見たもの、聞いたもの

 このところ、マヒロは自室で政務を行っているため、サナは退屈であった。身の回りの世話などは、後年で言うところの侍女のような役割の者が遺漏なく行ってくれるが、彼女らはただサナの身の回りを整えるためだけにおり、サナを楽しませたり何かを話し合ったりできるような者ではなかったし、正直、時刻のないこの時代に、なにで測っているのか不思議なくらい一定の間隔で、室外から欲しいものがないか、不自由がないか訊いてくるのを煩わしいと思っていた。胡桃が食べたい、と言えば胡桃が出たし、水が飲みたい、と言えば土器に注がれた綺麗な水が出た。それも、煩わしかった。


 雨の多い季節である。ヤマトは盆地に位置しているため、湿気が多い。いつの時代も雨続きというものは人を憂鬱にさせるものらしい。筆者も盆地の出で今もそこに暮らしているからよく分かるが、梅雨時から夏に向けての湿度と気温は異常といってよく、小籠包か何かならすぐ蒸し上がりそうなほどである。筆者の妻などはその盆地の空気のことを、「歩ける水」と妙に上手い表現で示すものであるが、それは余談である。

 この時代、世界的に気候はやや冷涼で、それがゆえ小籠包は蒸し上がらぬ。だがサナは、やはり我々と同じような表情で、ヤマトの人々が神が宿ると崇めるオヤマという山が雨に煙るのを眺めている。

 山といっても大した標高ではないが、ぽつんと椀を伏せたような形はなにか人為的なものを思わせ、それがゆえ古の人はそこに神を感じたのかもしれなかった。ヤマトの王やその一族の墓はその麓に造られており、ここからでも小高く盛り土をしたそれらが、晴れた日ならばよく見えた。

 雨の降りつける音が、響いている。サナは楼閣の三階である自室の縁に、歩いていった。

 欄干に跳ね返る雨粒が、サナを少し濡らした。下からも雨が降っているようだと思ったが、一人であるので口には出さぬ。

 館の回りを囲むようにして引き込んだ小川の流れにも、雨は降りつけている。その小川が派生する前の、やや大きな河の水かさも多いようであることが遠望できた。

 雨の音は、人のざわめきに似ている。これは彼女の治めるヤマトの人々の声なのか、彼女が治めるヤマトのため死んでいった人々の声なのか。オオシマで戦ったクナ兵のどよめきのようにも聴こえたし、雨の音の一つ一つに耳を傾ければ、その中にリュウキの声もあったし、ユウリの声もあった。

 あらゆる音が混じり合う雨の音の中に特定のリズムを見つけ、サナはしきりにそれを追いかけた。

 眉間がむず痒くなるような、あの感覚である。あるいは雨の神がサナに、彼女が聴かねばならぬ全ての者の声を聞かせているのかもしれなかった。

 マヒロ。

 マヒロ。

 マヒロの名を呼ぶ声がする。

 よく聴くと、自分の声であった。

 女王であるその存在である前に、サナは個人でもあった。この時代、普通は王といえども後年のそれとは比べ物にならないほどにおおらかで、王たる者としての倫理なども体系化されておらず、ときに気分や思い付きで政治をすることが普通であったし、判断のつかぬことは朴占うらないによって決めた。

 サナは、今まさに雨を産み落としているそのおおもとの天と、雨が打つ地の間を、治めようとしている。彼女は、この島々の人々にとっての最初の、あたらしい王になろうとしていた。思えばサナが女王になったその日、神が彼女に見せたかもしれない風景は、それではなかったか。占いなど要らぬとして朴占を廃止したのも、そのためではなかったか。

 人々の求めるヤマト王でなければならないサナは、その個人を殺した。雨の音に混じる死者の声の中に自分の声を聞いたのは、そういうことかもしれない。神宿し、陽の巫女、と人々が言うため、進んでそうあろうとしてきた。ごく近しい者以外には表情は見せず、深く、遠い目をし、お団子頭には黒檀の箸ではなく金の髪飾りをつけ、翡翠ひすい勾玉たまの耳飾りと先王が身につけていた硝子の腕輪を。笑うと可愛らしいえくぼの出来るはずの頬に、朱でもって一本ずつ線を引き、人々の前に立ったりもした。傘下に治めた諸地域の候からの新年の挨拶や貢ぎ物の使者が来たときも、軽々しく言葉は発せず、タクやマオカにそれをさせたり、ときに自分は会わず彼らに代わらせたりもした。

 マヒロらサナの個人を知る者にも、聞きもしない神の声を伝えてやったりもする。それで彼らの迷いや恐れが消えるのであれば、何ということはないことである。

 ──わたしは、どこだ。

 サナは眼の前の雨粒の中に、己の姿を見出だそうとした。無論、それは叶うはずもない。

 眉間が、熱くなる。


 ヤマトの地が見下ろせた。オヤマも、王たちの墓も、この盆地を潤す河も、都邑の家々も。厚く黒い雲はすぐ頭上にあり、大地はやや遠い。オオトに向かう薄く低い山脈も見えた。それら全てが天地の、人々の営みそのものであった。陽は昇り、沈めば月や星が出る。春には芽吹き、秋には実り、冬には枯れる。生まれ、子を為し、老い、そして死ぬ。当たり前のことが、そこに今もあり、それはこの先も永遠に続いてゆくであろう。

 小川では、雨だというのに少女が少年に手を引かれ、遊んでいる。彼らは雨に気付いていないような素振りで駆け、仔犬のように転がりながら遊んでいる。少女が川の流れに手を突っ込み、わけのわからない物体を掴み上げると、少年が優しく歩み寄り、愛情をもって少女の手からそれを奪い取り、川に捨てた。少女が不服そうにしてもう一度川を覗き込むと、足を滑らせて落ちた。少年は信じられないほどの速さで川の中の少女に手を差し伸べ、引き揚げた。その光景を、知っているような気がした。

 王の墓の方へ、多くの人々が列をなしてゆく。それを追いかけると、先王の墓の前に人々が群がり集まっており、小高い場所に立つ、美しく着飾った女がいた。彼女はその群衆ではなく、しっかりとこちらを見ていた。頷いてやったが、あちらから見えたかどうかは、分からない。

 もう少し、遊んだ。遥か下にぽつりとある丸い屋根が、三重の楼閣か。同じ目線まで降りてみると、縁の欄干に手をかけ、雨に濡れながらこちらを呆けたような顔で眺めている女がいる。女はまだ童のようでもあり、歳長けているようでもあった。それに笑いかけ、手をひらひらと振ってやった。彼女もそれに気付いたのか、笑い、手を降り返してきた。それは今まで見たあらゆる笑顔の中で、最も美しいものであった。珍しいくっきりとした二重に真ん丸の眼。目尻はわずかに流れており、どんぐりのようである。ぷっくりとした頬が可愛らしく、背は低いが身体の線は麗しい曲線を描いており、触れれば溶けてしまいそうだった。

 その女が、言った。

 ──マヒロ。死なんでくれ。


 サナは、欄干から弾かれたように離れた。

 今、ぼうっとし過ぎて、何を見、何を考えていたのか、自分でも分からない。しかし、この見渡す限りの天地も、その先も、そこに暮らす人も、花も、獣も、土も、水も、すべて彼女自身であることに気付いていた。己を殺すことなどない。はじめから、己はヤマトそのものであり、ヤマトは己そのものであったのだと思った。己の中に己はなくとも、このヤマトが己の宿る器であればよい、と思った。きっと、草の揺れる音の中にも、土の上を這う蟻にも、自分を見つけることができるであろう。そして、愛しい人の瞳の中にも。

 サナは、涙を流した。その涙が床に落ちる音は、雨の音と異なる音律を持っていた。

 ──マヒロ、死なんでくれ。

 その声を、聞いたことがあるような気がしたが、どこで聞いたか思い出せぬ。

 ──マヒロ。頼む。死なんでくれ。頼む。

 サナは、きざはしを飛び降りるようにして降りた。二階の廊下を、ぱたぱたという裸足の足音が潤した。

 なんどもかよったその部屋の扉を開いた。そういえば、いつもこの扉を開いてくれていたのは、マヒロであった。自分の力で開こうと思えば、なんと重いことなのか。サナは自分の白い二本の腕が憎らしくなった。

 扉が開くと、そこにはマヒロが座っていた。傍らには、いつものようにハツミという元気な女がいた。

 マヒロが、ゆっくりと倒れた。板敷きの床に、あかあかとマヒロのが流れてゆくのを、見た。

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