トオサの戦い
ユウリは、明かりもない部屋の中に一人で座し、沈思の中にいた。
サナらを照らしている同じ月が、窓から覗き込んでいる。
リュウキの死のことを、彼は考えていた。あれほど、ヤマトにとって前例のない男を、ユウリは知らない。
ただ無邪気に、己の智がヤマトの益となることを喜んでいた。音楽家が音を出す喜びのために音楽を演奏するように、彼は、何の野心も私心もなく、ただ己の才をこの世に現出させることを楽しんでいたように思う。
ユウリは、未だになぜリュウキが死んだのか分からぬ。リュウキを失ったとはいえ、ヤマトがすぐに揺らぐことなどなく、コウラなどの新しい世代の者も育ってきている。
しかし、リュウキのあの天才的な策なくして、クナの火を退けられるのか。リュウキですら、オオシマでの戦いのときは、クナに一杯食わされていたではないか。
マヒロは、サナのことになると盲目で、ヤマトのことになると思考が直線的すぎる。
タクは、相変わらず何を考えているのか分からず、せっせと外交をしたり、傘下に入った諸地域の候にさまざまな指示をしたりしている。
その部下のナシメは、憎めない男である。ごく凡庸な印象で、熟れる前のあけびの実に目鼻をつけただけのような顔をしているが、己の凡庸をよく知っているのか、人一倍努力をし、ヤマトを支えようとする姿が好ましかった。
あとは、サナの妹たちである。
マオカは幼い頃から大人しく、決して人の前には立たず、いつも一人か、誰かといるときはその影のようにしていた。今も恐らくあの蛇のような夫のとぐろに巻かれているのであろう。
トミはリュウキを失ってからというもの、あれほど明るかった性格も蓋を閉じたようになってしまい、常に暗い影を背負っていた。
ユウリは自身のことなど、最早何の役にも立たぬただの老いぼれでしかないと思っていた。
人が、欲しい。
それが揃うまでは、まだヤマトを支え続けなければならぬ、と思った。
ユウリには、二人の息子がいる。コウラがいるということは息子もしくは娘がいるのは当たり前であるが、コウラはその長男の子であった。これまで物語には現れてはこなかったが、戦にも出ているし、今もユウリが今回のように所用により留守にする際は領地の守備を任せたりもしていた。
ユウリにすれば、武も智も物足りぬと思い、自らの下に付けて身の回りの世話をさせ、戦のときは細かな単位の部隊長のような役目を与えていたが、ここらで彼らをヤマトの柱石になりうる者にすべく鍛え直さねば、と思っていた。長男がマヒロより僅かに上、次男がサナの少し下と歳が少し離れており、母も違う。
今回の戦では自らの部隊を二つに分け、それぞれの指揮をさせるつもりであり、明日、軍議の席で、ユウリはその許しを得るつもりであった。
そして、夜が明けた。
日が高くなる前にタクはナシメを伴ってやって来て、楼閣の二階の、広間に入った。
一座には、サナ、マヒロ、タク、ナシメ、ユウリの僅かな者しかおらぬ。タク、ナシメと共にやってきたコウラは、室外に控えている。
もともと、サナの代になってからは、ヤマトの中核そのものとも言える集まりは、僅かな人数により運営されていたが、やはり、これから戦をするというのにリュウキがおらぬという心細さがある。海運を確保し、大陸の認可を得て自らが正当であるという大義名分を打ち立てなければならないという難しさも、よりその心細さを助長するのだろう。
彼らは、戦略について話し合った。
まず、船を発し、オオシマに渡る。そこから向かいの島に渡り、沿岸の要点になるムラを制圧しつつ、急所になる要地を押さえてゆく。
総指揮は、マヒロの指揮する五千。それにユウリの指揮する五千が続くことになった。
ユウリは、昨日思案した通り、二人の息子に兵を二千ずつ与え、自らも千の隊を率い、沿岸の要地を押さえるという役を買って出、許された。
ユウリは、すぐさまその治める地に使いを走らせ、二人の息子と兵を召集した。
マヒロもまた兵を整え、ユウリの息子らを待ち、進発することとした。
また、今回は、ヒトココの地でそうしたように、食料を購いながらゆくわけにはいかない。タクの進言で、二日に一度オオシマを発し、兵糧を届け、戻り、また積み、発し、という船団を二隊設け、兵站の切れぬようにした。
残存兵力は僅かなものとなるが、統治の安定したヤマトの地を守備するには十分であろう、と言う。
翌日の夕暮れ時には、ユウリの息子たちが兵を連れ到着した。二人の息子は兵を楼閣の外に駐留させると、二階の広間に姿を見せた。
「オオミと申します」
「カイです」
と、改めてそれぞれ挨拶をした。ユウリの子であるので別に見知らぬ顔ではないが、軍の指揮者としてこの楼閣に上がるのは初めてである。
長男のオオミは年相応に落ち着いており、周囲からの信望も厚い。次男のカイは落ち着きがなく、飄々としている。
「ヒメミコ」
カイが言葉を発し、
「俺たちが来たからには、クナなぞ一捻りですよ」
と笑った。結ばぬまま垂らしている栗色の髪はよく手入れされており、麻の上衣に、下衣はからげた裾から
「カイ、ヒメミコに気安く軽口を叩くものではない」
オオミがたしなめた。カイはぺろりと舌を出すと、頭の上で手を組んだ。
オオミの装束は、カイとはうって変わって、麻の上衣に戦や農耕の際に用いるズボン状の下衣を穿いている。
ちなみにこの当時は、室内でも沓を脱がないか、もともと裸足で過ごすのが普通である。サナは沓を用いたり面倒なときは用いなかったりで、マヒロは馬に乗る習慣があるため普段から沓であった。ユウリは戦いや遠出の際のみに沓を用いる。タクは大陸から求めた、先の尖った形で足首まである「靴」を愛用していた。
この兄弟の場合、兄のオオミは平素から勇将ユウリの子であることを自分の定義とし、それに相応しい容儀を身に付けているが、次男のカイは奔放で、父がユウリであることも、兄がそれを誇りとしていることも、自分がどう見られているのかも、全く気にしない性格のようであった。それが、板敷きの上に放り出された裸足の、黒く汚れた足の裏から滲み出ていた。
サナはおかしくなり、吹き出した。
「調子に乗って、死ぬでないぞ、ユウリの子カイよ。オオミも、期待している。存分に働いてこい」
と言い付けた。それから、最終的な確認を皆で行い、進発した。
広大な補給基地となったオオシマが背後にあるわけだから、進撃はいくらか楽であった。
あとは、沿岸の諸地域の抵抗がどれくらい激しいかという懸念があったが、ユウリ親子の担当する沿岸の寄航地となるムラは、どれも簡単に
マヒロは騎馬を引き連れ、歩兵を津波のようにして、ユウリらが陥とした地域を保持するために必要な要所に攻め入る。
まだ、本国からクナのヒコミコが来るという気配はない。このまま一気に決めてしまいたかった。
ユウリ、オオミ、カイは三手に分かれ、別のムラを攻めた。ムラでは櫓の上から侵攻軍を認め、貝で作られた笛を吹き、異常を知らせている。
オオミの目の前に、ぱらぱらと矢が降ってくるが、届かぬ。
「焦るな。ここまで矢は届かぬ。十分に射かけさせるのだ」
と、この日から用いることとした自らの印である麻地に縦一本の赤い線を引いた旗の下の兵に指揮をした。
カイの方にも、同じように矢が射かけられてくる。
カイは、馬に鞭を入れた。カイの旗は、半分ずつ、上下を赤と白に塗り分けたものである。
騎馬の五十騎に、付いてこい、と指示をした。
降ってくる矢の下を潜り、ムラの周囲にめぐらされた土塁に辿り着いた。そのまま五十騎が分かれて進み、櫓の上から矢を射ている者をことごとく叩き落とし、十ある櫓を全て制圧した。そのうちの一つからカイがひょっこりと顔を出し、手を振ると、待機する歩兵から歓声が上がった。
「おい、お前ら、来い」
歩兵がムラになだれ込んだ。カイ自身も兵の間に混じり、剣を振るい、手向かう者を斬った。
オオミは、敵に十分に矢を射させた後、頃合いを見計らって進発した。
その勢いは、
また、その間にマヒロは軍を進め、例えばそこを陥とすことで背後の山の中の地域が隔絶され、立ち枯れてしまうというような場所を、あるいは複数の浦が同時にクナ側から見れば機能を失い、ヤマト側から見れば保持できるというような場所を攻めた。そういった場所には大抵大きなムラやかつての小さなクニの
そこには以前クナのヒコミコが滅ぼしたトオサのクニもあったし、セイに従い教育を受けているクシムの生まれたタカミのムラもあった。
トオサのクニは王を滅ぼされ、都邑を焼かれクナの統治下に入ってから、その海路の保持の中継点として要塞化されていた。
マヒロは、その前に立った。それを認めた要塞の櫓から、やはり矢が降ってくる。櫓が多く、ひとつひとつが大きいため、矢の数も多い。
マヒロは、一騎、馬をゆっくりと進めた。
手には、愛用の
矢を
喝。と弓が鳴る。矢が信じられないほどの速さで楼閣のうちの一つに向かい、そこにひしめく者のうちの数人を吹き飛ばした。指からこぼれるイネの種のように人間が櫓からこぼれ落ちるのが、マヒロの位置から見えた。
それで、その櫓は沈黙した。気付いた瞬間には自分の隣の者が他の数人とともに吹き飛び、櫓から落下してゆくのである。ヤマトの女王は数多の精霊と陽の神をその身に宿すと言われているから、その将が神の加護を受けていても不思議ではない。彼らは、飛来した矢がただの矢ではなく、神の力を宿した人智を越えた物体であるように思い、我先にと櫓を降りた。
それを、他の櫓に対しても行った。
マヒロの弓が、
喝。
と鳴る度、櫓から人間が米粒のように、あるいは煎り豆のように吹き飛んだ。
背後の兵からも、称賛の声が高く上がっている。マヒロの兵もやはり、彼には神宿しのヒメミコの加護が付いていると信じていた。
マヒロにすれば、それは加護でもなんでもなかった。彼はサナという一人の人間のため、矢を番え、放っていた。彼女が見、恐れた血の河を、火の海を、屍の山を消したくて、目の前に屍を作っていた。それは全く、マヒロとサナの間の個人同士の感情の結び付き以外のなにものでもない。そういう意味では、マヒロにとってのサナは大いなるヤマトの女王であると共に、我儘で孤独な一人の女であった。
櫓の上から、敵兵が消えた。マヒロは弓を掲げ、自らの兵の方を振り返った。
一斉に、歓声が上がる。
「行くぞ、おれに続け」
自ら放った声を追い越す程の勢いで、駆けた。
コウラは、先を駆けるマヒロの背を追いかけていた。マヒロが駆けながら従者に弓を渡し、矛に持ち替えたのを見て、自らも矛を握りしめた。あれほど、マヒロの手解きを受けたのである。これから突入する敵の拠点の中にあっても、恐怖はないはずである。
馬が、要塞の中で陣を組む敵五百ほどにぶつかった。
マヒロは敵などいないかのように駆け抜け、陣を突き抜けた。コウラも必死で続く。マヒロが馬首を回し、再び駆ける。それを数度繰り返すと、数十ずつの塊に敵は分断された。そこにヤマトの歩兵が殺到してくる。
マヒロの咆哮。
トオサの兵が、枝切れのようにばらばらと吹き飛ぶ。コウラはその様を、息を飲むようにして見ていた。
身体が、反応した。気づけば自らの周りにトオサの兵が数人取り付いている。その一人が繰り出した矛を、身を捻ってかわしていた。咄嗟に、矛を繰り出す。
その兵の首に刃が刺さる緩やかな感触があり、更に力を込め、突き通し、払うと首が飛んだ。これが、コウラが初めて人を殺めた瞬間である。
一瞬、コウラはたじろいだが、倒れる者が自分か相手かの違いだけであり、相手が倒れればヤマトの勝利に、自分が倒れれば相手の勝利に一歩近づくだけだと思った。自分が倒れれば、それを気にかけたマヒロが不覚を取らぬとも限らぬ。マヒロが倒れれば別で行動しているユウリやオオミ、カイの親子も戦う意義を失う。そうすればヤマトは負ける。負ければ女王や、彼の
それをさせぬため、コウラは火になった。
矛を旋回させ、一人を斬った。この時代、最も多く用いられている矛という武器は、槍のように長い柄の先に、両刃の剣が取り付けられたもので、刺突のほか斬撃を得意としていた。柄の長さは二メートルほどかそれ以上、材質は様々で、ふつうは堅い木か青銅、あるいは鉄であった。コウラは取り回しと威力を加味し、中がパイプ状になるように薄く打った鉄の板を丸めて作った柄のものを使用していた。ちなみにマヒロの矛は、中までぎっしりと身の詰まった鉄で非常に重いが、それを取り回す技術を持つマヒロは、棒切れのように振り回している。
矛は、柄の先にボールペンのキャップのように刃を取り付ける。一般の兵は量産された刃を思い思いの柄に取り付けるだけだが、将の用いるものとなればその刃の形状も長さも人それぞれであった。マヒロなどは鉄を厚く重ねた分厚く長い刃を用いていたし、ユウリのそれはマヒロより薄く、短い。コウラが用いているのは幅が細く、やや長いという形状のものであった。
これより後年になり、刃を刺突に特化させるべく柳の葉のような形状にし、柄に被せるのではなく柄に付けられた穴に
その矛を旋回させ、コウラは敵を討った。気付いたときには、自らを取り囲む敵はいなくなっていた。いや、歩兵の乱入により五百の敵は飲み込まれ、ことごとく死骸と化していた。
マヒロは更に奥へ馬をすすめ、ぶつかる敵陣で全て同じことをした。コウラもその脇にできるだけ従い、戦った。
奥までゆくと、かつて王の居館があったと思われる敷地に建てられた新しい建物から、美々しく武装を施した者が出てきた。どうやら、この地の指揮官らしい。この南国の気候を持つトオサの地に照り付ける晩春の陽を受け、甲冑が鈍く輝いている。
マヒロも、馬を進めた。
「トオサが地を守る、クナのヒコミコが臣、ウラと言う」
その男が名乗った。歳の頃は四十くらいか。
「ヤマトのヒメヒコが臣、マヒロ」
マヒロも応じ、馬を降りた。見たことのない蝶が一羽、飛んでいる。
一騎討ち。
マヒロが矛を地に突き立て、二本の剣を抜いた。
当時の軍装として盾を用いることが多かったが、マヒロは騎馬で、弓も使うので盾は持たない。盾の代わりに剣を用いる工夫を、独自にこなしている。
二人の将が、同時に駆け出す。
マヒロが通り過ぎた後、遅れてくる風に煽られ、蝶が宙を何度か旋回した。
すれ違う。
鈍い音が響いた。
ウラの頬に、新しい傷ができていた。
マヒロは、また姿勢を低くし、二本の剣を翼のように広げ、駆けた。速い。駆け出すとすぐに最高速度に達するため、その速さをサナが宿す地の精霊の加護を受けているためだとと信じる者もいるほどであった。
ぱん、とマヒロの沓が地を蹴る音がした。その高さは、見る者からすればやはり風の精霊が見えない手でもってマヒロを吊り上げているようであった。
ウラの兜が、落ちた。
「よく、かわすものだ」
マヒロは落ち着いている。とんとんと間合いの外に身を引くと、相手に対して右足を一歩引き、半分身体を開く姿勢を取った。
並の者ならば最初にすれ違った際に死骸になっているが、このウラは頬に切り傷を負い、兜を飛ばされた程度で済んでいるのだから、相当な使い手であることは間違いない。
その使い手が、再び駆けた。
「この地を、守らねばならぬのだ」
駆けながら叫んだ。マヒロも応じる。
左の剣を、振りかぶる。
それに応じようとしたウラの剣が、少し上がる。
空いた僅かな空間の、その先にある丸胴の鎧の端に、マヒロは右手の剣を刺し込んだ。
そのまま、駆け抜けた。
ウラは脇腹を斬られ、鮮血を吹き出した。
一瞬、よろめいたが、血を足で踏み直し、蒼白になった顔をマヒロの方に向けた。
マヒロが、再び跳躍する。
その刃が肩口から入り、丸胴の鎧ごとウラの胴体を斜めに絶ち割り、死骸にした。
辺りは、静寂のままである。
マヒロが再び翼を広げるようにして両の剣を振り、血払いをし、鞘に納めるとヤマトの兵から歓声が上がった。
――ユウリの方は、どうだろう。
マヒロは、彼らが戦っているであろう方向に眼を向けた。
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