第二章 映し火
婚儀
タクとマオカの婚儀のことである。マヒロが仲立ちとして様々な準備を整え、いよいよその日が近づいてきた。
マオカは王の妹であるわけであるから、サナに何かあったときは、王権はマオカに、そしてその夫であるタクに移るということもあり得る。マヒロは、タクとマオカが結託し、ヤマトのクニを我が物にしようとしているのではないか、と疑っている。サナこそ天地という具合のこの男は、もしそのようなことがあれば今から生まれようとしている夫婦を殺してでもそれを阻もうというような気持ちでその準備を進めてきた。
マオカは無口で容貌も良く、飾り物としての女王にはうってつけだし、タクは文武共に並ぶ者の無いほどの才を持っているので、軽く一国の差配もこなすであろうから、マヒロを疑り深いと責めることはできぬ。
彼はあくまでサナ個人を大切にしているのであってその王権を大切にしているわけではないから、クニさえ安寧であれば、別に誰が王でも構わないのだが、そのためにサナに害が及ぶようなことはあってはならないと考えていた。
だからこそ、平然と、タクとマオカの婚儀の準備も黙々と進めたし、国内外に慶事がある旨の発布も自ら起草し、
新王の即位に続き、王妹の婚儀を行う。ここにヤマトのクニが未来永劫、安寧であることは約束された。祝う者は誰となく来よ。
と触れ回ることもした。
婚儀の、その前日。
ヤマトの賑わいは大変なものとなっており、諸国からの祝いの使者とその贈るところである財物を収容するため、一千戸ほどの規模のムラを一つ空けなければならぬほどであり、国内からも様々のムラの
かねてからの準備のおかげでそれらは滞りなく収容され、あとは接待役に任じた配下の者どもが遺漏なくこなすはずであり、マヒロはようやく一息つくことができた。
陽が高くなり少し傾き初め、騒がしさが落ち着きを見せた頃、マヒロは、ヤマトの都邑から東に少し離れた丘に佇んでいた。
槐はマヒロらの時代には「えにすの木」と呼ばれており、夏には可愛い白い花をつける。血止めの薬が採れたり、硬い幹が様々な工業品に加工できたりと彼らにとって有用な植物であり、早い段階から大陸より輸入していた。
今は冬を迎え、葉は落ちており寒々とした幹と枝が露出しているだけである。
マヒロは
手には、弓を持っている。弓の技は昔からよく工夫を凝らしているだけあって国内で敵うものはなく、このときは既に更なる工夫を凝らし、当時主流であった短い弓は用いず、背丈を越える長大な弓を作らせ、それを扱うようになっていた。
マヒロの脇に佇むのと同じ槐の木を板にし、それを重ね合わせて作られた弓である。硬いが、粘りがある。マヒロはそれほど大柄でもなく人並み外れた膂力を持っているわけでもなかったが、なにかこつがあるらしく、いかなる弓の上手でも引けぬこの弓を、かるがると引くことができた。
今も、
その弓に合わせ普通よりも遥かに長く作られた矢を口元にあてがう。
暫く、静止。
風が吹き、槐の葉が一枚、目の前を過ぎた。
過ぎたところで、放つ。
それまで静寂に支配されていたマヒロの世界は、急に有彩になった。
何かが爆ぜるような凄まじい発射音と共に矢が唸りを上げ
その先に、豆粒ほどの大きさにしか見えない、鹿。
鹿は、冬でも活動するため、この時代の冬の食糧としてよく捕られ、その皮を以て防寒具が作られたりしたものである。
その鹿が横倒しに倒れたので、マヒロは自らの放った矢が
ゆっくり歩み寄り、矢が鹿の首を貫いてそのまま地に根本まで突き立っているのを見た。その死骸を担ぎ上げ、弓をたばさんで帰路についた。
「なんだ、マヒロ。おらんと思ったら、鹿を射っておったのか」
ユウリが出迎えた。
「ええ、明日の婚儀に、供えるつもりです」
笑い返してやりながら、館の厨房に運び込まれる鹿を、あごで指した。
「しかしまあ、その弓——」
ユウリが、マヒロが脇に挟んでいる弓の話をした。
「恐ろしいものだ。こうも大きな鹿を、一撃で」
「どういうわけか、おれには、弓が合うようです」
「心中、何を射った?」
となぞかけのようなことをこの老人の一歩手前の歳の男は言う。マヒロはただ微笑して、自室に戻った。
そのまま床に手足を放り出すと、頭の中でもう一度弓を引き、矢を射った。
その矢が、タクの頭蓋をほおずきのように砕くのを、瞼の中に見た。
もし、タクの婚儀がマヒロの危惧するような事態に繋がるなら。その前に今瞼の中に映る景色を、開いた両の目で見てやる、と心に決めた。
タクは年少の頃ハラのクニから来たため、家や一族という後ろ楯を持たない。そのために国内での勢力の付殖のため、マオカに目を付け、婚儀にまでこぎ付けたのだとすれば、その才が豊かであることのみならず、世を遊泳することが巧みであるのが大きかったということであろう。
マヒロは、タクが一体何のために権勢を欲するのか、そして己の身をより高い位置に置こうとするのか、その動機が極めて不明瞭であることが不気味で仕方ないらしい。
この時代の人の典型とは、マヒロのように与えられた役目に疑問を持たず、ひたすらにその良き実行者であらんとすることであったが、タクは、自らの道を敷き、それに周囲を合わしむべく旋回させているような感がある。それはこの時代としてはかなり新しい価値観であり行動であるため、より不気味さが増すのであろう。
元来、人は、理解のできないものごとに対し激しい恐怖を感じるようにできている。ゆえにマヒロは、タクを恐れた。
僅かにまどろむうちに、夜になった。婚儀の前夜は、一族の者が集まり酒宴をするということになっていたから、マヒロは居室までサナを迎えに行き、二人で広間へ向かった。
「マヒロよ。お前なら、タクとマオカに子が出来、わたしに子が無い場合、どうする?」
「わかりません。ヒメミコは、もしそうなった場合、どうするのです?」
と反問した。
「わたしか。わたしなら」
歩を止めて、
「その子にヤマトをくれてやるわい」
と言ったので、マヒロは驚いた。
「ヤマトがあるなら、わたしは無くともよい」
「ヒメミコあっての、ヤマトではないのですか」
「違う。わたしはヤマトという、ここに確かにあるけれども、誰にも見えぬ何かに仕える身であると思う。考えてもみろ。どこからがヤマトで、どこからがヤマトでないのか、目に見えるか。ヤマトの民と隣国の民との間で、何か違いがあるか。お前が今日射てきた鹿は、ヤマトの鹿か、ハラの鹿か。いつからそうであるのかは知らぬが、誰かが勝手に引いた目に見えない区引きがあって、それこそが我々がヤマトと呼んでいるものなのではないのか」
「難しいことを仰る」
このような情緒や哲学を弄ぶほど、マヒロの思考は複雑ではなかった。くどいようだが彼の天地とは
かといって、マヒロは決して愚鈍ではない。「自由」という、明治に生まれた新たな語と概念すら存在するはずもない、現代よりももっと「自由」であったこの時代においても、己にとって本当に大事なものを知り、己の
「わたしは、ヤマトではない。これだけは言える。そしてわたしは、人でもなく神でもない、身も形も心も持たぬそれに仕えているのだ。王となり、先王の墓に立ち、わたしに平伏する万の民と終わりなく続くこの山河を見、そう思い定めたのだ」
ちょっと、可愛い顔をして、
「わたしが見た景色を、お前は知っておくのだ」
と言って言葉を切った。
「だから、もしヒメミコに子がないときは、桑の実でもくれてやるように、タクの子に国をくれてやると言うのですか」
「そうだ」
「タクにも子がないとき、どうするのです」
サナは、はじめて思いついたような顔をして、
「では、お前が王になれ」
と笑った。
「荷が重いので、やめておきます」
どうも、この女王には敵わない。
「クニを治めるというのは、並のことではないな。何を成すべきか。それが、未だ見えぬ。ただ作物の収穫を取り仕切り、軍と
「ヒメミコは、天地万物の精霊の声を聞かれます」
「しかしな、聞こえたところで、どうすればよいのか教えてくれたことなど一度もない。ということは聞こえぬも同じと思うことにした。とどのつまり、どうするのかは己で決めよ、ということだ」
あっけらかんと笑って広間へ向かって再び歩を進めるサナの影を踏むように、マヒロは従った。
広間には、既に一族の者と重役がそれぞれの席に座しており、王が最も上座すなわち北側に南面して座し、その補佐官であるマヒロは、王から見て左隣に座った。現代において新郎新婦は主人公であるため上座であるが、このときの新郎新婦は最も下座に付き、王と遠く向かい合うような位置に座す。
余談であるがこの時代は椅子やテーブルなど無く、衣服の裾は男女とも長く、スカートのような形をしていた。男性は農作業や戦のときに限りズボン(現代でいうニッカポッカのような、あるいはジョガーパンツのような形状をしていると思われる)を穿くが、平服は左右の足の別のない衣服であった。男女問わず、下着は着けない。それでいてあぐらのような座り方をするため、その内部が露見せぬように、このように長い裾の衣服を用いた。
ある説によると「収穫したコメを
ヒトの唾液でもって発酵させた酒など気持ち悪くて、現代を生きる我々にとっては飲みたくもない代物であるが、この時代、処女は神聖なるもの、より神に近いもの、と信じられていたから、こういった席に最も相応しい飲み物であった。
後代のような醸造技術を持たないためアルコール分は非常に低いが、それでも飲み続けると身体が浮いたような感じになり、頭が火照るのに冴える。それをこの時代の人々は神がかり的な作用であると信じた。
その薄く白濁した液体を、一斉に飲み干す。
「こちらのヒメミコを明日、我が妻とする運びとなりました。こんにちの
タクが謝辞を述べた。
「これから、よりヤマトのため、ヒメミコのためにその才を役立ててくれ」
というようなことを、仲立ちであるマヒロが返す。
あとは祝いの席のこと、誰ともなく歌い出し踊り出し、賑やかな場となった。
話の本筋には関わりのないことながら、マヒロは踊りが上手かった。武術に優れている者は、その身のこなしに無駄がなく、踊りをしても、堂々と美しく見えるものらしい。タクも踊りに参加した。二人が舞い踊る様はどこか象徴的な儀式のようで、座にいる者はそれに見入った。
座が熟し、宴は終わった。
「では、明日が明けたら」
と各々、自室に引きあげてゆく。
「マヒロ、この度の婚儀の手配、心から感謝します」
人がおらぬようになってから、タクが声をかけた。
「明日が明けたら」
ふつうの挨拶で、マヒロは返した。
「明日が明けたら」
そう返して立ち去るタクの姿を、マヒロは見送った。
明日が明けたら、タクは王族である。
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