桜の精
「そうか、ご苦労であったな」
サナは、マヒロの報告を受けた。脇に、コウラ、オオミ、ナナシ、タチナラを伴っている。
「タチナラ」
とサナはその名を呼んでやった。
「助かったぞ。そなたのお陰で、余計な犠牲を払わずに済んだ」
タチナラは、床に頭を付け、
「親魏倭王」
とサナのことを大陸から与えられた称号で呼んだ。サナは吹き出し、
「ヒメミコ、でよい」
と言った。
「どうも、その長い名には馴れぬ」
脇に置いている、魏から与えられた金の印を手に取り、何度か小さく放り投げて受てみせた。
「大陸では、これが王の全てであるという。たとえその者が王であったとしても、この印なくしては、その証とならぬそうだ」
サナは、ずしりと重い金の印を戻し、
「窮屈なことよの」
と笑った。サナが笑うと、眉が困ったように下がり、二重の丸い瞳の目尻に、くしゃりと皺がいく。それが、ひどく可愛い。神宿し、陽の巫女。と言われるだけあり、依然としてほとんど歳を取らぬ。女王として座していれば人は勿論、草の一本までもがひれ伏しそうな圧倒的なものを持っているくせに、こうして話していれば、娘のようではないか。
「それと、そのように重く礼を用いずともよい」
タチナラに向け、手をぱたぱたと振った。
「はっ」
と言い、タチナラはやや頭を上げた。もう、彼はこの女王がとても好きになっている。自らがヤマトの一員であると改めて認められたような気がして、嬉しかった。
「褒美を、つかわす。船に載せられるだけ載せ帰るがよい」
と財物を倉から出させるよう命じた。タチナラは
「さて」
サナは、マヒロの方に向き直った。
「兵が、足りぬか」
「はい」
「イシの地に、いくら残してきた」
「おれの軍から、二百。オオミの軍から、百。投降したもともとのイシの兵は、五百」
「合わせて、八百。あと、どれくらい必要じゃ」
「少なくとも、千」
「千、か」
「ウマ、ヒトココなど、東の地より兵を少しずつ募るしかありませんな」
オオミが言う。以前、マヒロが制圧したヒトココの地は、この時代よりも更に前から栄えており、人がわりあい多い。五百は出せそうである。しかしそれ以外の地域から兵を少しずつ集めても、やはり千には及ばぬ。
「とりあえず、八百というところですか」
ひとしきり、段取りを話し合い、オオミがそう結論付けた。ふと脇を見ると、ナナシが舟を漕いでいる。
「おい、ナナシ。大切な話の最中に眠るとは何事だ」
とマヒロが
「無理もない。はじめての戦いであったのだ。部屋で休ませてやれ」
サナが、優しい視線を送った。その視線がマヒロの方に来たので、仕方なく、マヒロはナナシを部屋へと連れていく。思えば、戦いの間、武器を取ることはなかったが、ナナシは全く眠っていないのではないか。夜営の最中も、ずっと火を見つめたり、風の音を聴いたりしていた。
部屋に連れ込んだ。
「申し訳ありません。あとは、自分で」
「夜具を敷いてやる。その間、身を整えろ」
と背中で言い、マヒロは夜具の支度をしてやった。
「それ、眠れ」
振り返ると、ナナシは座ったまま眠っていた。マヒロは舌打ちをし、ナナシの側まで歩くと、頭巾を外し、覆面を取ってやった。名無しにしておくには余りにも美しい顔が、安らかな寝息を立てている。
起こさぬよう、そっと抱き上げる。夜具の上に身体を置き、離れようとしたが、覆面を外されマナの顔になったその腕が、伸びてきてマヒロの首に巻き付いた。
「
かすれるような声で、言った。
「どうした」
マヒロも、耳元で囁いた。
「いかないで」
「おれは、皆のところに戻る」
マナの顔が、すぐそばにある。柔らかな頬が、触れてくる。
「また、明日が明けたら」
マヒロは、言い聞かせるようにしてマナから身体を放した。マナは再び寝息を立てている。
「おれは、お前を抱いてやることはできぬのだ」
と、その寝顔に向かって言った。
「お前が嫌いだからではなく、抱いてしまえば、お前は、おれのためにしか生きれないようになると思うからだ」
立ち上がり、背を向けた。
「それは、あまりにも悲しいことだと思うのだ。――マナよ」
マヒロは、扉をそっと閉めた。
席に戻る。
「何じゃ、早かったな」
とサナが意地悪を言うので、マヒロは思いきり睨み付けてやった。
「こわい顔をするな。ほら、酒を持たせておいたぞ。飯も、間もなく来る」
と笑った。他の者はなんのことか分からずにいる。酒を飲み、飯を食らった後、マヒロはサナの部屋にいた。
「マナは、眠ったか」
「はい」
「戦いの、役に立ったようだな」
「神の意思を見ているのか、ただ聡明なだけなのか、分かりません」
「どちらも、であろうよ」
サナが、マヒロにもたれかかった。
「哀れに思えます」
「そう言うな。お前のため、望んでしていることだ。お前に哀れと思われてはマナも立つ瀬がないわい」
マヒロの手が、サナの身体に伸びてくる。その大きな手の甲に、サナは自らの手のひらを重ねた。
「ヒメミコの代わりなど」
マヒロは、サナの首筋に唇を当てながら言った。
「おりません」
「しかし、役には立つであろう?」
身体を、倒す。
「たしかに」
「女には、荷の重いことであったかな」
女だからこそ、マナはナナシになることができたわけであるが、サナはあえて言った。
「女であることを、コウラは気付きました」
サナは、くく、と喉を鳴らした。
「いつまでも隠せるものではなかろうな。それにナシメも、事情を知っておる。マナが大陸の書を教えてくれ、と言い、学んでおったからな」
マヒロは、初耳である。マヒロの役に立つため、この書という木簡あるいは竹簡に記号のような漢字を書き込んだあたらしい文物を、リュウキやナシメは持ち込んでいた。ナシメに必死に言葉を教わり、戦いのことを学んでいたというのである。
「いじらしいことではないか」
「そんなもの。戦いのことは、昨日今日で学べるものではありません」
たしかに、そうである。しかし、この度の戦いで、マナが施した策は、紛れもなく大陸の兵法書に記載されているやり方そのままであった。マヒロは読んだこともないし、読めもせぬから、知らない。
「リュウキのように、とまではいかずとも、マナの神宿しの眼と大陸の智が合わされば、心強いことであろうて」
マヒロは黙り、サナの身体を愛撫することに戻った。
「マヒロ」
息を荒くするサナが、言った。マヒロは少し動作を止めた。
「この先、どのような戦いがあろうとも、死ぬな」
「死にませぬよ、おれは」
「うん」
サナは眉を困ったように下げて笑い、マヒロの首に腕を巻き付けた。マナの腕とは、やはり肌触りが違う。サナの代わりなど、誰にも務まらぬ、とマヒロは思った。
マナは、夜具の中で一人、声を聴いていた。誰のものともつかぬ声である。
――これで、よい。
――これで、また兵は少なくなった。
――イシの者も、憐れよな。ヤマトはこの地を、大陸の魏に売るつもりだ、とそそのかしたら、すぐに叛きおった。戦いが始まれば、クナの大軍が来る、と信じてな。
汗が、マナの白い首を伝ってゆく。マナは、眼を覚ました。今、何か夢を見ていたような気がするが、思い出せぬ。ただ眉間のあたりが熱いような気がするだけである。
空は、黒がやや薄くなりかけているらしい。星はまだよく見えるが、雲の輪郭もまた浮かび上がってきている。
脇に眼をやると、頭巾と覆面が置かれていた。ゆうべ、マヒロが自ら頭巾を外し、覆面を取ってくれたのである。マナが眠ってしまっていたから仕方なくそうしただけであると分かってはいるが、マナは、マヒロが自らの頭巾を外し、覆面を取り、マナに戻してくれたような気がして、嬉しかった。
――おれのためには生きるな。己のために、生きろ。
そう言って、眠るマナの名を呼んでくれた。眠ってはいたが、そのことは覚えている。今見ていた夢のようなものはすっかり忘れ、マナは覆面を着け、ナナシになった。
――わたしが、自分のために生きるとは、マヒロ様のために生きること。
そう思い定め、覆面の紐を固く結び、その上から頭巾を被った。
楼閣の二階から、外を見張らした。春の花である桜が、そこここに咲いているのが、薄い青の中に浮かび上がってくる。
春の花、と言えば、我々がまず思い浮かべるのは桜である。しかし、桜がこんにちの我々が思うようなシンボル化、アイコン化された存在となるのはこれよりももっと後で、平安時代くらいの話ではないであろうか。たとえば、最古の歌集である万葉集にも、「はな」という単語は多く記されるが、その多くは梅のことである。当時の価値観は大陸的で、花と言えば梅のことを指すことが多かった――大陸にも桜はあるが、日本のようには有難がられない――。「ウメ」もまたサクラ属の植物であるが、大陸で「
勿論、万葉集にも、桜のことを指した歌もあるにはあるが、この花を見たときの「あはれ、をかし」の感覚を我々と同じように共有できるようになるには、われわれの祖先の持つ精神哲学が一種の
今、マナが見ているのは、こんにちの我々がビールとスナックを片手に、仲間うちや会社の親睦の会の度ごとに眺めている、品種改良の進んだソメイヨシノではないし、そもそもそのような、人に眺められるため改良された美しい品種などこの時代には存在しない。ごつごつとした幹から細く節を持ち、伸びる枝は、花が開くと同時に葉も開き――ソメイヨシノなどは花の後に葉が開く――、花弁も細長く、ひっそりとしている。この時代のことであるから、勿論桜の木にも神はいる。だがそれはこんにちの我々が思うほど特別なものではなく、どこにでもいる、注意しなければ気付かずにすれ違ってしまいそうな神のうちの一つに過ぎなかった。
「ああ、花がもう咲いている」
とマナは楼閣の敷地の外に自生する、老いた桜の木の精霊と眼を合わせた。春の明け方は、短い。外を眺め、農耕のため肥を
マナは大きな伸びを一つ身体に与えると、習慣の通り、マヒロの部屋へ向かった。
「なんだ、もう疲れは無いのか」
マヒロは、既に起き出していた。
「はい。ゆうべは大変失礼しました」
「無理をせずともよいのだ。女の身で、戦いのことをするのはあまりにも」
「荷が重うございます。しかし、マヒロ様やヒメミコが背負っておられるものに比べれば、わたしは楽なものでございます」
と覆面の奥で眼を細めた。
「ところで、コウラのことだが」
ナナシは眼を細めたまま、少し首を傾げた。
「あれには、本当のことを話しておこうと思う」
コウラは今日、イヨのもとへ帰ることになっている。マヒロは部屋を訪れ、
コウラは、ナナシを前にして、気まずそうであった。
一通り飯を終え、片付けも終わると、マヒロはコウラに向き直った。
「さて。このナナシのことだが」
マヒロが、ナナシに向かって頷く。ナナシは頭巾を取り、美しい黒髪を
マヒロは、マナのこと、マナが名無しになり、こうしてマヒロに仕えていること、サナと同じく神宿しの力を持つことなどをコウラに説明してやった。
「――そうですか。名がないから、名無し」
コウラは、この突飛な事態に困惑しながらも、おおらかに受け入れた。軍師とは名目で、ただマヒロが死なぬようにだけすることが役目とは、なんとも妙で、滑稽ですらある。
しかし、このナナシの存在こそが、マヒロが今後、更に苦しい戦いを強いられることを示しているのではないか。少なくとも、サナとマナという二人の神宿しがそう考え、マナは名無しになり、今ここにいるわけである。
「ナナシ様のことは、よく分かりました。しかし、それよりも分からぬことがあるのです」
「なんだ」
「この度の戦いが、そもそも、なぜ起こったのか、ということです」
それについて、ナナシが即座に答えた。
「ヤマトが、この地全体を大陸の魏国に売るつもりである、とイシに吹き込んだ者がおります。その者は、同じくそれを潔しとせぬ者の筆頭としてクナの名を挙げ、クナが後ろ楯になってくれると思ったイシは、ヤマトからの官吏を斬り、候を廃し、軍を上げたのです」
「なぜ、そうと分かるのです」
言われて、ナナシははたと動作を止めた。しばらく考え、
「何故でしょう」
と首を傾げた。自分で言っておきながら、全くその根拠が思い出せない。立ち上がり、外を見た。ナナシが部屋で、マナとして眺めていた同じ桜が、ここからも見えた。欄干に腕をかけ、もたれかかりながら振り返り、
「桜の精にでも、聞いたのでしょうか」
と笑った。眼だけではないマナの笑顔は、とても透明で、美しい。にっこり笑って、そう言っておけば、コウラは信じるだろう。
「ほう、さすがですね」
と、現に眼を丸くして、感心している。
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