第四章 産み火
距離
ヤマトは奇跡としか言いようのない、たまたま起きた蝕という事象によりクナを退けることができ、彼らはオオシマをその勢力下に納めて海路を確保した。
これにより大陸への航路のほか、列島の東のクニグニへの使者も容易に出せるようになった。
しかし、ヤマトの者は皆、オオシマの制圧を、たまたまとは考えていなかった。
たまたま、サナが思い立ちオオシマに渡り、決戦が始まらんとしているまさにそのときにたまたま現れ、クナの兵達が放った矢がたまたま全て外れ、その時たまたま起きた皆既日食によって混乱したクナ兵がたまたま陣に再び火を灯したことで闇の中のヤマト兵からその正確な位置が判別でき、たまたまサナが携行を命じた千丁の連弩により壊滅的な打撃を与え、たまたまサナとクナのヒコミコが向かい合った際にも、激戦をたまたま生き延びたマヒロの登場により斬られずに済んだ。
こんなことが、あるだろうか。どれも夜空の星を指差すように頼りない偶然でありながら、それがこうも重なると、浮かぶ月を指し示すように確かな必然であるように思える。
サナは、渡るべくしてオオシマに渡り、蝕が起きるのを知っていたかのように準備をしており、勝つべくして勝った。
マヒロは、少なくともそう信じていた。
「弓を持て。狙え」
「決して、火を灯すな。闇でよい。恐れるな」
あのサナの言葉の数々が、何よりの証であると思った。
闇の中に響くサナの言葉、そして白い炎を湛えながらぽっかりと浮かぶ黒い太陽を背負うサナの陰影は、まさしく人でなはない何かのそれであった。
そのマヒロは、オオシマから付き従ってきた長の孫娘ハツミから、毎日傷の手当てを受けている。
「済まぬ」
薬草を塗り込めた布を貼り替えるハツミに、短くマヒロは言った。
マヒロにしてみれば、民は民として、生まれた土地で暮らすのがよいという思いは変わらぬながら、身の回りの世話をするこの明るい娘に、気を許すようにはなっていた。
そういえば、マヒロはそれができる立場にありながら、身辺に女性を全く近付けない。
サナ以外で親しくしている唯一の女性が、ハツミであった。
手当てがひとしきり終わった頃、マヒロとハツミは唇を重ねていた。
この習慣は、西洋からの輸入品であるように思われがちだが、太古の昔から人類にとって自然なコミュニケーションの方法として存在した。
この当時、何と名付けられていたのかは分からないが、例えば鎌倉、室町時代あたりには少なくとも「口吸い」などという妙になまなましい呼称で表現されていたことを示す記述がある。
ハツミの舌が、絡んでくる。
更にハツミの白くしなやかな手が、マヒロの
そこで、ハツミは、はね飛ばされた。
「やめろ」
「どうして」
「どうして?それはおれが聞きたい。どうして、こんなことを」
「マヒロ様の、妻になりとうございます」
「妻は、いらぬ」
「なぜ」
どうして、なぜ、が多いのはハツミが健康な女性としての精神構造を持っていることの証明であるかもしれない。
「ヒメミコが、夫も子も要らぬと言うからだ」
それでハツミは、マヒロの全宇宙の構造を知った。ただマヒロの宇宙には、武があり、ヤマトがあり、サナがいるだけだった。
それを、ハツミは雷に打たれたような衝撃とともに感じた。
「わたしは、マヒロ様の、その透き通ったお心も、美しいお顔も、逞しい身体も、真っ黒な髪の一本までも好いておりますのに」
と、涙を浮かべた。
「美しくなどない」
マヒロはしっかりとした男性的な稜線をもつ顎から生える髭を撫でた。
「この身体にも、この髭にも、おれの心にも、全て、ヤマトに仇なす者の血が染み込んでいる」
黒い瞳は、何かを思い出すように左右にやや揺れ、
「今もおれの手には、あの日の感触が——」
と言いかけ、やめた。
一方、リュウキの居室では。
部屋の主の他に、相変わらず大陸の言葉を学ぼうとするナシメと、
若葉の匂いを含んだ風が室内に吹き込んでくる。オオシマの風とは違う匂いであった。
「うむ、ほとんど大陸の言葉はできるようになったではないか。ナシメは覚えが良いな」
リュウキは、ハクラビに向け言った。
「ナシメは、様々なことを覚え、ヤマトのために尽くそうとしているそうです」
ナシメと仲の良いらしいハクラビが、訥々と語る。ハクラビが丁寧に手入れをしているのは、リュウキの剣である。
先日のオオシマでの戦いの際、サナがクナのヒコミコと向かい合っているとき、一歩も踏み出せなかった自分を恥じ、剣ぐらいはせめて使えるようにならねば、と思い立ち、このところ研鑽を重ねているところであった。
リュウキがあのとき動けなかったのは、恐れからではない。
気を飲まれてしまった、というのも無いではないが、全く武術の心得のない自分が、火の神を宿すと人に言われるクナのヒコミコに立ち向かってゆくことの無意味を知っており、その無意味を嫌う、というごく柔らかで合理的な思考に基づき、身を呈してサナの前に立ちはだかるより、己が死すことでヤマトにもたらす不利益を避ける、という曲線的行動を取ったに過ぎない。
武術の心得があるハクラビがあのとき動かなかったのは、主であるリュウキが動こうとしなかったからか。主であるリュウキが、サナの前に己の命を投げ出すようなことをすれば、ハクラビは迷うことなくその更に前に立ちはだかったかもしれない。
手入れの終わった剣を、リュウキは受け取った。もともと鍛治が盛んであったオオトの地でも評判の職人に打たせたもので、青く透き通るような光を放っている。
「その剣で、わたしを守ってくださるのですね」
トミが、冗談めかしく言った。
「もしヒメミコの前に、ヒメミコを害する者が立ったなら、そうしましょう」
と笑い、室外に出た。縁から地面に降りると、屋根から張り出した
——あのお方こそが、ヤマトなのだ。
その楼閣に向け、青い光を放つ剣を捧げるようにして
あれから、リュウキとトミの間柄はいっこうに進展していない。
どうやらリュウキもトミを好いているらしいが、妻にするとかそういったことには発展しない。
リュウキの軍師としての心の
「剣を用いるときは、もっと、こう」
ハクラビが猫科の動物のような肉体を輝かせ、腰を落とし剣を振る仕草をした。
「こうか」
「そうです」
「だんだん、分かってきたかもしれない」
では、とハクラビが持ってきた木の板に向け、リュウキは剣を振り下ろした。
しかしその剣は、情けない音を立て弾き返された。
リュウキ自身を含め皆、苦笑した。
「板を斬るときは、刃筋を木の目に沿わせなければなりません。木の目に逆らえば、斬れません」
ハクラビは、剣を持たず、剣を持っているときと同じ構えを取ってみせた。
その手を一度振ると、木の板が二つに斬れた。
どのようなこつがあるのか分からないが、このハクラビの拳撃を食らえばひとたまりもないであろう。
リュウキは以前、ハクラビが賊の一人の腹に触れただけのように見えたのに、その賊が死んだことを思い出し、ぞっとした。
「世の中には、
と詠嘆する。
「リュウキ様の知も、誰にも真似のできぬ業でしょう」
トミが明るく言った。
剣を振ると、肩に常にのしかかっている重圧が、いくらか軽くなることに、このところ気付いた。それを両断できるようになれば、このヒメミコと結ばれることもあるのだろうか。
クナのヒコミコは、快速を誇る自慢の船の上で、潮風を浴びていた。若葉の季節とはいえ、晴れた日の日差しは夏のそれと変わらない。
余談であるが、この時代はこんにちよりも地球的な規模でやや冷涼であった。真夏でもむせ返るような暑さになることは今ほど多くなく、冬は今よりも寒かったらしい。そのため海岸線も現代のそれよりもやや張り出していたという。
とはいえ、海面からの照り返しを浴びればやはり暑い。ヒコミコはそれをも喜んでいるようであった。
軍船であるから、甲板には小屋のような構造物がある。その庇の下で日光を避けながら、ヒコミコに語りかけるものがあった。
「この度の戦い、まさかあのようなことが起きるとは」
老軍師ユンである。
どうしたことか、あの矢の雨の中でも、この両生類のような印象を人にもたらす老人は生き延びた。
ヒコミコが僅かな供を連れて逃げ、船に乗り込もうとしたとき、ひょっこりと現れ、ほう、ほう、と言いながら、当たり前のように便乗してきたのだ。
「オオシマを奪われ、逃げ帰る我らは僅か六名。完膚なきまでにやられましたな」
と南方民族の遺伝形質を濃く持つ縮れ毛のセイが、無表情で言う。
「こうまで負けると、気持ちが良いわい」
ヒコミコは、意にも介していないようである。
この西の王は、敵と見るや民、兵の区別なくことごとく皆殺しにし、火の神を自称するに相応しい軍事の才能と武勇を持ち、腹に据えかねるようなことがあれば、ときに側近でも斬るような気性の激しい男であったが、存外割り切りのはっきりした、爽やかな性格を持ち合わせているのかもしれない。
「あのヒメミコめ、陽を操りおった」
「蝕は想定の外であったとしても、あのマヒロという将がおらねば、我らが到着したその日に戦いは終わっていたものを」
ユンが悔しそうにした。
「しかし、ヒメミコは陽の神を宿して闇を作り、マヒロは神武をもって我らを阻んだ。これは動かし難い事実ですよ」
セイが淡々と言う。
「やはりヤマトには、人が揃っております。調べるところによると、やはり戦いの仕方にはリュウキという、私と同じ故地を持つ者が付いておるようです」
「そうか」
ヒコミコは興味無さげに相づちをうった。
「人を、削らねばなりません——」
ユンが粘り気の強い眼光で、ヤマトがあるであろう背後を振り返っている。
帰国した一行は、早急に軍を立て直すことに着手し、ヤマトと地続きになっている大地と海を挟み向かいに存在する、比較的大きな島の切り取りの完遂に着手した。
彼らの本国である
まずは南部に上陸し、攻め立てた。
南半分は複数のクニに分かれていたが、例のごとく侵略者に対し連合し、抵抗をしてきた。
クナとヤマトは互いを隔てる距離があるからこそぶつかり、離れを繰り返し、一度その力を削られても回復する余裕があった。
これが例えば隣国や、ごく近しい場所にあるクニ同士であれば、以前のヤマトとオオトの戦いのように瞬時にして決着が付いたであろう。
全ては、距離がゆえである。
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