涙の跡
哨戒している兵数人に、背後から見咎められた。サワが露骨に体を緊張させた。カイは腹這いの体勢から、ゆっくりと立ち上がる。それを見た敵が一斉に抜剣する。
「おや、俺を知らんのか、お前ら」
笑いながら、兵の方に向かって無遠慮にカイが歩いてゆく。
「誰だと聞いている」
「俺が誰か、と。それは、難しい質問だ。とても、難しいな」
「構わん、斬れ」
「――しっ。静かに」
「なにっ」
カイは剣も抜かず、なおも歩み寄っていく。敵はこの男が何者なのかほんとうに分からなくなってきた。何一つとして焦る様子もないし、静かに。と言われれば、その通りにしてしまいたくなるような、不思議な吸引力を感じてしまっている。
「まぁ、落ち着け。熱くなるな」
と言いながら、一人の脇を素早く通り過ぎた。その動きは見えない。一人が喉元を拳で打たれたらしく、白目を剥いて倒れた。
「俺の名は、カイというのだがな」
更に一人が、地に伏した。別の一人が剣を振り下ろしてくるが、カイはすでにそこにいない。
「ヤマトの――」
頭上から声がした。剣を振り下ろしたままの格好の敵と目が合った。そこに旋回させた強烈な脚。やっとサワが剣を抜き、駆けてくる。
「――ハラという地を治めている者だ」
また、一人が倒れた。サワも一人を斬り倒している。これで、敵はいなくなった。
「それ見たことか。俺を見つけなければ、死なずに済んだものを。おい、この死骸を隠すのによい場所はないか」
「はっ」
もう、夕の光は力を失って夜の色に変わりつつあり、それにつれて蝉の声もどこか囁くような響きに変わってきている。
「あちらの崖下に、小川が流れております」
崖になっているところから川に向けて死骸を捨てた。カイは、血を残せば争いの跡が他の兵に見つかると思い、拳で戦ったが、サワが一人を斬ってしまっているので草の上に残った血を死骸の衣服を剥いで拭った。
「さて」
辺りを見渡すと、ちょうど降りられそうになっているところがある。
目の前の海から、低く月が登ってきている。
「降りるのですか」
サワは驚いた。偵察とはいえ、都邑の中に潜入するなど、聞いたこともない。
「大丈夫だよ。もう夜なんだし。さ、早く行くぞ」
音を立てず、崖を降りた。やはり、妙である。家々からは人の気配や話し声漏れているが、兵の姿が見えぬ。
「おい」
一軒の家の前で、カイがいきなり大きな声で中に呼ばわったときは、サワは気を失いそうになった。
中から、のそのそと痩せた初老の男が出てきて、少し開いた戸口からその妻、子らしい者が不安げにこちらを窺っているのがちらりと見えた。
「俺は、カイという者だ。兵はどこに行った?」
「は、カイ様。兵は、今朝早く、ここを出て行きました」
どうやらカイを、サザレの兵か将か何かだと思っているらしい。
「ここには、もう兵はいないのか?」
「ヒコミコの館――」
と男は、既にヤマト本国以外では廃止したはずの呼称を用いた。あたらしいヤマトの制度からすれば、「サザレ候」と呼ばなければならない。この果ての地の人々にまで、まだヤマトのあたらしい仕組みは浸透していないのかもしれない。
「――には、僅かに兵がいるようですが」
「そうか、ありがとう」
カイが間抜けな笑顔で言った。家の者は、カイのことを、どうせ集合の時刻に間に合わず、慌てて自らの隊を探している間抜けな小隊長くらいに思ったらしく、
「皆様、南の山の方に向かわれたようです。朝には戻るそうですので、今から平原を越えれば、戦いに間に合うのでは?」
と教えてやった。カイの顔が、青ざめた。
「戻るぞ、サワ。兄者が、あぶない」
カイがいきなり駆け出す。サワは何が何だか分からず、家の者に一礼し、あとを追いかけた。
「カイのやつめ、無茶をしなければよいが」
オオミと副官のヒナモが、火を囲み、干した肉を炙りながら話している。
「無茶を、なさっているでしょうね」
ヒナモは笑っているらしい。
「あいつのことだ。上手くやるであろうが」
低い月が、登っている。
何かが来た。火の中にそれは突っ込み、あたりに火の粉が上がった。矢であった。
北西と北東から、夥しい数の矢。アルファベットのVの字のような布陣の敵がいきなりあらわれ、オオミらのいる丘に向け放っている。
みるみる味方が倒れてゆく。まだ来る。
「敵襲!矢だ、何でもよい、身を守れ!」
完全に、不意を突かれた。でこぼことした丘陵の間を縫い、巧みに身を隠しながら接近してきたものらしい。
「ヒナモ。丘の後ろに降りる」
「鏡、用意」
ヒナモが、周囲の者に向かって声を鋭くさせる。
「鏡!鏡用意!丘の後ろに下がれ!」
その係の者が、銅の鏡を持ち出し、同じ素材で作られた
間を開けず、三度叩く。退却して待機の合図である。それを聴いた別の鏡の者が、同じ合図を送り、瞬く間に全軍に伝播し、軍全体が丘の後ろへ退却してゆく。
退却したところで、隊形を整えた。そこへ、聞き覚えのある地響きがした。
馬。兵器としての馬は当時最先端で、ヤマトやクナの地で僅かに飼育、繁殖させているに過ぎない。この島国でそれらが多く生産されるようになるには、まだ長い時を要する。
サザレは、このような最先端の兵器まで密かに導入しているのか。ことは、思った以上に重大である。肩に矢を受けたヒナモが、オオミに言う。
「オオミ様、馬です」
「分かっておる」
迎撃。鏡を一度、叩く。
兵が一斉に、矛を構えた。突進してくる馬に向かい、それを突き出す。
馬群が、通り過ぎた。いくらか矛で討ったが、勢いは止まらない。陣が、真っ二つに割れた。
反転してくる。二度目の突撃。月があり、明るいとはいえ、相当に練度の高い騎馬隊である。
陣が、四つに分かれた。
「ヒナモ」
それを見ながら、オオミは、短くヒナモを呼んだ。
「はい」
「ちょっと、死んでくる。カイが戻るまで持ちこたえたいところではあるが、私が死んだあとでカイが戻れば、その指揮の下に入り、兵を逃がせ」
「お断りします。私も、行きます」
「ならん。今は、ここを切り抜けることが第一だ」
「できません」
オオミは、ヒナモの頬を強く叩いた。
「しっかりせぬか。お前は、誰の副官だ」
「は。オオミ様の副官です」
「そのオオミが、あとを頼む、と言うている。従わぬか」
と怒鳴り付けた。ヒナモは、肩の矢を引き抜き、つい先ほどまでとは違う光をその眼に宿した。
「はっ」
「では、頼む」
「オオミの兵よ、聴こえるか」
オオミの声が、丘を揺らす。
「あの忌々しい敵を、一人残らず討ち果たす。私に続け」
兵の間で、喚声が上がる。
「カイの兵よ。聴こえるか。我らを援護せよ。わが副官、ヒナモを付ける。そして、お前たちの将が戻れば、脱出し、ヤマトに急を告げるのだ」
兵から、それぞれ声が上がる。皆、一瞬にして決死の覚悟を固めたものらしい。それを見回し、矛を振り上げた。
「ゆくぞ!」
カイは、走っていた。息をするのも忘れて。途中、装備を置いた木のところでサワに武具を身に付けさせ、自らも分銅鎖を持ち、再び駆け出した。
サザレは、夜襲を仕掛けるつもりだ。明るい月があるので、兵の運用には事欠かないはずである。ヤマトがこの地に到着する日程を読み、その月の具合まで織り込まれた作戦である。生半可なことでは、脱出は難しいであろう。このようなときは、武をもってひたすら勇戦するしかない。しかし、兵を指揮すべき一方の将たる自分がいない。カイは、自らの軽挙を悔いた。ゆえに、走った。走れば、歩くよりもいくらか早い。
サワも、遅れずについて来ている。駆け通しであったので、思ったよりも早く平原を突っ切れた。
前方に火が灯っているのが、宿営の陣の丘か。火が倒れたりして煙になっているのか、月が濁って見えた。
その両脇の低く小さな丘に、兵の姿を見た。オオミの軍にしては、数が少ない。両側に百ずつと見た。
カイから見て右側、すなわち東側の丘を駆け上がる。突っ込むつもりだ。足音に気付いた者が、音の方を見た。見たまま、分銅に頭を砕かれた。
カイは、完全に我を忘れていた。サワも目を血走らせながら矛を振り回している。カイの周りを生き物のように激しく旋回する鎖に、敵は後ずさった。
「落ち着け、弓だ」
指揮官らしい者が、周囲に指示をする。弓が引き絞られる。
「弓が、どうした!」
カイの鎖がまっすぐに伸び、指揮官の頭は熟れた果物のように弾けた。そのまま腕を横に振ると、勢いを得た分銅が意思を持ったように曲がり、弓を構えた者すべてを一薙ぎにした。
咆哮。
カイは、火の玉になった。分銅が恐ろしい音を立て宙を舞う。頭に当たれば、ぱちんと景気の良い音が響き、胴に当たれば、どすりと重々しい音が響く。そのようにして、滅多やたらと敵を打ち倒していく。
鎖を手元に引き戻そうと、手首を返した。分銅が宙に上がり、こちらに向かってくる。その隙を狙おうとした一人を、サワが突き殺した。
胴に深く刺さった矛を引き抜く前に、もう一人。サワは矛から手を離した。それより早く、カイは右手で鎖を握ったまま、腰に差した短い剣を左手で逆手に抜き、背後の者の体を貫き通した。
剣はそのまま敵の体に残し、戻ってきた分銅の勢いを活かして跳躍し、身体を空中で旋回させ、分銅を振って二人を薙ぎ倒す。
着地の勢いを利用して、力任せに一人に叩き付ける。
飛び下がりながら、分銅を再び送り出す。
そうして戦って、百ほどの敵は、沈黙した。
カイも、サワも、傷は浅い。死体から矛を引き抜き、サワに投げ渡した。
「何があっても、矛から手を離すな。俺が死んでも、お前は戦い続けろ」
鎖を、手元に丸めた。
「いくぞ」
一つの丘を潰し、喚声の轟く宿営の丘向こうに駆けた。息が苦しいが、それすらも、よく分からない。
「構わぬ、弓を放て!」
オオミは、後列のカイの隊に、弓を使うよう指示をした。敵の騎馬は大分数が減ったが、その前にこちらが全滅しかねない。騎馬の突撃のあと、切れた陣の隙間に歩兵が殺到してくる。カイの隊が矛を突き出して突撃するが、薄くしか敵を削れない。明らかに、こちらの兵が損なわれる速度の方が早い。数で勝っているとはいえ、騎馬の出現は想定外であった。あのうるさい騎馬を消さねば、全滅する。オオミは、自らと自らの兵ごと、乱戦の中に弓を撃ち込ませることを決心した。
――ぐわあーん。ぐわん、ぐわん。
――ぐわあーん。ぐわん、ぐわん。
弓での攻撃、の合図である。すぐには矢は来ない。ヒナモが
騎馬が、反転してくる。
矢。
雨のように降り注いだ。敵の騎馬も、味方も、次々に倒れた。オオミも、肩と脚に矢を受けた。
残った敵の騎馬が、動揺したように馬を止めた。
次の矢。降ってくる。
まだ、死なぬ。オオミは思った。
そのとき、騎馬の最後の一騎が、馬から転がり落ちた。それにひらりと飛び乗り、代わりに馬上に姿を見せたのは、カイである。
「兄者!すまん!」
馬を疾駆させ、味方の間を駆け回った。駆け回りながら、
「我が兵はどこだ!声を聴かせてくれ!」
狂喜したカイの兵が、後列から弓を掲げ、声を一斉に上げる。それは、出陣の際のものより随分少なく、か弱い。
「命ずる。これ以上、誰一人として死ぬな。生きて、サザレの者を殺し尽くせ!」
なおも駆けながら、言う。
「兄者の隊、下がれ!」
傷付いたオオミの隊が、一斉に後退する。敵の歩兵が、それを追う。
「弓!」
三の矢が、つがえられた。
「狙え!」
きりきりと、弦が張られる音が響く。
「放て!」
オオミの隊を避け、やや上向きに放たれた矢は、敵の歩兵の後列に殺到した。
「弓、左右で待機。合図まで待て!」
弓を持つ者が、左右に向け駆けていく。
「矛、構えろ!」
カイは、腰から愛用の剣を抜いた。
「――いざ!」
退却してくるオオミの兵と入れ替わるようにして、カイは突撃する。押してきた敵の歩兵が、その凄まじい勢いに押されだした。
「斬れ、突け、殺せ!」
カイも怒号を轟かせながら、馬を駆り、剣を振った。全員が、先程のサワのように、目を血走らせながら戦っている。
戦とは、勢いである。一気に、押し返してゆく。
カイの馬が、足を斬られ、倒れた。
地に転がる。起き上がろうとしたとき、敵の矛が振り下ろされてきた。
目の前に、立ちはだかる影。
カイが昔、揉め事を起こして和解した後、その人柄に心服して兵として付き従ってきた奴婢達の首魁格の者であった。
肩口から胸まで、深く矛の斬撃を受けている。助からぬであろう。
しかしその男は、自らの矛を敵に突き刺すと、身体に残った矛を引き抜き、捨てた。
カイは、立ち上がった。
男の脇を駆け抜けるとき、肩を叩いてやった。
一瞬、目が合う。
笑った。
そのまま、カイは敵の中に駆け込んでいく。
楕円を描くような独特の剣さばきで、次々に敵を葬っていく。
視界の端で、先程の男が仰向けに倒れるのが見えた。絶命したのであろう。
「潰せ!」
なおも、怒号を放った。
そこで、後列に一旦退いたオオミの隊が再び参戦してきた。左右に別れた弓隊も、武器を持ち換え、突入してくる。
兄弟、肩を並べる。
父が、見えたような気がした。白髪をなびかせ、敵の中で、矛を凄まじい勢いで旋回させている。
繰り出されてきた矛をかわしたとき、父の姿は消えていた。
「兄者」
「カイ」
「父上も、一緒に戦っておられる」
兄弟、互いの背を庇い合いながら、戦った。
戦いが、止んだ。
夜が明けかけている。サザレの主力軍は壊滅した。紫の色彩の中、兄弟は血まみれになって立っていた。サワも、ヒナモも、集まってきた。残ったのは、三百にも満たぬ。
カイは、自らを庇い、死んだ者のところに歩いていった。
「ああ、こいつも死んだか」
更に脇に眼をやり、
「お前、嫁が出来たばかりだったのになあ」
などと、兵の死を嘆いて回った。
「カイ」
オオミが、カイの肩に手をかけた。
「ゆくぞ。サザレの候を、討つ」
思いのほか苦戦を強いられたが、主力を撃滅したために、都邑は空である。一気に任務を果たすべく、進発する。
カイの顔にこびりついた血が、涙の跡だけ洗われていた。
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