妹も駆けつけた。王の形をしたを見たとき、サナは今まで、当たり前のようにあるものと思って何気無しに歩いていた道がいきなり断崖に変わったような衝撃を感じた。


 自らに様々のことを告げるあの声の主どもは、何故これを告げなかったのか。

 告げられたところで、自分には何をする力も無かったことを改めて知り、サナは、ただ膝から崩れた。それを脇からしっかりと支えたのは、マヒロだった。

「しっかりなされませ」

 それで、サナの眼前に風景が拓けた。

「王は、隠れられた」

 その風景をのみ見ながら、サナは、ぽつりと言う。貝で作られた首飾りが擦れ合わさる音と共に立ち上がり、

「王は、隠れられた」

 もう一度、こんどは太く透る声で言った。

「今より国内に大喪を発する。王を墓に祀るのはこれより三日の後とする」

 男性の後継者のいないヤマトに、女王が誕生した瞬間であった。


 この時代は王が亡くなる前に自らの墓を造営することが当たり前であり、王も先王の墓の隣に同じような丸い丘を作り、それとしていた。その墓が機能するとき、その葬儀の一切の手配を行う者が次の王となるのだ。

 この場合男子がおらず、なおかつ長女は他国で病死しており、サナとマオカは同い年であるがマオカの母は奴婢の出身であったためサナの母の方が位が高く、サナが姉でマオカが妹という扱いになっていたから、サナが女王となることは当時の感覚としてもこんにちの我々の感覚としても順当である。


 儀式の差配について、一人で思案をするサナのもとに、マオカがやって来た。

「これを、父上より」

 羽虫のようにかぼそい声と共に、マオカが硝子の腕輪を差し出してきた。

「父上が?」

「私には、これを」

 と白く細い首から下がった翡翠の勾玉を指差した。

 サナは、どういうわけかマオカの差し出す硝子の腕輪に、あの夜のマオカの乱れ狂った背中と声が映っているのを見て、むらむらと怒りが沸き上がってくるのを感じた。

 それを受け取ると、冷たさのために一瞬火のように熱いと感じたが、それは自分の怒りの冷たさなのかもしれないと思い、その冷たい火を静かに腕にはめた。


「マオカよ。タクは、何を思っておる?」

 マオカの視線は、床板の木目を追っている。

「あやつは、そなたに何を話す?」

 木目を追っている視線をそのままサナの身体に這い上がらせ、

「さあ。なにも」

 という微笑へと変え、

「父上は――」

 と王の話へと話題を移した。

「己が首飾りを私に、腕輪を姉様にお渡しなさることで、我々が手を携えヤマトを治めるように、と仰せになりたかったのでございましょう」

 こいつは化物だ、とサナは思った。あの日サナが聞いた、ヤマトが揺れるという声はこのことではなかったか。だから、父の死について「改めて」何も告げなかったのではないか。

「かもしれぬな」

 サナは色には出さず、無機質な相槌で返し、

「マヒロを、これに呼んでくれぬか」

 と言い、この異母妹を追い出した。


「ヒメミコ」

 声をかけ、マヒロが入室してきた。

 季節はもう秋に差し掛かろうとしているが、中天にある陽は容赦なく大地に照り付けている。蒸し風呂のような部屋でもサナは汗ひとつかかず、じっと思案をしていた。

「王の祭祀が終わったのちのことを、考えておった」

「伺いましょう」

 サナの言うところによると、戦死したマヒロの父シンの後長く空席になっていた軍事の頂点には、先王の側近であったユウリを。彼は王の傍らにあり民治の助けをしながら、その全ての戦に参加していた。もう五十の半ばを過ぎており当時としてはとっくに引退していてもおかしくない歳であるため、それに次ぐ席にマヒロが就き、補佐をする。

 民治の頂点はマヒロが兼務し、外交はタク。


 そこまでサナが言ったところで、マヒロがサナの目を覗いた。

「よろしいのですか」

「マヒロよ。さっき、マオカと話した。わたしは、タクはこのヤマトに野心を持っておるものだと思う」

「そう思いながら?」

「そう思いながら。タクの外交の腕は優れている。いまここであやつを外しては他国に顔の効く者がおらぬ」

 マヒロの顔が、翳った。

「もし、ヒメミコのお考えが当たっていたなら」

「そのために、お前がおる」

 そう言って花が咲いたようにからからと笑った。

「あやつを、今退けるわけにはゆかぬ。それこそ、クニをわたし一人のものにしようとしていると人に言われよう」

「わかりました。それと、もう一つ」

 マヒロは、民治の頂点に自分が立つのは良かった。先王が王位を継いだときも、その側用人として最も信頼の厚かったユウリを民治の頂点に付けた前例があるからである。

 しかし軍事の次席に自分が立つと、歳のいったユウリが引退したのち民治も軍事も己が握ることになり、己に力が集まりすぎる、と言うのである。

「もし、おれがヒメミコに弓を引いたら、一晩でこのクニは覆りますよ」

「そうはならぬ」

 だって、とサナは言う。

「お前は、わたしと共に、生きるのだ」


 国内には大喪が発せられ、民は王の突然の死を大いに嘆いた。死から三日後の祭祀には、夥しい数の民が王の墓の前に額付ぬかづいた。

 王の墓の盛り土を背に、絹の袖付きの着物と貝や金でできた首飾り、勾玉の耳飾りと硝子の腕輪と王の証である冠を付けたサナは、一日立ちっ放しであった。

 民は、大いなる神や精霊の声を聞くというこのあたらしい女王を見て、その美しさと神々しさに息を飲んだ。幼い頃はお転婆であり、それが現代で言う「ざしきわらし」のような印象を人々に与えていたものであったが、長じて、神を宿す、と人が噂するに十分な美しさを得、そして今、女王としてはるか遠くの空に視線を泳がすサナを見ると、昨日までのサナとはまるで違う印象を受け、まさにここに神が降りているのだと感じた。「ざしきわらし」から「精霊の代弁者」とは大したものである。この時代ではわりあい珍しいくっきりとした二重の目蓋まぶたが飾る黒い瞳、その上にあるやや下がった眉、ヤマトの人々が仰ぎ見るオヤマの稜線のように緩やかな曲線を持つ鼻筋、薄く引き結んだ唇の全てが、神や精霊がその依り代として作ったとしか思えなかった。

 人々は今、ヤマトのあたらしい時代が始まったことを知った。


 旅の途中で知らせを受けたタクも戻り、新たなヤマトは動き出した。タクは戻るや否や旅装も解かずに先王の墓に向かい、額を地に擦り付けたまま夜まで泣き通した。その姿を見て人々はさもありなん、他国から奴婢の交換のようにしてやってきたタク様を取り立てて育てた先王の死の悲しみと、その死に立ち会えなかった悔しさは計り知れぬのだろう、と噂した。


 館の中で最も大きな王が執務をおこなう広間でタクはサナの取り決めた一切の体制に納得した様子であった。一通りのことについて同意を示し、話が終わったあと、

「ヒメミコ、先王の死より間もないために、申し上げるのが憚られるのですが」

 と前置きをし、あごで部屋の外を指して、

「ヒメミコとの婚儀をしたく思うのです」

 と言った。タクはサナの名もマオカの名も知らぬので、こういった場合は「あちらのヒメミコ」「何番目のヒメミコ」と言ったり仕草で指したりして個人が特定できるよう話すのが普通だった。後年になってからも貴人や主君の妻の名を呼ぶことを憚り、どこから嫁に来た、とか、どこに居館がある、とかいうのを取って「濃姫」「早川殿」「築山殿」などと呼称するのに似ている。

 無論、この場合タクがあごで指した先のヒメミコはマオカしかおらず、タクもあえてマオカを指す固有名詞の代わりである「二番目のヒメミコ」と言わなかった。

 サナは、マヒロが自分の顔色を伺っている気配を感じながら、

「許す」

 と短く言った。

「ありがとうございます。ヒメミコと私が縁を結ぶことで、ヤマトの――」

 サナは遮って、

「許す、と言うておる」

 と繰り返した。タクは一度平伏し、立ち上がった。その背中に、サナの声が被さる。

「タクよ」

 タクが、振り返る。

「お前は、蛇じゃの」

 古来、日本では、大陸の影響により、蛇は神の使いとして大切にされていた。さらにさかのぼり、蛇に関する大陸の価値観を輸入する前のこの時代では、「蛇」といえば見た目のまま、不気味なもの、邪なものを意味した。現代においてキリスト教の聖書の影響により、いかがわしく悪しきものというような印象があるが、それに似ている。


 タクはことさらに小首を傾げて見せる。それに向けてサナはいたずらっぽく笑いながら、

「なに、ひょろりと身体が長いからよ」

 と言った。タクはそれに対して同質の笑みを返し、立ち去った。


 タクがどれだけのことを、何を目的として考えているのかは、誰も知らない。それについて最も想像を巡らせているマヒロが、タクのあとに続いた。

 呼び止めると、サナに喩えられた蛇のような身体をゆっくりと振り向かせた。

「二番目のヒメミコとの婚儀は、いつ行う」

「マヒロが、婚儀を取り仕切ってくれるのですか」

「まだ決まっていない。お前の心を、見てからだ」

「心?」

「お前、なにを考えている」

 タクは多弁であるが、マヒロはどちらかと言えば朴訥ぼくとつで、いつも短い受け答えしかしない。ひょっとすると、これが今までに二人が交わした最も長い会話であるかもしれない。

「なにを、と言いますと?」

「お前の腹の中にがあるのは知っている。なんなら、今ここで、絶ち割って見てやろうか」

 タクが初めて見る、マヒロの顔だった。この男は、やる。あの新しい女王のためならば、例え肉親であっても、この男はやる、と思った。

「私は――」

 館の中からマヒロを誘導するように、タクが歩いた。秋の土が、音を立てる。

「ヒメミコが愛しくてたまらないのです」

 さらに言葉を継いで、

「お仕えし、陰に日に、ヒメミコのクニを作る、そのお手伝いをしたいのです」

 と言って振り返った。意外にも、その顔にけがれはなかった。

「ヒメミコが、愛しくて――」

「そう、たまらないのです」

「だから、抱いたと言うのか」

 タクの脊椎に、電流が走った。

「仰る意味が、分かりません」

「だから、ヒメミコを抱いたと言うのか」

 マヒロの眼からは光が消えていた。タクはマヒロが何のことを言っているのか、ヒメミコのことを言っているのか、分かりすぎるほど分かった。

「お前を、おれは、許さない」

 気が、満ちた。

 マヒロから、拳撃が繰り出される。

 じつに意外なことであるが、拳で戦う場合、相手に向かって真っ直ぐに拳を突き出すようになるのはこれよりずっと後のことで、マヒロが繰り出した拳撃は、剣を振るような格好で円運動を用い、相手を打つものであった。

 右手が剣、左手は盾である。だからボクシングの右利きの選手とは違い、攻めの構えの場合、右手右足が前、左手左足は後ろに構えた。

 紙一重でタクは、それを半身を引くことでかわした。

「――なにを」

 言葉を発するときに痛みが走り、頬に切り傷を負ったことに気付いた。剣と化したマヒロの拳で斬れたのである。

「さすが」

 と言ったところでタクも腰を落とし、強烈な左の蹴足を繰り出した。

 タクのように長い手足を持つ者の脚は、遠心力も重量もあるために怖い。

 その脚が台風のような唸りをあげてマヒロの顔面を通過した刹那、振り抜いた隙を逃すまいとするマヒロは、反撃の体勢を取った。

 すると、タクは地についた左足を軸足に、右足を大きく旋回させ、マヒロのこめかみを正確に撃ち抜いた。

 マヒロの世界は逆転し、気づいたら空が見えていた。

 膝に力が入らないが、それを気でもって制してゆっくりと立ち上がったところで、土をぱたぱたと踏む足音を聞き、構えを解いた。その足音の持ち主は、この天地あめつちの間に一人しかいなかった。

「なにをしておる!」

 サナ。

「マヒロが、私の覚悟のほどを試してくれたのです」

「なに?」

「十分に、示せたと思います。いかがでしょう?私の婚儀を、取り仕切って下さいますか?」

「――ああ」

 マヒロが、こめかみから流れる血を拭いながら言うと、タクは短く挨拶をし、去っていった。

「大丈夫か、マヒロ。ああ、こんなに血が」

 伸びてくるサナの手を優しく払い除け、マヒロは館の方に向かって歩きだした。そのあとを、ぱたぱたという足音が追う。

「なあ、マヒロよ。タクの言ったことは、ほんとうなのか?覚悟を試すとは、なんのことじゃ?」

「くそっ」

 マヒロが、いきなり脇に生えている細い木を打った。

 その木が倒れ、生々しく白い折れ痕を見せた。マヒロの拳は木と同じようにささくれて破れたが、その色は赤であった。

「ああ、マヒロ」

 サナは、マヒロの破れた拳を両の掌で包み、涙を流した。

「あいつを、私は許さない」

「ともかく、手当てを」

 数日前まで先王が暮らしていたサナの自室にマヒロを押し込むと、ありったけの薬草を擂り潰し、こめかみと拳に塗った。

「痛むか」

「いいえ」

 マヒロは文字通り手当てをするサナの手を握り、ゆっくりと力を込めた。

「せっかく塗った薬草が――」

 サナは、マヒロの体重を感じた。

「――落ちるぞ」

「手当てなど、不要です」

 サナは、昼間、こんなにも間近でマヒロの瞳を見ることなどなかった。

 その瞳の中にも、火が宿っているのを見た。

 ああ、これは私の火だ、と悲しいような、快いような気持ちでそれを見つめ、やがて目を閉じると、その火の熱だけが互いの身体を通して伝わった。

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