サナとマヒロ

 サナは、よく食らいよく遊びよく寝て、こんにちの同年代の少女と変わりなかった。異なる点があるとすれば、長く続く戦乱のクニに生まれたこと、そしてそのクニの王の娘であったことであろう。この年で九歳になる。

 王、クニと言っても、後代で見られるような城などはこの時代にはもちろん無く、それは大きな館といった程度のものであった。館を中心にした集落の東西には川が流れており、それをあちこちに引き込んでイネを栽培できるようにしているほか、有事の際は堀にもなるよう仕立ててある。


 サナはその小川まで駆けて行き、小さな生き物を探しては捕まえるということを日課としていた。

 世話役のマヒロという五つ上の男子が、少し離れたところからその様子を見ている。このマヒロの家は代々、王家の側近を務める家のうちの一つであったから、彼は決してサナの邪魔にならず、かといってこの活発すぎる娘から目を離さずにいることができるように教育されていたものだから、大変な思いをすることが多い。


 あるときは身を乗り出した拍子に小川に落ちたサナを慌てて引き揚げ、あるときは巣にイタズラをしたサナを追う蜂の群れを全て叩き落とし、あのの実を取れだの、あの魚を捕まえろだのと彼女の持ち出す無理難題にもできる限り応えた。

 だからといって忠烈無比という言葉はあてはまらない。彼らは、後年のいわゆる儒教的な「主従」ではなく、もっとやわらかな間柄であった。

 彼らだけに留まらず、この時代の人々は、こんにちの我々よりも、もっとおおらかで、従って人と人との距離は近く、天と地の距離も近かった。


 サナには不思議な力があった点も、こんにちの普通の少女とは異なっていた。あるときは石が、あるときは水が、秋には揺れるイネの穂が、冬には雪が声を持ち、語りかけてくるのである。大抵は空耳かと思うのであるが、稀に空耳ではないと確信を持つほど明らかに語りかけられることがあった。

 この時代はアニミズム信仰のような、ある種のストーリー性のある体系化された宗教とは異なる、天地万物に神や精霊が宿ると信じることが広く渡っていたから、サナはそれらの声が聞くことのできる、後代で言うところの巫女の存在として大層ひとびとに有難がられていた。


 館に戻ったサナは、ざっと泥を拭うと父親である王に声をかけ、自室に引き上げた。自室の前までマヒロが付き歩く。そのみちみち、

「マヒロよ」

 とサナは言う。

「王はいつも難しいことをお考えじゃ」

「ヒメミコ」

 マヒロは、サナを「ヒメミコ」という普通名詞で呼ぶ。名を支配することはその者の魂を支配することとなるから、彼らは自分よりも位が上にあたる者の名は決して呼ばない。


 この時代は中国のようなあざなもなく、後代の日本のようにいみなと通称が区別されていたわけでもなく、なおかつ王の一族ともなれば、その名は明かされず、知るものは一族のみという時代である。ゆえにマヒロはサナの名を知らず、ただ彼にとってのサナは「姫様」なのである。

 

 余談であるがこんにちの我々も、先輩や上司の下の名前を呼び捨てにするのは失礼であるという共通の規範を持ち、肩書きを持つ者のことはその肩書きを呼ぶことで当人を呼んだことになるが、それはこの名残りである。


「ヒメミコ。王はいつも民のためにお心を砕いておいでなのです」

「王とは、そのようなものか」

「そのようなものだと思いますよ」

 マヒロは歳の割には落ち着いた声で、少し笑った。

「今年は稲の実りがどうだとか先程も頭をかかえておいでであったが、そんなものは稲に聞けばよいものを」

「皆がヒメミコのように、稲の声が聞こえるわけではないのです」

「ふむ、わたしもいつも聞こえるわけではないからのう」

 少し論点がずれているが、マヒロはそれをいちいち正したりはしない。

「ではヒメミコ、明日が明けたら」

「明日が明けたら」


 この時代からやや降った時代まで「われ」「わたし」という一人称を「わ」と言ったという形跡がある——国号としての「倭、和」はそこから来ているという説もある——が、上代日本語なる未知の言語で会話を描くわけにはゆかぬから、ここでは後の時代の言葉に直し表記してゆく。


 引き取った自室には乳母のほか、召使いのような者が数人おり、そこで王の娘たる様々な教養、しつけを施される。サナの父は八人の妻を持ち、それぞれに子がいたがどういうわけか全て女子ばかりで、十人の姉妹の二番目がサナであった。

 夕食を済ませると間もなく日も落ち、用事がなければわざわざ火を焚くことはなく、そのまま床につく。曜日も何もない時代なので、おおむね、毎日がこの繰り返しであった。


 近隣他国との小競り合いなどは絶えないにしても、戦乱の時代に生まれながら、このようにサナの幼少期は比較的平穏であったと言える。

 この生まれつきふしぎな力を持った王の娘は、豊かな山河の腕に抱かれながら、やがて多くの能ある者を従え、この島国において奇跡とも言えるような事業に乗り出してゆく。


 運命という言葉を、使いたくはない。この先、彼女に何が待っていようとも、それは、彼女自身が決め、選ぶことの結果なのであるから。

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