消えた軍

 始まった。タチナラがウマの地を空けたことにより、それはやはり早まった。

 オオトの浦に、クナの船団。タクがそれを迎え撃ち、防戦している。一同は、緊張の中にいる。カイとコウラはキヅ、ハラの地から進発して川を横手に眺めるようにして布陣した。タチナラはマヒロの指揮下に入り、ヤマトの地を守る。

「必ず、防ぎきってみせます」

 これほどまでに大規模かつ広範囲での戦いは、初めてである。ナナシにとっても、ヤマトにとっても、この国の歴史にとっても。

 これまでの戦いとは、往々にして目の前に押してくる敵とぶつかり、力の強い方、数が多い方が勝つものであったが、この戦いは、違った。守り通すことが目的で、勝つことではない。それはすなわち、守り通せば勝ちということでもある。

 ナナシは、各方面から逐一状況の報告が届くようにし、オオトの浦にクナの船団が来て、タクがそれを迎え撃ちにしているという報せもいち早く得ていた。

 各方面に決められた人数が入れられており、報告事項があれば馬を飛ばしてやってくるのだ。後代で言うところの本陣への注進にあたる。その報告を聞いている限り、タクはよく戦っている。オオトの要塞は堅く、クナはまだ陸にも上がれぬまま、近づいたり遠ざかったりを繰り返しているようだ。

 ナナシの予想では、クナに続いてヒトココの軍が来るはずであった。北のカイとコウラには、まだ動きはない。しかし、オオトの攻めが始まったということは、間もなくカイとコウラのもとにも敵が押し寄せてくるはずである。それらのことを、サナとマヒロに伝えた。

「わかった。任せる」

 サナは、足を投げ出して座った。以前触れたことがあるが、この時代の座り方は、尻を地につけ、足を組んで座る胡座こざが普通である。正座が一般化するのは室町時代くらいの女性によって――服装が変化し、以前触れた通りこの座り方では見えてはいけない部位が見える恐れがあるため――で、男性が用いるようになるのは更に遅い。男女ともに正式な場での作法として正座を用いるようになるのは、江戸時代からである。


 余談に入る。胡座は、その名の通り、「胡」と昔呼ばれていた大陸文明北方の、今日で言う内モンゴルあたりの人から、中国にもたらされた。内モンゴルはシルクロードが貫いており、それを経由して内モンゴルに伝わったものと思われるが、その発端は遥かアラビア半島にまで求めることができる。今はどうなのか分からぬが、当時のアラビア半島の諸文明の風習で、相手に足の裏を見せてはならないという決まりのために生まれたものである。

 座り方に規則を設けるというのは、人類にとって画期的である。座るという自然な行為に規律と規範を適用することで、それは文化的行動になった。時代が降るにつれ、その者の社会性の表現となり、時と場所に応じたバリエーションも生まれる。たとえば、上司の前で立て膝などをすれば怒られるに決まっているし、恋人の前で正座しかせぬのでは、相手は息が詰まって仕方ない。

 古来、人類の座り方は、膝を抱えるようにするか、手を後ろについて足を投げ出すかのどちらかで、その両者の線引きなどもなかった。しかし、いつからか、何故か、人類は座るということにまで自らが産み出した社会規範をあてはめるようになる。

 筆者は、それは人類が文化を持ったとき、生物としての無意識の行動を自らの制御のもとに行う必要性があったためではないかと考える。

 生物としての無意識の行動のうち、最も分かりやすいのが、立つ、歩く、座る、食う、声を出すというようなことであろう。その自然な行為についての方法論と、その意味を発明することは社会の形成に必要不可欠ではあるまいか。

 もちろん、はじめはそれぞれのコミュニティごとにそれは独自に起こり、別個に存在したはずで、それがときに混じり、ときにぶつかり合いながら、長い時間をかけて、自然の動作を制御するということを自然に行う生き物へと我々は変化した。

 そして、その発明は、同じやり方をする者は洗練されており、従来の自然そのままの動作でそれを行う者は遅れているあるいは野蛮であるという考えにも結び付くし、そもそも、その自然の動作からの脱却こそが、人類が文化と文明を持つ端緒になったのではないかとすら思えるが、実際どうだったのか確かめる術もない。

 筆者は、通勤時などにおいて、電車のドア近くのスペースに野生そのままの座り方をする若い男女にしばしば遭遇する。ただ単に品がないだけとも取れるが、そこで眉をしかめることはせず、時代が成熟しつつある今、洗練された文化的行動を超越し、自然と野生のままの行動をあえて用いることで、自らの反骨心と社会に対する疑問を表現しているのかもしれない、と暖かい眼で見守ることにしている。恐らく、彼女は家に帰れば、手づかみで飯に食らいつくのであろう、そのうち言語も失って――既に失ってしまったのか、と思えるような人も稀に見られるが――、唸り声や、母音の尾の引き方やその高低で仲間とコミュニケーションを取るようになるかもしれぬ、などと想像すれば、おかしみこそあれ、苛立ちはない。


 どうでもよい話はさておいて、サナは、今、アラビア半島の人が見ればびっくりするような座り方で、マヒロとナナシの話を聞いている。思えば、サナが自ら、どうせよ、とか、こうせよ、とか指示をこういった場ですることは、極めて少ない。いつも、実行者に任せきってしまう。よほど彼らを信頼しているのか、よほど器が大きいのか、単に自らがあれこれ考えるより人に任せてしまった方がことが上手く運ぶわい、と思っているだけなのか。

 ともかく、サナは、

「任せた」

 とのみ言って、視線をまた泳がせた。緊張した場であるが、表情は平静で、むしろ明るくすら見える。これが、サナの女王の顔である。マヒロはその顔を見て、安堵した。ヒメミコは、不安に震えたり、恐れたりはしていない、と。

 ナナシは、もっと別の見方をしていた。ヒメミコは恐らく、不安に駆られている、と。しかし、それを表現してしまえば、マヒロの行動が、サナの不安を取り除くためのものに変わってしまうかもしれない、と思っている、と。

 女王としても、女としても、サナは迫ってくる敵に対する不安を、誰にも表現することができないらしい。

 カイからも、注進が来た。北の盆地から敵が現れ、こちらに向かって陣を構築しようとしている、と。その場所はやや北に離れている、とカイは独自にあちこちに放っている物見からの報告も付け加えてきた。危険の臭いに敏感なカイが、用心深くなっている。自分の周囲が危険の臭いに満ち溢れてしまえば、そのひとつひとつの臭いを嗅ぎ分けるのは困難であるということかもしれない。だか、今回に限っては、危ない、と思っても、逃げるわけにはゆかぬ。カイが守るのは、ヤマトの入り口。何があっても破られるわけにはゆかぬのだ。

 タクは、依然オオトで戦っているという。敵の船を焼き、沈めたりしているが、数が多すぎる。注進による「海を埋め尽くすほどの」という言葉が正しいなら、ヒトココの軍も合わせて海を渡って到着しているものと考えた方がよい。

 タクは、果たして、持ちこたえられるか。危ないと判断したら、タチナラをタクのもとへでも、カイのもとへでも送るつもりであり、ナナシは、いつでも出陣できるよう要請をしてある。

 更に、注進が来る。船を沈めても、そこから兵が泳いで上陸してくるという。また、余りに船が多いため、そこここで上陸が始まりつつあり、それを食い止めているという。

 ナナシは、ここだ、と思った。いかにオオトの防備が固いとはいえ、上陸を許せばこちらの方が兵数が少ないわけであるから、どうなるか分からぬ。

 できるだけ、早いうちからオオトに兵を送らねばならぬと考え、タチナラにその旗下全軍で出陣することを要請した。

 それを受けたタチナラは、マヒロから授かった剣を抜き、天にかざし、兵たちに宣言した。

「我らウマの者は、ヤマトと共に、未来ゆくすえを拓く。それを阻む者を、討つのだ。我らはウマの者であり、またヤマトの者でもある。死をも恐れぬ我らは、ウマに生まれ、ウマに育ち、そしてヤマトに死ぬのだ」

 兵どもは、一斉に声を上げた。前にも述べたが、ウマとは、現代の漢字を当てるなら「うま」と書く。折り重なった山々には薄く霞がなびき、美しい野と川と海岸線を持ち、山海の恵みも豊かなこの地で育った彼らは、そのことを誇りに思っていた。そして、ウマは、マヒロの矢を見、共に生きてゆくことを決意した。その決意を表現できる場を設けられたことを、全員が喜んだ。

 駆け足で、山に入って行く。こういう軍は、数以上の働きをするものだ。タクに、タチナラがそちらに向かった、よろしく戦ってほしい、という旨の伝令を送るべく、ナナシは人を呼んだ。

 その伝令が馬で駆け、タチナラを追い越し、オオトの地に入った。

 ――何だ、これは。

 伝令は、絶句した。オオトの地には、誰もいなかった。巧みに要塞化された数々の施設にも、山に建設された煉瓦の巨大な建造物にも、野にも、海にも、誰もいなかった。クナのものかヒトココのものか分からぬが、乗り捨てたようにして、大小の船が停められているだけである。

 その船を揺らしている、冬を迎えようとしている波の音が、ただ黒々と響いていた。

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