八重歯
ヒコミコは、憮然としている。
「軍師を殺し、勇名高い
老軍師ユンが、平伏している。叱責されると思っているらしい。
「まあ、よい」
意外な言葉に、ユンは顔を上げた。
「マヒロめは、簡単なことでは死なぬであろうよ」
傍らにいるセイは、ヒコミコが嬉しそうであることに気付いた。同時に、あの白銀色の鎧兜に身を包んだ、恐るべき敵の姿を思い浮かべた。もう、この頃になると、マヒロの名を知らぬ者はこの天地の間にはなく、どこそこの川に棲む二つ頭の龍の神が怒ったとき、わずか一剣でその首の一つを斬り落として鎮めたとか、どこそこの山の神が大熊の姿で現れたときは、夜の闇の中で信じられぬほど長い弓でそれを射抜いて倒したとか噂されるようになっている。セイは、その人となりを知っているから、そのような噂は馬鹿馬鹿しいことと思っていた。
──あの眠ったような眼の八重歯の可愛い男に、神など倒せるものか。
と。
しかし、相対したときの、あの武。常人ならばわずか一合で討たれるであろう。剣撃の速さ、重さはセイの出会った人間のうちの何者よりも優れていた。巧みに身をかわして攻撃が当たらぬようにし、死角から死角から剣を繰り出してくる。二本の剣を操る様は、燕か何かが素早く羽ばたいて飛行しながらついばんでくるようだった。それに、矢や飛刀が全く当たらぬ。マヒロを殺すには、その身体に直接刃物を撃ち込むしかなかった。
しかも、今回、それすらもしくじったという。では、マヒロはどうすれば死ぬというのか。傷を満身に負い、なお立ち、こちらに向け必殺の一撃を叩き込もうとするあの眼に宿るものは、なんだ。
「ユンよ」
ヒコミコが、ユンに言葉をかけた。
「細かな工作も、よい」
「はっ」
「しかしな、策で殺せる者と、そうでない者がいるのだ」
ユンは再び頭を床につけた。
「マヒロは、武によってしか死なぬであろう。この俺に宿る火で、その身体を焼かねば、死なぬであろう」
ユンは床に向かって、ごもっともでございます、と言った。しかしセイは、果たしてそうであろうか、と思った。向かい合う度、打ち合う度、マヒロのあの眼に宿っているものは、確かに、火ではなかったか。その火が、ヒコミコの火すら飲み込んでしまうということはないか。あるいはその火が生む風が、ヒコミコの火を吹き消してしまうということはないか。
ヒコミコの頭髪に白いものが混じりだしているのを、セイは知っている。それが全て白になる前に事業を果たすには、どうしたらよいのか。
「ヒコミコ」
セイの後ろで人形のように立っていたクシムが、口を開いた。
「なんだ」
この無口で不気味な青年が、ヒコミコは好きであった。誰よりも
「申しあげても、よろしいでしょうか」
「許す」
「ヤマトなど、放っておかれませ」
これにはヒコミコもユンも面食らい、セイも、これ、と
「ヤマトを、放っておく?」
「ええ。思えば、私がこのクナの地で生きることを許され、父上の子として育てて頂いたその間、クナはずっとヤマトと戦っております」
「その通りだ。ヤマトを滅ぼさぬ限り、このアシハラノナカツノクニ──」
と、クナでの流行語となっている「天地、天下」を意味する語彙を用いた。
「──の平定は成らぬのだ、クシムよ」
ヒコミコは、やはりクシムに優しい。この壊れた人形のように一定の動作──殺すということ──しかせぬ青年に、かつての己を重ねているのかもしれない。
「わかっております。しかし、その途上、間違って、ヒコミコが倒れられればどうするのです。滅ぶのは我らではありませんか」
「では、どうするのがよいとお前は思うのだ?」
ヒコミコは、確かに感じていた。無口なはずのこの若者に、才知の火が宿っているのを。
「放っておかれませ」
「それでは、ヤマトの膨張を許すだけだ」
「膨張させればよろしい」
大陸出身のユンは、クシムが何を言おうとしているのか、分かりかけてきた。そうすると、この若者が、途端に恐ろしいもののように思えてきた。
「膨張させるだけさせ、然るべき時に、一気にそれを覆し、飲み込むのです。ヤマトは我らのためにせっせと汗を流し、血を垂らし、このアシハラノナカツノクニを平らげてゆくのです」
クシムが、これほどまでに人と話すところを、セイすらも初めて見た。
「それは、妙案ではあります。時期とやり方さえ間違えねば。こちらは毎度、戦う度に多くの兵を失い、結局目的は果たせぬということが多く、さらにその傷を癒すことに時間を費やし、また戦い、兵を失うよりも、早くヒコミコの大願が果たせるかもしれませぬ」
ユンも、同意を示した。
「ふむ、そもそも、何故、我らはいつも負けるのだ」
「ヒコミコがおられる限り、何度でも再生は可能です。それを負けとは言いますまい」
ユンがおもねるようなことを言った。
「いいえ」
クシムが一歩、進み出た。
「策を授ける者が、無能であるからです」
クシムが、影になった。次の瞬間、ユンの首筋に冷たい刃が当てられていた。ユンが驚いて身を竦めたので、薄皮が切れ、桃色の血が、わずかに滲んだ。
「
「やめぬか、クシム」
ヒコミコが静かに言った。クシムは当てた刃をくるりと返し、自らの首に押し当てた。
「私の言うことが間違っているなら、今ここで、剣を押せ、とお命じ下さい。そうすればこのクシムの首は、自ずからヒコミコの足元に転がってゆくでしょう」
「お前は、正しくない」
クシムの腕が、自らの首に当てた剣を引くべく動作を始めた。
「しかし、間違ってもいない」
もう少しで、クシムの首からは大量の血が飛ぶところであった。
「ユンよ。クシムの言う通りにしてみぬか」
「異存はありません」
これで、決まった。
「では、セイの子クシム。これより、俺に戦いの策を授けよ」
「喜んで」
セイも、我が子ながら、クシムが恐ろしくなった。
ヤマトの地において。
マヒロはまだ傷が癒えぬため、そこにはいない。あれから三日、眠っていた。サナは眠らずマヒロの頬を撫でてやったり、汗をかいたら拭いてやったりしていた。コウラが心配して代わると申し出たが、サナは、よい、とだけ言い、マヒロの隣を動かない。どのような構造の身体になっているのが、食事も摂らず、水も飲まず、用も足さず。四日目の朝、雨の音の中、マヒロはやっと眼を覚ました。サナは、にっこりと微笑んでやった。
「ヒメミコ」
「戻ったか、マヒロ」
「おれは」
マヒロは身体を起こそうとしたが、上手く動かぬようであった。
「ハツミは」
「コウラが打ち殺した」
「ハツミは、クナの意を受け、おれを殺しに来たのだと言っていました」
「うむ」
「うかつでした。おれに、そのような手が伸びてくるとは」
マヒロの声は、かすれて小さい。しかしそこに宿る生命の息吹に、サナは感謝したい気持ちだった。
「お前は、お前が思っている以上に、多くの人にとって大きなものなのだ。よい意味でも、悪い意味でも、な」
マヒロは、小さく頷いた。
「夢を、見たような気がします」
「夢?」
「おれは、ずっと戦っていて、血を浴び、屍を踏みつけ、ずっと進んでいました」
サナは、マヒロの手を握ってやった。
「おれが、その方向で間違いないと確信して進んでいたのを、ヒメミコが呼び戻したのです」
「わたしが?」
「お前の血は、わたしが拭う。お前を焼く火は、わたしが消そう。だから、もう少し、辛抱せぬか。ヒメミコは、そう言ったと思います」
サナは、静かに笑った。
「お前が、わたしに言った言葉ではないか」
「おれは、おれの進む、血の海に積み重なる屍の道の先にこそヒメミコがいると思い、追いかけていたのですが、ヒメミコは、はじめから、すぐそばにいたのですね」
「マヒロ」
「はい」
「わたしは、お前じゃ」
「おれは、ヒメミコと共に、生きてゆきます」
サナは、マヒロの手を握る力を強めた。
「マヒロ」
「はい」
「心の底から、わたしはお前を好いておる」
「おれもですよ、ヒメミコ」
「マヒロ」
「はい」
「わたしの名を、聞いてくれぬか」
婚姻を結ぼうということである。
「聞きません」
「なぜ」
「そうすれば、おれの好きなヒメミコは、ただの女になってしまう」
くすくすと笑った。
「おれの、可愛いヒメミコでいてほしいのです」
サナも、笑った。
「阿呆。せっかく申し出てやったものを」
「婚姻など、ただの催し事です。おれは、ヒメミコの心を手に入れたのだ」
続きを、サナが言ってやった。
「これ以上、何も望むものなどない」
二人、優しく笑い合った。
サナはその後、あとを頼む。とコウラに言って自室に戻り、丸一日以上眠った。起きると、飯。と言い、食事を運ばせ、例の黒檀の端でちゃかちゃかと食った。食い終わると、三日寝ず食事も取らず献身的な看病をしていた女の顔はなく、ヤマトの女王の顔に戻った。
そこに、オオミとカイがやってきた。
ユウリの地とハラで発生した小さな反乱の鎮憮が完了した報告に来たらしい。ひとしきりの報告が終わると、サナと
「マヒロ様の様子は、どうだ」
「はい。眠っておられます」
「そうか」
「このまま、回復されると思います」
「そりゃ良かった。マヒロ様に死なれちゃ、ヤマトは立ち行かんぞ」
カイが安心したのか、冗談めかしく言った。
「しかし、まさか、あのハツミが、クナの者であったとは」
コウラが肩を落とした。
「なんじゃ、お前、好いておったのか」
サナが意地悪な顔をし、白い歯を見せた。
「まさか」
「オオトの、お前のヒメミコに言いつけてやろうか」
「おやめ下さい」
酒が、運ばれてきた。
「おれの分は、ないのですか」
いきなり扉が開き、マヒロが入ってきた。一瞬、しんとした。そののち、サナが弾かれたように立ち上がって声を上げる。
「阿呆、寝ておれ!」
「十分に、寝ましたよ」
どかりとサナの隣に腰を下ろす。
「傷は、痛まぬのか」
「痛みますよ」
サナの杯を取り、酒を飲み干した。
「酒は、やめておけ」
「寝ている間、何も飲まず、何も食わずであったから喉が渇いて腹も減って、このままでは死んでしまうと思い、旨そうな匂いにつられ、やってきたのです」
コウラが、自分の
「済まぬ、コウラ。血が、足りぬ」
「魚を、もっと持って来させましょう」
「おいおい、マヒロ様の腹が、また破れてしまうぞ」
カイが笑った。
「ほら、マヒロ様。俺の分で良かったら、食いますか」
「カイ、済まぬ」
マヒロはカイの分にも手を付けた。
「これで明日には、普通に動けるでしょう」
「お前は、どんな身体をしているのだ」
「このマヒロ、ヒメミコの楯となり、敵を打ち破る矛ともなりましょう。これしきの傷など、蚊に刺されたようなものですな」
と珍しくおどけて見せたので、皆笑った。
「阿呆め。先程まで雪のような白い顔をして、死にそうになりながら寝ておったくせに」
「おや、それではマヒロ様ではなく、マシロ様と呼ばねばなりませんな」
カイが冗談を言った。無論、この時代の人々もこういった洒落、諧謔を面白がることをする。サナは手を叩いて笑う。
「よかった。ほんとうに」
コウラは、涙を流している、
「馬鹿者。お前はすぐに泣く。おれが死ねば、お前がおれの兵を預かるのだぞ」
「マヒロ様」
静かに笑っていたオオミが、口を開いた。
「私も、今から泣きます。お許し下さい」
と断ってから、大声で泣き出した。マヒロは、それを見て声を上げて笑った。やはり一本だけ八重歯が覗くのが、ひどく可愛い。
「マヒロ様、なんだか明るくなられましたな」
とカイが言う。
「おれは、ヒメミコの命を分けてもらい、戻ってきたのだ。ヒメミコのがさつなところが、うつったのであろう」
サナが、マヒロの頭をぱちりと叩いた。
「ヒメミコ」
マヒロが、サナの方を向き直った。
「感謝します」
「おれを、あるべき方へ導いてくれて」
それから三日後には、いつも一人稽古に使う、常人ならばすぐ音を上げるほどに太い棒を振っていたというから、やはりこの男はただ者ではない。
コウラは心配して様子を見に行ったが、お前もどうだ、といきなり細い棒を渡された。病み上がりのマヒロに無理をさせぬよう、緩く打ちかかろうと構えたが、身体が動かない。
あれほど深い光を湛えていたマヒロの眼の中の火が、消えていた。打ちかかろうとすればどこからでも打ちかかれそうでいて、一分の隙もないようにも思えた。すぐに、どっと汗が吹き出てくる。マヒロの眼には、ただコウラが映っていた。マヒロの眼の中のコウラが、動いた。それより早く、マヒロの太い棒が来て、風だけを残し、目の前で止まった。
「まだまだだな」
マヒロは、八重歯を見せ、笑った。
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