それぞれの夜

 ヤマトがヒトココの地を治めるようになり、いくらか季節が巡った。このところ、争乱の気配も薄くなっており、クナとの間にも目立った戦いは無い。

 ヤマトは国力を更に増強し、クナは国力の回復に努めた。その間に、こんにちで言う四国は全てクナのものとなっている。

 オオシマは依然ヤマトが押さえたままであるが、クナが瀬戸内海沿岸の勢力を確固たるものとしたことで海運には使えず、大陸に向かうには、南回りの航路を取るか、ヤマトが独自に拓いた、ヤマトのある地の北の果ての海からの航路を用いて行くことになるわけであるが、それも封鎖状態にある。

 封鎖状態というのは、勿論クナによる妨害工作である。彼らは漁船などを除く全ての船にクナのヒコミコの印を押した鑑札を持たせ、沿岸地域に布令を出し、その鑑札を持たぬ船の寄航を禁じ、場合によっては攻撃も許した。これにはヤマトは閉口した。


 この時代、大陸への船は、必ず春から夏までの間にしか出さなかった。北九州地方や福岡地方にお住まいの読者諸兄諸姉はよくご存知のはずであるが、秋以降のこの海は荒れやすい。

 速力の遅いこの時代の船で、長崎あたりから海洋を直接横断し大陸へ渡ろうとすれば、それ即ち難破を意味する。ゆえに、以前に述べた島から島へと、蝶が花を渡るような進み方の航路を用いなければ、大陸には渡れぬ。

 また、外洋にまで出れば、太陽や星や月などの位置を手がかりに己の位置を知らねばならず、その点陸地を見ながら進めば迷う心配もない。

 それでも、ときに、船は沈む。こういった大がかりな航海の度に、船の無事を祈る係の者が罪人や奴婢から指名され、船が戻るまでずっと祈った。ときに不幸があり船が沈んだりすると、その祈りを捧げる者も斬られたり、海に沈められたりした。それくらい、航海とは困難なもので、せっかく拓いた航路が閉ざされることは、非常な痛手なのである。


 ヤマトは、魏から見たところの内戦状態という形の緩和――といっても直接的な交戦が止んでいるに過ぎぬが――と、領土拡大をもって、再度使節を派遣し、改めて自らが大陸の呼称での倭国の頂点に君臨しているものであるというお墨付きを得たかった。

 が、船が出ぬ。一度、それと知らず船団を組織し、オオトの浦を発してオオシマに渡り、南回りに進もうとしたが、はじめの寄航地で例の検札に引っ掛かり、攻撃を仕掛けられて逃げ帰ってきた。幸い、沖に大型船を停泊させ、小型船で浦に乗り付けていたため、被害は小型船数槽を失ったのみであった。

 

 そのときのことについて触れておく。

 船団が引き返して来て、降りたナシメがタクにことの次第を報告した。

「クナが、そのような――」

 タクは少し考える素振りをし、

「ヒメミコには、お前を私からの使いとして出そう」

 と言い、ナシメにヤマトへの報告を命じた。

 翌日、報を聞いたサナは、ふむ、と低く唸った。

「それで、タクは、どうすると言うておるのだ」

 ナシメは首をかしげ、

「何も。海域が開けぬ限り無理、ということでございましょう」

「再び、海域を開く、か」

 それは、武力行使を意味する。ヤマトがクナの領土の端でもかじろうものなら、本土よりあの気の早いヒコミコが飛んで来て、再び血みどろの争いになるに決まっている。それは御免だが、海域が開けぬ限り、大陸へ朝貢することは叶わない。

「こういうとき、我々では思いも寄らぬ策を捻り出してくる者がいたのですが」

 と三十歳を越えたマヒロが言う。ということは、サナは二十代の半ばといったところであるが、やはり女王になってからというもの、不思議なほどに歳を取らぬ。ユウリは恐らく六十を越えているはずで、当時としては比較的長生きであると言っていい。


 余談であるが、当時、この島国には土着の病しか存在せず、後代や現在のようなコレラ、チフス、風疹、麻疹、インフルエンザのような恐ろしい病は存在しなかった。これらは全て、もっと後代に、船が大陸間を行き来するようになってから持ち込まれ、伝播したものである。

 筆者が中学生の時代、歴史を担当していた先生の授業が、わりあい面白かった。教科書に沿った内容の授業から外れた、教科書に載らぬ話の数々に面白味を感じた記憶がある。

 その先生が立てる説――ひょっとすると既存の学説かもしれぬが、その先生は自ら発見した手柄のように嬉々として語っておられた――によれば、当時の死因の一位は、虫歯であったのではないかと言う。発掘調査で出る弥生時代の墓などを調べると、骨の具合からは歳はそれほど老いてはいないと思われ、目立った傷もないような骨が出るという。とすれば病であろうが、先に述べたような恐ろしい病も少ない時代に若くして死ぬ理由が見つからぬ。しかし、歯だけが老人のそれのように欠け、朽ちているというものが多くあるらしい。

 サナらの時代よりも遥かな昔、縄文時代と呼ばれる頃にまで遡ると、この国にはイネも無く、人々は蛋白質は獣や魚介、昆虫などから摂り、炭水化物はシイやトチ、ドングリなどの木の実から摂取していた。

 しかし弥生時代になると、澱粉質の強いコメが伝わり、瞬く間にこの島国に広がった。ご存知の通り、コメは噛むと唾液と澱粉が混じって糖を発する。この糖が、弥生人をして虫歯で死に至らしめた張本人ではないか、と言うのだ。無論、コメの伝播より更に千年の時を経たサナらの時代、歯ブラシは無くとも、食事の後、口をすすぐのは常識になってはいたが。サナらがそうしていたかどうかは知らぬが、ある木の枝を噛むことでそれを虫歯予防にしていた、という話もある。


 余談が過ぎた。

 ユウリは老いたりとはいえその武勇と慧眼は健在で、遠く離れた地域の候などでもその名を知らぬ者は無かった。

 そのユウリが、皺の間に刻まれた目を開けた。

「では、大きく軍を発するほかありますまい」

「やるのか」

 サナは、珍しく気乗りがしないようであった。

「我が主を呼びますか?」

 ナシメが、タクをここに呼ぶこと、すなわち軍議を行うかどうかを訊いた。


 タクは、居室の窓の外に向かい、一人で小声で話していた。いや、よく見ると、闇の中に何者かがいるらしい。

「では、頼む」

 一旦、闇の中の者との話を終えたが、

「私は」

 と言葉を継ぎ、

「このヒメミコの国を、壊すようなことは望んでおらぬ。それだけは伝えておけ」

 と言った。

 ――心得ておりますとも。我が主も、ヤマトの国ができるだけ元気で大きく育つことを、望んでおります。

 と、闇が言葉を発した。

 同室でそのやり取りを聞いているマオカは、自らの夫の目論見を知っていた。それゆえ、それが露見することを恐れた。露見すれば、殺される。恐らく、夫だけでなく、自分も、イヨも。

 サナの眼は、山を隔てたヤマトにありながら、自分達のしていることを掌を差すようにして把握しているのではないか、という恐怖が付きまとっていた。

 はじめてタクに抱かれたとき、マオカは、タクがヤマトを我が物にしようとしていることを聞いた。女王は自分。民が民らしく生き、この天と地の間の全てが一つになる。そのような国を作りたい。とタクは言い、喜悦の中で呪文のように響かせた。

 その後、王は死に、サナが女王となった。女王となったサナにタクは取り入り、国の仕置きを欲しいままにするはずであった。その後、サナがにより死ねば、マオカは女王であった。

 それを、長い間ずっと、タクは先程の闇に溶けるようにして話していたような手合いの男どもと打ち合わせをし、進めてきたはずであった。どうやらタクは、その者らの背後にいる何者かの意を受けており、己と利害が一致する部分において協力をしているようだった。背後にいる者が何者であるのかは、マオカにも言わない。

 彼は、全て手配りをし、進めてはいる。しかし女王となったサナはどうだ。

 全てを見通す眼を持ち、その上で、ただただヤマトを強く、大きくしてきた。その周りには人が集まり、それを嬉々としてたすけているではないか。そしてサナが行っている事業こそ、タクが理想とし、行っていることではないか。

 更にサナは、己の跡はイヨにでもくれてやると言う。そしてマオカやタクに、好きにせよと言う。それは、マオカとタクの目論見を早くから、例の精霊のお告げのようなものにより見抜いている何よりの証で、お前達の好きにはさせぬ、という無言の圧力のように思えた。

 サナに子ができれば、その子可愛さに跡目を継がせるに決まっている。その父となるであろうマヒロは、少なくともタクとマオカを、何でもないような動作で殺しにやって来るに違いない。くれてやる、と言葉で言われても、サナのような千里眼を持たぬマオカは、未来ゆくさきをそのように恐れた。

 

「タク様」

 夫の名を呼んだ。

「もう、よろしいのではないですか」

 タクは、意外そうな顔をマオカに向けた。

「何を言う。私はあの日、お前に約束したのだ。私のヒメミコを、この国の王にすると」

 と言い、マオカを抱き寄せた。ちなみに、婚姻関係は主従関係よりも優先され、婚姻する前は「ヒメミコ」でも、妻となれば同格であった。タクは男として才に溢れ、夫としても優しかった。そのタクに甘く、わたしのヒメミコ、などと言われれば、マオカはやはりこの甘い愉悦に身を任せてしまうしかなかった。

 そこへ、駆け戻ってきたナシメが室外から呼ばわった。

「ヒメミコからの言伝です。明日、ヤマトの地へお出で下さい。船の道を保つため、軍を発するとのこと」


 一方、サナは。

 同じ時間、何も知らず、飯を食っていた。隣にはマヒロのみがいる。ユウリもどうじゃ、と誘ったのだが、このところめっきり食が細くなって、と楼閣の隣にある、彼がヤマトの地で宿泊する際に用いる部屋にさっさと引き上げてしまった。

 いつも頭に挿している黒檀の箸で、ちゃかちゃかと音を立てながら、美味そうに飯を口に運び、それを大きく噛みながらサナが言う。

「そういえば、コウラの様子はどうだ」

 取りとめもない話題である。

「武術の鍛練のほか、今は軍の進退について教えています」

 今も、コウラは二日に一度、マヒロのもとに通うことを続けている。顔にはまだ童臭が残っているが、もう身体はすっかり大人のそれであった。神武を宿す。と国内外で噂されるマヒロの手解きを受け続けているわけだから、腕前も並のものではない。しかし、滅多なことでは己の力をひけらかすようなことはせず、ただ静かに佇んでいる様は、まさしく将の器であった。

 サナは、くくと喉を鳴らし、

「もはや、お前の子じゃの」

 と言った。

「ヒメミコに子ができぬままであれば、タクの子が次の王となり、ヒメミコに子ができれば、我らが子が王となります。どちらにしろ、それらを守り、たすけることのできる将として育てるつもりです」

 やはり、サナとマヒロの間に子ができれば、それが王となると思っているらしかった。そのことについてサナは答えず、サナに子ができたとき、その父が自分であると当たり前のように思っていることに何やらおかしみを感じ、笑った。

「全ては、お前の種次第じゃの」

 これにはマヒロも参ってしまい、同じように笑った。普段はその眼に深い水の中から陽を見上げるような光を湛えており、周囲からは実質上のヤマトの宰相として一目置かれ、部下からはよく慕われて頼られているが、やはり笑うと白い八重歯が一本だけにゅっと出てきて、子供の頃のままの笑顔であった。

 ――何じゃ、髭なぞ生やして、偉そうにしおって。

 とサナは最大限の愛情を込め、思った。その視線がマヒロにも伝わり、また二人で笑った。


 明かりが消された室内で、マヒロの髭がサナの絹の衣服の上を這っている。

 サナは、徐々に荒くなる己の吐息に酔いながら、マヒロの長い髪を指でもてあそんでいた。月の明かりが差し込んでおり、下衣からはみ出たサナの白いももを浮かび上がらせている。

 マヒロの首筋に腕を回した。

 強く、力を。

 マヒロがいぶかしがって、動作をやめた。

「マヒロ」

 サナは、消え入りそうな声で、言った。

「わたしを、守ってくれ」

 震えている。

「いつも、守っておりますが」

「わかっておる」

 マヒロは、サナのまるい額から、睫毛の多い目尻、ぷっくりとした頬、小さく尖った顎、と指を這わせながら、

「何か、聞こえましたか」

 と優しく訊いてやった。

「――怖いのじゃ」

「なにが」

「あの日、わたしが女王になる日、神が、精霊が、わたしに見せたものが」

 サナは、マヒロと月明かりの下、眼を合わせた。

「わたしの道は、血と火をもって作られておる。あまりに、多くの者が死んだ。これからも――」

 と言ったとき、サナの身体がぴくりと痙攣した。マヒロの指が、触れている。

「血なら、おれが、拭います」

 サナの息が、荒くなる。

「火なら、おれが、消しましょう」

 声を、堪えることができない。

「だから、もう少し、辛抱なさいませ」

 サナは、このとき、マヒロが自らのために積み上げてきた屍が彼の背後に覆い被さっているのを見た。しかしマヒロは、自らのために、己の肩にのしかかるその重みに、潰されることすら許されない。

 血が嫌だと言えば拭ってくれ、火が怖いと言えば消してくれるこの不器用で朴訥で、悲しくなるほど優しい男だけが、サナを一人の人間にした。その愛しい体重を受け入れ、マヒロが与える律動に合わせ、

「うん、うん。辛抱する。すまぬ、マヒロ、すまぬ」

 サナは、何度もそう言った。

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