怒り

 サナの生涯において最も彼女らしいと言える時期はまだ先のことであるから、ほんの少し、時間を先に進めることとする。


 サナは、十五歳になった。この時期の僅かな数年は、以降のそれよりも更に目覚ましい変化を人間にもたらすことは時代にかかわらず変わりない。

 当時の人々は現代の我々よりも小柄であったが、サナはその中でも小柄な方であった。

 小さな顔に転がすように置かれた、よく動く二重の丸い眼の光は変わらないが、初潮も迎えたし、胸も膨らみが出て身体の線は丸みを帯び、人々からは「美しい」と言われた。更にその美しさは、天地万物の声を聴くことができるという信仰と混じり、神聖なものとして民の目に映っていた。


 同い年の妹であるマオカもまたその身体に大きな変化を迎えており、こちらは背がすらりと高く切れ長の眼を持ち、それはサナのようにきょろきょろと動くことはなかった。

 二十歳になったマヒロはやや細身ながら堅牢な筋肉は鋼のようで、見るからに武人という佇まいであった。

 また、タクはと言うとこれもまた元々の長身があるために誰もが目を見張るほどの偉丈夫いじょうふとなっており、涼やかな目元は怜悧れいりとも思える光を帯びてより一層様々なことを見ているようであった。

 そのタクが、夜毎マオカを抱いているのではないかという噂が立つのは、自然なことであった。


 タクがマオカに付いてからというもの非常に仲が良く、兄妹のようなサナとマヒロに対してこの二人は、同格の恋人という感を周囲に与えた。この頃既に、マオカは何か発言する際はタクを通してしかせず、タクが側にいない日は首を縦もしくは横に振る、あるいは傾げるという具合にしか己の意思を表示しなくなっていた。


 ひどく蒸し暑いある夜、サナは夜半にしとねから起き出し、自室から廊下に出た。己の汗で溺れそうになるかと思うほど寝苦しい夜であったため、虫の声を聞きながら月をしばらく眺めれば眠気が再びやってくるかもしれぬと思ったことと、遠くから誰かが招くような声を聞いた気がしたからであった。

 廊下に出てみると声はなく、虫が鳴いているのみであったため、何となく高床の縁に腰掛けた。

 雲が月を通りすぎるき、縁の部分だけが白くなるのを面白いと思って見ていたが、その耳に確かに何者かの声が届いた。

 廊下の奥からである。

 これまでも何度も聞いた「何者か」の囁きとは異なり、それは明らかにヒトが発するものであった。

 その声を追うように廊下の奥にするすると進むサナは、マオカの部屋の前で身体を硬直させた。

 引き戸を僅かに滑らせると、月明かりが差し込む部屋で交合するマオカの背中が見えた。男の方は逆光になり顔こそ見えないが、その影の形からタクであることを確信した。

 サナは今まで聞いたことのない程のマオカの大きな声を恐ろしいもののようにしばらく聴いたが、自らの位置取りが非常にまずいことを知った。タクに違いない影が逆光であるということは、その影から見た己は順光であるのだ。

 慌ててサナはその場を離れ、自室へと戻り、震えた。

 蒸し暑さはなお止まない。

 しばらくサナは自分の呼吸を数えていたが、幾つ数えたか分からなくなった頃、自室の戸が滑る気配がし、影が染みるように入って来るのを視界に捉えた。

 とっさに王家の女が儀礼もしくは護身の際に使用する剣を手に取り、身構えた。そう思ったときには影はタクの姿になり、その剣をいとも簡単に払い落とした。

 意外なほどの力でタクはサナの腕の自由を奪い、耳元でなにか囁いた。サナには理解のできない言い回しであったが、この世にそのような言葉があることを呪いたくなった。

 タクの手がサナの下腹部に伸びてきて、触れた。いつの間にか横倒しになったサナは、先程そうしていたように、徐々に荒くなる我が呼吸を数えだした。


 ことが、済んだ。タクは意味ありげな微笑を残し、去った。何らかの方法で殺してしまっても良かったものを、大した抵抗もせぬままにことが済んでしまったことで、サナは自分が野の兎や鼠などと変わらぬ、ただの生物であることを知った。

 知ると、得体の知れぬ怒りが血液の代わりに全身を駆け巡った。衝き動かされるように跳ね起き、破瓜の血も拭わぬまま、飛ぶようにして部屋を出た。

 出て、どうするのかは分からない。だが、サナは虫の声の中に聴いていた。どこに行くべきであるのか。

 仮に聴いていなかったとしても、この場合、向かう場所は、一つしかなかった。


 館の母屋の門は日が暮れると閉ざされているが、難なく乗り越えることができた。そのとき、下腹部に疼くような痛みを覚えたが、駆けた。一足ごとに同調するように、あるいは追いかけてくるように疼きが走るが、構ってなどいられない。

 母屋の外、館の敷地内の家屋。いたちのような敏捷さで塀を再び乗り越え、ある部屋に飛び込んだ。


 部屋の中では既にマヒロが上体を起こし、剣を左手に取っていた。

「ヒメミコ?」

 というマヒロの声を聞くや否や、サナはマヒロの厚く盛り上がった胸に飛び込んだ。

「マヒロよ、わたしを抱け」

「なにを」

「いま、抱け。塗り潰せ。上から、濃く。塗り潰せ」

 マヒロはそれで、サナの身になにが起きたのか察した。


 断っておくがこんにちの感覚で言えばこれらの出来事は許しがたい倫理違反であるが、先にも少し触れたようにこの時代の感覚からすれば男女の事柄についての倫理はおおらかであるから、たとえば今回の一件が露呈したとしても、多少の咎めを受けることはあっても、タクが厳しい罪に問われたり、マヒロが不敬のそしりを受けるようなことはなかった。

 サナは王の一族であるために子ができでもすれば要らぬ問題になりかねないため民間よりは厳しい縛りを受けはする。しかし、庶民の間などではもっと野放図であった。


 例を引くと、これよりやや降った時代の庶民が書いた和歌で、「私のコレと貴女のソコの形はぴったりだから、結婚しましょう」というような馬鹿馬鹿しい内容の歌が大真面目に詠まれていたりもする。

 だがしかし、個人の感情は時代によらず普遍であり、サナが感じるのは全身を焼くかのような怒りと、マヒロにしかすがれぬという孤独であった。


 サナの孤独はやはり人に聴こえぬ声が聴こえることに一因があるのかもしれない。王も生母も姉妹も誰一人として聴こえるはずのない声が聴こえることを、ほんとうに理解しようとはしない——と多感な年齢になったサナは常日頃おもっていた——し、民たちは有り難がるばかりでサナに今年の実りはどうなりましょうや、などと訊いてくる。幼い頃のサナであったら「知らぬ。稲にでも聞け」と無邪気に返したであろうが、いまは「わたしは、占い師ではないわい」と思っていた。

 マヒロだけが、サナが人ならざる者の声を聞いていることをほんとうに知っていたし、それを有り難がったり気味悪がったりもしない。

 マヒロにとってのサナは、ただただ

「ヒメミコ」

 だった。それが、サナの中でひとつの指標になっていた。



「ヒメミコ」

 丸味のある声で、いま呼び掛けられることをサナは幸福に似ていると思った。その声で、この怒りを溶かして欲しいと思った。

「抱け、マヒロ」

 はじめマヒロは戸惑うように弱く身を捻っていたが、サナが広い背に回した腕に力を入れると、あとは生物としての天地の法則に従った。

 サナは下腹部の痛みも忘れ、ただマヒロとの間に生まれる、身を重ねては離しの律動を感じた。途中、声を殺すため自らの麻の袖を口に押し込んだ。


 ひとしきりのことが済むと、サナは「では、明日が明けたら」

 と短く挨拶をし、もと来たように塀を乗り越え門を乗り越えし、戻った。

 ただし帰りはひどくゆっくりで、草を踏む音が馬鹿にはっきりと聞こえた。そこで自分が裸足であったことに気付き、草の汁の冷ややかな感触が、己が身に残る怒りの残り火とマヒロの温もりを冷まさぬものかと期待しながら歩いた。

 このとき、

「サナは、マヒロと共に、生きるよ」

 という声を聞いたのは、草がそう言ったのか虫がそう言ったのか、あるいは己自身の声であったのか。

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