第三章 付け火
リュウキという男
これまで、幾度かこの物語に登場したこの天才について、詳しく触れておきたい。
いつも穏やかな微笑を湛えた痩せたこの男は、容貌には気を使うらしく、夏でも袖の長い服を着用している。また頭髪は頭頂部で小さく結い、装飾の意味で大陸式の冠をいつも着けていた。
リュウキは、姓がリュウ、名がキであったが、この時代リュウキが暮らす島国では名のみがあり、姓の概念がなかったため、皆が「リュウキ」が彼の名だと思い込み、彼自身も、皆がそう呼ぶなら自分は「リュウキ」だ、と柔らかに受け入れていた。
ちなみに「キ」とは、彼の生まれた国では「末っ子」という意味である。長男が「ハク」、次男は「チュウ」というらしいが、それは余談。
実はかの高祖劉邦も、その名は「キ」であったとされる。「史記」の劉邦の出生のくだりで、彼が余りにも草深い田舎の出身であったためはっきりとした名を持たぬことに当惑した作者が、
「姓は『リュウ』。名は『末っ子』。兄の名は『長男』、父の名は『おっちゃん』、母の名は『おばちゃん』、人々は彼を『リュウあんちゃん(邦)』と呼んだ」という、笑いを禁じ得ないような記述を大真面目にしていることは有名である。このあたりのことについては偉大なる司馬遼太郎先生の名著「項羽と劉邦」の冒頭部分に詳しい描写があるので一読されたい。
ともかく、漢帝国の初代皇帝と同姓同名のこの天才軍師は変わり者であった。
はじめにも触れたが、独特のゆっくりとした動きと共に細く長い呼吸を繰り返す現代における体操のようなものを暇があれば行い、三日に一度は飯を抜く。
曰くチョウリョウなるリュウキの憧れの先人も同じような習慣を持っていたことにあやかって、ということで、案外熱中し易く子供っぽい部分も持ち合わせているらしい。
熱中し易いと言えば、こと戦となると、以前のオオトとの大戦の際に見せたような神がかり的な戦略、戦術を実現するための準備を長い時間をかけ行うなど、異常と言ってもいいくらいの集中力となってそれが発現される。かといって周りが見えなくなるようなことはなく、何かに熱中していればいるほど、かえって周りが透き通って見えるようであった。
歳は二十代の半ばくらいで、まだ若いと言ってもよいがこの頃の社会的成熟度で言えば十分なものを見せる頃である。
まだ十代の頃、魏のある武将に仕えていたが、才を預けるに足らずと出奔し、あちこち放浪するうち、遠く現在の朝鮮半島にまで足を伸ばし、半島の北から南への移動のため乗り込んだ船が大風により流され、漂流ののち偶然この島国にたどり着いた。祖国に帰ろうと初めは思っていたが、意外にもこの島国の人々は友好的で、大陸の者を非常に有り難がった。
黄河のほとりの、大陸でもひときわ先進地域であった都会で生まれたリュウキは、この島国のひとびとが驚くほど素朴で、何も知らぬし何もせぬように思ったが、転じて、ひょっとするとここならば、という思い付きがこの未開の大地に先進的な文明と王朝の出現をさせるという夢に変わるまでそれほどの時はかからなかった。
そして彼は今、ヤマトにおいてその政治、軍事を決定付けるにあたり無くてはならない人材として重宝されている。
最近、タクが外交先から引き抜いてきたというハクラビという者を従者のような形でつれ歩いている。
ハクラビは、この島国の古い風習である
今も、ハクラビはリュウキの
この器用な文身の男は、古い風習に従って髪を短く刈りそろえており、それが髪を結うことが普通であるこの時代の人々の中で、特異な印象をもたらす。
髪を結う弥生時代の人、と聞いて誰もが思い浮かべる両の側頭部で輪のように結う方法は、あくまで儀礼の際の正装で、普段は一つ括りで後頭部から垂らす方法や、大陸で「結髪」と呼ばれる登頂部で小さく結う方法のほかは、あまりしっかりとした決まりもないため各々が楽なように結うことが多かった。
たとえばユウリは、長く伸びた白髪をポニーテールのように束ね、それを背中まで垂らしていたし、マヒロは頭頂部で一つ括りにし、流れる髪はざんばらに垂らしていた。サナは現代で言う「お団子」に結って、この当時は大陸からの輸入品としてたいそう貴重であったお気に入りの
「飯を食うときに面倒がなくてよいわい」
ということであるが、なかなか洒落た髪型ではないだろうか。
沓にする革を鞣している短い髪の頭が、前後に揺れている。
「ハクラビ」
呼ばれ、その動きが止まった。振り返り、海の者らしい二重の眼で、リュウキを見た。
「なにをしている」
「はい、リュウキ様の沓を作ろうと思いまして」
ハクラビは、聞けば十八歳になるそうだ。幼い頃から水に潜り鍛えたらしい、鞭のようにしなやかで強靭な肉体を持ち、剣も使えるが、拳での戦いが得意で、頭は使えても武術はてんで駄目なリュウキが他国まで足を伸ばすときなどの護衛としてはうってつけであった。
これは挿話であるが、リュウキの元に付いて最初の外出の際、所用で近隣のクニに行く最中、賊の一団が行く手を塞いだことがあった。リュウキは別に慌てるふうでもなく、ハクラビよ、お前、そういえば武器は使えるか。といつもと変わらぬ調子で言った。
ハクラビは無言でリュウキの前に進み出、ゆっくりと賊の一人に近付いた。行き合った同僚と世間話をするくらいの近付き方であったため、賊は動けなかった。
一人の腹を、拳でもって、とん、と打つと、その者は崩れ落ちた。
死んでいるらしかった。
それで賊は一斉に身構えた。
ハクラビは、するすると歩く。
一歩ごとに、一人が倒れた。
最後の一人になると相手の
そのまま鼻柱と眉間に二発、膝蹴りを食らわせると、頭蓋を砕かれた敵は耳から血を吹き出して死んだ。
「このくらいの人数であれば、武器を使わぬ方が得意です」
木の実か何かでも見るような顔で、ぽつりと答えた。
リュウキは、その恐るべき体術の持ち主が鞣す革を眺め、
「わたしの沓を作ってくれるのか。石を使うときは、こう」
と大陸由来の効率的なやり方を教えてやった。
ハクラビは無邪気に笑うと同じように試してみた。リュウキに何かを教えてもらうのが嬉しいらしい。
「リュウキ様は、末のヒメミコと婚儀はしないのですか」
近頃囁かれる噂についてハクラビは訊ねた。
「せぬ。噂を信じるな」
端的にリュウキは否定した。
「おれは、リュウキ様の子の世話も、したいです」
「わたしにもし、子ができたなら、そうしてもらおう」
そう言ってリュウキは微笑んだ。
そのリュウキの背に、鈴の鳴るような声で呼び掛ける者がある。
折よくか悪しくか、トミである。トミは先日のサナの一言以来、すっかりリュウキの妻になるつもりらしく、このところしょっちゅう訪ねてくる。
「ヒメミコ。どうしましたか」
リュウキは、これほどまでに頻繁に訪ねて来るのならあらぬ噂が立つのも仕方ない、という風に思った。別に煩わしいとも思わず、むしろ喜ばしくあった。
「花を摘んできました」
ぱっと笑いながら、館の近く、昔サナがよく遊んだ小川の川原に群生する黄色い花を数輪、差し出した。現代のそれに見えるセイタカアワダチソウは外来種であるから、日本古来の、アブラナ科の何かであろう。
「最近、寒さも和らいだと思ったら、もう花が咲く季節なのですね」
リュウキは匂いを嗅ぐ仕草をした。別にそれほど匂いのある花ではない。しかし、小さな黄色い花がトミに似ている、と思った。
「ありがとうございます、ヒメミコ」
花を受けとり、一歩下がって捧げ上げるという大陸式の礼をした。それを見てトミはくすくすと笑った。
「しかしヒメミコ、このリュウキなどのために、花を摘んでは可哀想です」
リュウキはその癖で、この未開の地の者に新たな価値観を教えることを始めた。
「わたしの故地では、花や獣もいのちあるものとし、そのいのちが消える様は、人と同じく悲しく切ないものと考えます」
「あら、わたし、そんな大変なことを」
「いえ、ヒメミコがわたしのために、と摘んで下さり、この花がもう咲いていることを知らせて下さったのは心から嬉しく思います。このところ、考えねばならぬことが多く館に詰め切りで、ヒメミコが知らせて下さらねば、この花が落ちても、わたしは咲いたことを知らずにいたでしょう」
いつになく、多弁になった。しかしトミは、
「わたし、リュウキ様を悲しませるようなことをしてしまったのですね」
と泣き出してしまった。
この天才軍師も、いたいけな少女に自分のことで泣かれると他の男性と同じく、どうすればいいのか分からず、おろおろするだけだった。
ハクラビはその二人のやり取りを見ないように、黙って革を鞣す音を立てている。
「いのちとは、大切なものだということが言いたかっただけなのです。ヒメミコがこの黄色い花を見て美しいと思えるのも、こうして涙を流せるのも、ヒメミコにも美しいいのちが宿っているからこそです。わたしはそのいのちをこそ尊びたい」
と優しく諭してやった。
ふと、
——わたしの仕事は何だ。その命をいかにして奪うか、ということを日がな一日考えているだけの異常者ではないか。
という思念がよぎったが、無論口には出さず、悲しい微笑みを湛えながらトミの背に手を当ててやった。
全く、リュウキの思ったことは的を射ている。
先の大戦ではたった一日で、実に一万もの、オオトの者の「美しい命」を、自ら図面を示し製造の監督をし、一年かけ導入した恐るべき新兵器とその知略の限りを尽くした策でもって奪った。
ユウリに賊の一団を壊滅させたのもリュウキの立案だし、最近では自らの忠実な側近の拳を用いて賊の命を奪った。
生命というものを数量で勘定することができる酷薄さと、その生命を尊ぶ優しさが共存する。それが、この男のなのかもしれない。
もちろんその基本理念として、大陸古来の先進的な——現代においても鮮やかな輝きを放つ——思想である、
「戦は、最悪の場合にのみ用いる。戦をして良いことなど一つもないので、出来るだけ戦にならぬように己の全てを賭け取り組むのだ」
というものがそれこそ骨髄にまで染み通っている。
だがひとたび戦となれば、何のためらいもなく命を奪わねばならない。幸か不幸か、それを小石を動かすようにやってのけるだけの才を持って生まれ、自覚し、磨いてきた。
誰しも、己の内面に矛盾を抱えて生きている。それをこの優しすぎる冷酷な男は、長い息とゆっくりな動きをもつ体操のようなものや、三日に一度飯を抜いたりする習慣でいくらか統御しようとしているのかもしれない。
「わたしも、リュウキ様のいのちは尊いと思います」
と言って眼を上げたトミの、泣いて紅潮した顔にリュウキは男性として耐えがたい思いを抱いたが、
——わたしのような、いびつな人間に。
と思うと、男性としてあるべき行動を取れないようであった。
トミを優しく諭して引き上げさせると、リュウキは自室の中に戻った。
「困ったものだ」
ハクラビに向け苦笑すると、彼は革を鞣す手を止め、顔半分だけ振り向いて、
「お心が、乱れています」
とだけ言った。
ハクラビは、リュウキの心をよく見ているらしい。
リュウキはでき上がった沓をさっそく履き、サナとマヒロのもとに向かった。
ようやく軌道に乗ってきた交易路を用い、大陸へ使者を送るためである。
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