葛藤

 タクは、葛藤の中にいた。

 イヨを膝に抱き、思案している。

「父様?」

 イヨが、その顔を覗き込む。春の夕暮れの光に照らされた愛しい娘の澄んだ瞳に、タクの思考は中断を余儀なくされた。

「すまん、何だったかな」

 タクの座っていても他の者よりも長い身体が折れ曲がる。

「だから、こんなに大きな蝶々がいたのよ」

 と、イヨはタクの腕の中で手振りをしてみせた。

「そうか、それは大きいな」

 タクは、微笑んでやった。大きいといえば、イヨは、大人の膝の中に納まるには大きくなりすぎていた。

 まだ幼いとはいえ、すっかり仕草も大人びており、時の経過の早さを思わずにいられない。

「それでね、その蝶々をコウラに捕まえるよう言ったのに、コウラったら、逃がしてしまったのよ」

 と膨れてみせた。

 イヨには、イヨの生まれる三年ほど前に生まれたコウラという子が、世話役として付けられている。ユウリの孫である。祖父に似た太い眉と、凛々しく吊り上がった眼を持っていた。まだ童であるが無駄口をきかず、黙々とイヨの言いつける無茶を叶えている。

 タクは、この自分の膝の上にいる蝶々がいずれヤマトをその手にするかもしれぬのだと思うと、興奮を禁じ得なかった。

 サナとマヒロの間には、未だ子はない。

 タクは、まだサナを想っていた。一目見たあのときから、ずっと。

 伏戸の中でマオカを抱くときも、その顔や身体の一部でも、サナに似ている場所はないかと探した。

 しかし、タクの美しい妻の持つ切れ長の瞳も、細身ですらりとした白い手足も、全てがサナとは違った。

 その苛立ちを鎮めるかのように、抱くときはおとなしいマオカが喜悦の泣き声を上げてもなお止めず、徹底的に抱いた。そして興奮が絶頂に達するとき、サナが十五のあの夜にタクが覚えた充足に似たものを僅かに感じるのだった。

 

 タクは、ヤマトが欲しかった。いや、サナが欲しかった。それが叶わぬと悟ったある日、別のことを思い付いた。サナの妹をめとり、子を産ませ、その子にヤマトを継がせることである。

 サナがタクとすれ違い、タクの笑顔を恐れた顔をしたときに、タクの脳内にその考えが芽生えた。サナはどうやら、その目論見を知っているらしく、マオカが身ごもったらしいことが分かったとき、無造作にその子にヤマトをくれてやるようなことを言い、なおかつタクには重要な拠点であるオオトを治めるよう命じた。

「ここで子を産み、育てよ」

 という一言には、言葉以上の意味があることをタクもマオカも、そしてサナ自身も知っていた。

 マオカなどは、あの得体の知れぬ千里眼を持ち、心の中まで無造作に手を差し入れて勝手にかき混ぜてくるような姉を心底恐れていたし、タクもまたそうであった。今でも戯れにそう呼ばれることがあるが、

「そなたは、蛇じゃの」

 と言われたときは、背筋が凍ったものである。

 タクにしてみれば、サナが全てを見通し、自らを猜疑の目でしか見ぬあの狂犬――とタクは思っていた――のようなマヒロが、タクやマオカの一挙手一投足を探り、非違があれば即座に斬るというような重圧をかけており、そのうえで、表面上は友好的に振る舞い、かつヤマトにとって無くてはならぬ者として自分を重用して重要な拠点を任せ、かつその子に国をくれてやると言うのは、己の全てを封殺され、奪われたような感覚に似ていた。

 タクは、葛藤の中にいる。

 外交の頭として国内外のあらゆる交渉や交易、戦の始末などに己の才を発揮するのが楽しいのは、確かである。それでヤマトを富ませ、我が娘に良い形で王位を継がせてやりたい、とも思う。そのためマヒロや、リュウキなどという大陸渡来のわけのわからぬ者の言うこともよく汲んでやったし、サナをたすけ、その事業を完遂させてやりたい、と心底思っている。

 しかし、それでも満ち足りぬのは、やはり、サナが己のものにならぬと知っているからか。

 あの丸い二重の瞳。神々しい光を宿す長い睫毛。薄く伸びて口角が少し上がった桃色の唇。みじかい指や小さな足の裏が立てるぱたぱたという無遠慮な足音までも、我が物にしたいという想いは消えていない。

 その黒い火は、タクの中で、日を追うごとに強くなっていた。

 以前ほど頻繁にはサナを見ることはなくなっていたが、だから尚更、サナが歳を取らぬことに鮮やかな驚きを覚える。

 多くの神宿しの者が一様に、サナのように小柄で、歳を取らぬという。

 タクにとってのサナは、まさしく神であり精霊であった。

 タクは、サナが欲しかった。

 だから、己に課せられた宿命と、ヤマトを守り育てたい、という意思の間で揺れた。

「さあ、夕餉ゆうげの時間だ。その前に、私は少し仕事がある」

 とイヨに言い聞かせ、部屋を後にした。そのまま、オオトの楼閣の中の、飯を炊く係の老人を訪ねた。

「手配は、整ってございます」

「わかった。大陸への使節の話も、進めていると伝えろ」

 どうやら、老人は何者かの連絡を受け、その者とタクとの間の伝達役のような役目を担っているようであった。


 暫くした後。

 オオトのタクから、山を越え、ヤマトへ使いがもたらされた。

 オオシマを我が物としたが、その向こうの島がクナの手にちた。海運にやや不安はあるものの、南周りの航路をもって政情の安定せぬ遼東リャオトンを経由せぬ道で大陸へ渡ることが可能であるため、再び使節を派遣し、ヤマトがクナを大きく後退させたことの報告と、正式な王の証を得ることをしたいというものである。

 サナは無論、許可した。更に使いは、その人員まで指定してきた。

 使節の代表は、リュウキの部屋に入り浸り、大陸の言葉を完全に使いこなすナシメ。ただ大陸への使節は初めてのことであるためやはり不安があるということで、その言葉の師であり自らの故地でもあり道程に精通しているリュウキを付けて欲しい、と言う。その他細かな人の割り振りを指定して来て、そのどれもが、至極納得のゆく人選であるため、

「任せた。良きようにせよ、と伝えよ」

 と使いに申し渡した。


 大陸に渡る夥しい量の財物と、それを輸送するための人員と、それを積載する車や船がオオトの浦に手配された。ヤマトの本土からよく整備された山道を一つ越えるだけなので、楽であった。

 タク自身は渡海せず残るらしく、出発までの手配一切を指揮し、忙しそうであったが、やはり彼の無駄のない働きにより、すぐにそれは終わり、船団は進発した。

 進発した船団は、この島国の縁に添うようにしてはじめ西へ。次に、北へ。クナの本国をかすめるようにして進み、外洋に接するマツラという地域からイトという島、そしてイキという丸い山が島そのものになったような島から、ツシマというやや大きな島に渡る。これらはことごとくクナの領土あるいはその傘下にあるクニであったが、イト、イキそしてツシマといったクニなどは本土ほど殺伐とはしておらず、クナの船でないと通行を許さない、というようなことはないし、代価を払えば食料や水などの補給も受けられた。

 そしてツシマから海を渡れば、いよいよ大陸である。クヤと呼ばれる地に船を付け、突き出た半島沿いに北に北に進み、弧を描くようにして進路を西に、そして南に取ると、黄河の河口である。

 ここまでで大型船で三十日から四十日程度の日程である。

 黄河を船で遡ると、数日で魏の都に着く。それは絢爛豪華で、それを初めて見る者も多い一行は、ただ目を白黒させるばかりであった。

 柔らかで鈍い自然色ばかりの彼らの国とは違い、この国の鮮やかさはどうであろう。

 人々の着物や建物などは何でもってして着色されたのか分からぬような不思議な色彩を持ち――といっても後代の、例えば随や唐などの時代に比べれば鮮やかさはさほどでもないが――、どちらを向いても、見たことのない食物や植物、動物に満ち溢れていた。

 この都の人々は、時おり大量の財物を持ちやってくる遥か東方の蛮族について、好意的であった。

 ナシメとリュウキが王宮の取次に、来訪の意を告げる。

 待ち合う者を通すための建物だけでも、ヤマトの王の居館そのものほどの敷地があり、高い天井には、竜や星座の絵などが描かれていた。

 長い間待たされ、ようやく一行は王宮に案内された。内門をくぐるとき、剣を預ける。王宮内にも控えの間というものがあり、多くの者がそこに収容された。

 ナシメとリュウキほか五名が、謁見の間に通された。

 無論、帝は一言も発しないし、頭を地に擦り付けていなければいけないので、その姿を見ることも出来ず、仮に帝が実は出座しておらず、荘厳な音楽と有り難みのある大音声のみであったとしても気づかぬであろう。

 事前に提出した献上品の目録と、あいさつの言辞を、取次役の者が読み上げ、帝の言葉であるとされる言葉を取次役の者がまた言う。

 この荘厳な場において声を発しているのは彼一人であったため、滑稽な図である。ナシメは勿論、リュウキも王宮に足を踏み入れたことなどないから、やはり緊張は甚だしい。

 

 大変な一日が、終わった。

 指定された宿で食事を済ませると、各々部屋に引き取った。

 同じ姿勢ばかりしていたため、身体が異様に凝っている。リュウキの背に、ハクラビの文身いれずみを施した腕が入っている。

 打撃の技を磨いているからか、腰などを揉ませると異様に上手い。

「ハクラビよ。もっと揉んでくれ」

「いけません、これ以上は、かえってよくありません」

「今日は特に疲れたのだ。頼む」

「いけません」

 と言って、ハクラビはリュウキの背をどんと突いた。

 リュウキは一瞬、腹がひっくり返ったような衝撃を受けたが、すぐに眠くなり、眼を閉じた。

 あとは、ヤマトに帰るのみである。

 リュウキは、こここそが彼の故地であるにも関わらず、ヤマトにと思っていた。

 大して長い期間離れているわけではないのに、あの国の淡い色彩が、静かな音が、温厚な人々が、長く母音を引く言語が、そして美しいトミが恋しかった。

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