海の匂い
ヤマトが大国オオトと戦をし、完膚無きまでに叩きのめしたという報は、瞬く間に広まった。
これによりオオトは滅亡し、ヤマトはその肥沃な平野と多くの民、優れた工業技術、そして海を手に入れた。
内陸の盆地に位置するために海を持たなかったヤマトが、その直接支配地域に海を持つというのは、政治や軍事、交易において大変な利をもたらすのは明らかである。
西の大国クナのことである。
大陸渡来のユンの献策により先王の時代から積極的膨張政策を取ってきたことは、既に述べた。そのクナが、当時から交通の大動脈であった、こんにちで言う「瀬戸内海」の制海権の獲得に向けて動いた。
むろん当時は、「瀬戸内海」などという近代的な呼称はなく、何々の灘、何々の海、などというもっと地域的な呼称で指される小海域の連続する海、と捉えられていた。惜しいことに、当時の人々がそれぞれの海域について、どのような名で呼んでいたのか現代には伝わっていないものが多いため、ここからはこれより後代の、それでいて当時の匂いが出来るだけ感じやすいであろう呼称で表記してゆく。
クナはその領土の東の果てよりもまだ東、
これも勿論ユンの献策であるから、大陸の人々の視点とは、この狭い島国のそれよりも遠大なものであるらしい。
地理的には、元々オオトのあった地からも、晴れた日ならば水平線の上に遠望できるほどの近さの島であるから、ヤマトとしては、ここを獲られれば、折角の海も無いのと同じことになる。
早く獲らねば、と焦るクナは、領土の西の果てのクニグニが散在する地域から発した陸路の軍と、海路の軍としてこの頃すでにクナの傘下に入っていたそのすぐ南に位置する
先に触れた通り、クナはもともと大陸に近く、その海運の良さでもって栄えたクニであるから、船のことには事欠かなかった。早くから軍事にも船を転用し、諸国に対し、その威をもって降伏を迫る、というのは常套手段であった。
その船団が、今集まりつつある。
舳先に立つクナのヒコミコは、潮風を顔に受けていた。眼前には、目的の島が遠く霞んで浮かんでいる。
「この辺りにまで来ると、海の匂いが大分違うな」
この時代では比較的珍しい、縮れた毛をもつ側近のセイに言った。
セイのよく日に焼けた肌が、日光を照り返している。
それに負けず、ヒコミコの肌も焼けている。大分違うな、とニッカリ笑った口からこぼれる歯が、嘘のように白く見えた。
「そうですか。わたしには、同じに思えますが」
この無口な側近は、調子を合わせて話をすることが苦手な性質のようだった。
「いや、違う。クナの海の方が、もっと匂いが青い」
匂いが青い、とは妙な表現だが、この西のヒコミコはそのような感受性を持っているらしかった。わりあい、ものに感じやすい性格なのかもしれない。
「そうですかね」
セイは、早くこの取りとめのない会話を終わらせたいようだった。
「セイよ、まずはあの島のどこに着ける」
「まずは島の南。このまま船をすすめ、こう」
と右手でカーブを描くように道筋を指し、
「半分まで回る手前に、船を着けるにちょうど良い浦があると聞いています」
「そうか。早くせねばヤマトの者共が先に乗り込んでしまうぞ」
「なんの、ヤマトは去年オオトを降したばかり。今はまだその土地の仕置きに追われている頃で、とてもではありませんが、海のことにまで目が向きますまい」
「分からぬぞ。オオトを降したのが、はじめから海が目当てであったとは考えられぬか。奴らがこの海を我が物顔でのし歩くようになる前に、この海を焼き尽くすのだ」
「ヒコミコ、海は水ですので、のし歩けぬし、燃えませぬ」
「ものの例えじゃ。お前とおると、息が詰まってかなわぬ」
と笑ってヒコミコは帆柱の方へ歩き、もたれかかった。
この船の規模は、歩兵五百を収容できるほどのもので、クナのクニ自慢の戦艦であった。船の腹には小舟が収容されており、その小舟を虫の卵が
同型の船があと二艘あり、これよりやや規模の小さい百人乗りの船が、十艘。更に小さい二十人乗りの小型船に至っては百艘を越えるという規模の船団で、この船団だけで実に五千近い兵を運んでいることになる。とり急ぎオオシマを制圧し、維持するためには十分な兵力である。
炭の汁を塗りつけ防腐処理を施した船板が、波を掻き分けてゆく。やがて船団はそこかしこに分かれて上陸し、指定の地点に歩兵として集合した。
島には四つのクニが存在し、独立独歩の気概を持ち、それらが互いに干渉し合わぬよう均衡を保ちながらこれまでやってきた。それらの抵抗が、異常なほどに激しかった。
「クナなど何するものぞ」
と、はじめから降伏勧告の使者など相手にもせず、使者の目をくり抜き、はらわたを引きずり出し、惨たらしい死骸を以て勧告への返答としたほどである。
四つのクニの総兵力で、およそ六千。これに老人や女を含む者が武器を取り立ち上がったから、瞬く間に抵抗軍は一万を越えた。
海路に付き従ってきた老軍師ユンは、この素朴な民族ばかりが暮らす国の中でこれほどまでに大きな軍が発せられたことに驚き、一旦島から兵を引き、他日を期すことを献策したが、ヒコミコは取り合わない。
「この島をわが手にするために、ここまで来たのだ。それをせず引き返してしまっては、来た意味がない」
という単純明快な理屈である。クナのヒコミコは、この年で二十七歳になっていたが、子供のように無邪気な頑固さを持ち、それがまた周囲を惹き付けてもいた。
気性が激しすぎるのが玉に瑕で、その圧倒的な武により慕われながら、同時に激しい畏怖の対象になっていた点、これよりやや前の時代の大陸の魏国の曹操や、後年の織田信長に似た型の人間であった。
火の神が宿っている。と信じるこのヒコミコの、鼻の下のそれこそ火が吹き出ているような口髭が激しく上下し、
「この島の者共、一人たりとも生かすな」
と兵力劣勢ながら、激烈な命令を下した。
火の神の業火に焼かれるのを恐れる兵は、己の尻に文字通り火がついたようになりながら抵抗軍と戦った。
この島は、こんにち我々の生きる国家(の原型になった国家とも言える)にとっての最も古い時代の歴史書――それを歴史書と呼ぶべきかどうかについては賛否あるが、デリケートな話題であるために筆者の主観は省かせていただく――とされる文献によると、神がまず何もない海に己の矛を突き立て、ズボリと引っこ抜いたときに生まれたとされる。それが証拠に、この島は矛の先の形をしている。と妙な説得力をもって語られる。おかしな話であるがこの国の成立の秘密を語るはずの伝説は、今彼らが血みどろになって戦っている時点ではまだ成立しておらず、むろん彼らもそのような話は知らない。
ともかくも、この交通の大動脈に横たわるオオシマを奪取し、ヤマトの今後の動きを封殺しなければならない、という一点にのみ、クナは集中した。
ヒコミコは自ら先頭で駆け、老人、女と言わず視界の中で動くものは手当たり次第に討った。
さきにも述べたが、この時代は集団戦術の黎明期で、結局のところ、将帥の武が戦の勝敗を決めることが多い。その意味では、クナのヒコミコのそれは十分すぎた。
火の神の異名通り、辺り一面を焼き尽くすかのような、凄まじい武。
「あれが
抵抗軍の指揮官が号令し、一斉にヒコミコ目掛け突きかかっても、ヒコミコの矛の一振りで五人の矛が弾き飛ばされ、更なる一振りで炒った豆のように複数の人間が飛んだ。
全身返り血まみれになりながら、言葉にならぬ怒声を上げ、敵陣に王自ら斬り込んでいくなど正気の沙汰ではないが、ヒコミコ自身は、
「俺に触れれば、焼かれるだけだ」
と思っていたから、気にする素振りもない。
ただ彼にとっては、眼前の敵を討ち払うのみであり、このとき、彼は炎が自らを炎であると思いながら物を焼くことがないように、あらゆる知覚を断ち切ったその先の領域にいた。
敵に囲まれた。
背後で、剣を振り上げる者がいる。
その気配に反応し、矛の柄でその者の頭蓋を砕く。
矛が引かれた隙に斬りかかってきた両脇の者を一振りでなぎ倒すと、前方の敵を胴体ごと斬り飛ばし、更に前に駆ける、という具合だった。
また別の一団に囲まれた。
こんどは手練れ揃いらしく、容易に仕掛けてこず、また仕掛けさせもしない。
大振りな一撃で決めてしまいたかったが、それでは隙を突かれるため、矛の柄を短く構えた。
一人が繰り出してきた矛を弾くと、体が開いた。
他の数人が、その開いた体に向け仕掛けを行おうという姿勢を取ったとき、一人が天を仰ぎのけぞった。
戦いの中に心を溶かせていたヒコミコは、それで我に返った。
見ると、のけぞった者の眉間に、手のひらほどの刃渡りの短い刃物が突き刺さっており、その者はそのまま仰向けに倒れた。
「ヒコミコ!」
セイだった。彼はこの刃渡りの短い「飛刀」をよく扱えた。
駆け寄りながら、肩に掛けた皮の帯に収納された飛刀のうちの数本を投げた。
この飛刀は、よく急所を狙えば一撃必殺の威力を持つが、外れると致命傷にはならない。
日頃の鍛練で、落ち着いた心中のときであれば、五十歩離れた場所の
しかしそれは、セイがヒコミコのもとに駆けつけるに十分な時間をもたらした。
ぱん、と乾いた音を立て
あとは敵の間をするすると水のように流れ、ヒコミコを囲んでいた者のうちの半分を倒した。
残りの半分は勢いを取り戻したヒコミコにより、吹き飛ばされた。
「まったく、味方も省みず敵中を一人で駆けるなど。無茶も大概になされませ」
この縮れ毛の若者は言った。日焼けを抜きにしても肌が浅黒く、唇も分厚いためひょっとすると遥か南方のポリネシアなどの島国の血が濃いのかもしれない。こういった特徴の人々は、今でこそ同化が進んでいるが、この時代においてはまだそれと分かる形質を色濃く残していた。
話は逸れるが、われわれの民族群を形成するに至るルーツとなる具体的な民族についてはよく分かっていない。
一般的には縄文系形質を多く持つ者はコーカソイドやオーストラロイドの混血、時代が降ると、大陸系のモンゴロイドが移り住んできて、先にいた彼らを沖縄や北海道の地に追いやった、などという説がり、さらに我々の遺伝子には北方のツングース系民族の要素も継がれているというが、実際のところ確定的なことは何も分からず、我々は世界史的にも稀に見る古い国家――千年以上も王朝の交代がないというのは我々の暮らす日本と
我々の扱う言葉も、いつどのようにして成立したのか、どの言語の影響を受け形成されたのか、やはりはっきりしない。音価や語彙などから南方系、大陸系など諸説あるが、結局のところ、どこにも根拠を求められない孤立した言語とされている。
余談が続くが、彼らの時代、「アイウエオ」の五つの母音のほかに三つの母音があった形跡がある。イ、エ、オの三つの音について二つずつの母音が存在(後代のヰ、ヱ、ヲとは異なる)した可能性が指摘されており、その確かな発音も憶測の域を出ない。
筆者はその辺りにも大いなる不思議とロマンを感じながら、実際にどのような言葉を使っていたのか分からないような人々を題材にモノを書いているわけだが、全くもって不可思議なものである。
余談が過ぎた。
この南方の民族の血を濃く引くと思われる使い手は、やはり
その諫言に白い歯を見せて答えたヒコミコは、自らの右腕と恃む水のような性質を持った男と共に、更に敵陣深く突き行ってゆく。
その爆発的な進撃に、抵抗軍の主魁たちは驚いた。
抵抗軍を構成する四つのクニに序列は無かったが、オオシマの北西部を占める最も広大な土地を持つクニの王が事実上の盟主のような形になっており、他の三つのクニの王は、それにほとんど服するような様子であった。
はじめ、その兵力差から、
「勝てる」
と踏んでいた彼らであったが、火の神を宿すと言われる噂は本当であったと信じざるを得ないような進撃の凄まじさに、恐れを感じた。
クナがオオシマに上陸してわずか四日目にして、オオシマのムラの半分までが灰と化し、武器を握っているかどうかの別のない人々の屍で、土や川までが赤く染まった。
その四日目の宿営地にて、内蔵だけくり抜かれて棒に刺され、火にあぶられた兎の肉に食らいつきながら、ヒコミコはその報に触れた。抵抗軍のうち、三つのクニの王が、盟主と仰ぐ最も大きなクニの王を討ち、その首を以て講和をしたいと申し出てきたというのである。
勢力の小さな三つのクニの王は、この降って沸いたような戦いに、たまったものではない、という思いを持っていた。特にオオシマの南を領土としているクニの王など、僅か数日にして自らが帰る領土を失ってしまっている。二日目の夜、もはや彼のクニがこの世のどこにも存在しなくなってしまっていることを知ったとき、手にしていた器を取り落とし、
「わたしのクニも民も家も、無くなってしまった」
と呆然とした。その夜から、彼は国土の回復よりもむしろ、この絶望からの生還をのみ実現するための策謀に熱中し、二国の王を深夜訪ね、説いたのである。
そしてその策謀の生んだ作品が今、クナのヒコミコのもとを訪れている。
抵抗軍の盟主の首を差し出すオオシマの王達に、ヒコミコは会った。
「我らオオシマの者、島のため、図らずも貴国に弓を引くこととなりましたが、もとより戦を望むわけもなく、これ以上、この島が焼けるのを眺めておくわけにもいかぬと談を重ね、ついに貴国に弓引くことを宣言したこの――」
と麻布にくるまれた楕円形の物体を指し、
「――首をしてどうか矛を納めて頂きたく」
そこまで言ったところで、クナのヒコミコは哄笑し、
「おかしなことを言う。地から兵が湧き出て、この島の草一本までクナの敵と化したかと思うほどに抵抗をしながら、今になって矛を下げろとはどういうことだ」
と目を丸く開いて言った。
「恐らく、そなたの言う、島を奪われまいとする気持ちに偽りはあるまい。俺とて、クナの地が同様の目に合えば、死を賭してでもそれを防がんとするであろう」
同情的とも取れることを言ったので、傍らに控えるセイは、おや、と思った。
「では」
王の一人が、喜色を浮かべた。
ヒコミコはいおもむろに立ち上がり、歩み寄り、いきなりその頭を鷲掴みにし、
「しかしな、賭けるのは、己の命でなくてはならぬ。そなたは、あろうことか、己の盟友の命を賭けたのだ」
王の一人の顔は、喜色を浮かべたまま、ぐしゃりと潰れてしまったので、恐らく最後までは聴こえていまい。
手から生々しい血を滴らせ、
あたりを一瞬包んだ静寂を待ち構えていたかのように、波の音が微かに聴こえた。
他の二人の王は腰を抜かしてしまい、その場から這うように逃げ去ろうとした。
「つまらぬ。斬れ」
とヒコミコが言ったと同時に、セイは影だけを残すように進み出、二つの首を転がした。
これでクナのクニは、いとも簡単にオオシマを制圧してしまったことになる。
しかしクナの「火の神」の怒りはこれでは収まらなかった。
はじめの規定方針の通り、この島の者全てを焼き尽くす作業を続けた。
南から上陸した火の神は、乾いた野のようにオオシマを焼き付くし、今、北の端の岬に立ち、海の匂いを嗅いでいる。
漆黒の海は、背後に上がる炎を映していた。
「なあ、セイよ」
「はっ」
「やっぱりこの海の匂いは、クナとは違うぞ」
「はっ。少々、焦げ臭いようですな」
「阿呆」
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