最終章 女王の名

女王の名

 マヒロは、駆けた。その駆けるところ、敵の首が、血が、激しく飛んだ。黒雷以外の馬で戦うのは、初めてである。もう、息があがってきているらしい。

 その栗毛の馬が、敵の矛にかかり、倒れた。マヒロは飛び降りると、群がり集まる敵の中で、左右の剣を一閃させた。

 敵が吹き飛ばされ、空間ができた。そこに、足を踏み入れた。

「なんだ。こいつ。よく見れば、死にかけているじゃないか」

 一人が、マヒロの出血の夥しいこと、その様子の尋常でないことを見て言った。


 マヒロは、ただ歩いた。

 言った者が、死骸になっていた。また、歩く。正面から突きかかってきた者の矛が、肩に食い込んだ。

 その刃の付け根を、掴み、押した。刃が抜けるが、血は僅かしか出てこない。

 押された敵が、転んだ。

 その者も、死んだ。

 両脇から、来る。

 僅かに身を捻った。

 一人は頭蓋を薙ぎ払われ、もう一人は喉から血と息を吹き出して、死んだ。

 マヒロは、敵を見てすらいない。

 ただ、楼閣を見ていた。


「ここで踏ん張れ!倒せ!」

 コウラが引き連れる兵は、もう二百ほどにまで減っている。連弩の矢も、体力も、とうに尽きている。この最後の防衛戦で、一人残らず死ぬのだろう。ならば、自らの屍でもってこの楼閣を塞ぎ、敵が入れぬようにするのみであった。

 コウラは、馬で味方の、ときに敵の中を駆け、必死で戦った。

 コウラが振るうマヒロの矛に当たった者は、吹き飛んだ。運が悪ければ首から上が弾け飛ぶし、運が良くても骨を粉微塵に砕かれ、二度と起き上がれなくなる。

「ここで踏ん張れ!倒せ!」

 そのとき、鼠のように群がる敵の群れの向こうで、何かが弾けた。

 いや、人が飛んでいるのだ。

 コウラは、何が起こったのか分からない。

 この戦いは、徹頭徹尾、分からないことばかりで、笑いたくなる気持ちだった。

 それが、こちらに近づいてくる。

 首が、腕が、武器が、空を飛んでいる。

 こちらに押してくる敵も、だんだんと後ろの異変に気付きだして、その動作をやめ、振り返った。

 夕暮れの静寂の中、鉄の鳴る音と、断末魔が取って付けたように響く。

「——マヒロだ」

 誰かが、呟いた。

「——神殺しが、来た」

 コウラは、それが空耳でないことを祈った。いや、あの旋風を巻き起こせるのは、マヒロの他にいるはずもない。

 汗なのか、涙なのか、血なのか、何か分からぬ液体が顎を伝い、落ちた。

 旋風が、ゆっくりと近づいてくる。歩くような早さで。


 もう、すぐそこまで来ている。誰も、動けぬ。

 コウラの眼の前の敵の、すぐ向こうの空間が、消し飛んだ。

 敵の身体の隙間、その向こうの血飛沫の中から、自らも血まみれで、甲冑も身につけず、身を低くして斬撃を繰り出すマヒロを見た。その姿は、今まで見たものの中で、最も凄惨で、最も重厚で、最も美しかった。

 ──あれは、もしかすると、神か?

 足が思うように屈伸できぬのか、鳥の姿勢を取るたびに、マヒロは膝を地に力なく付けている。しかし、翼を閉じるのを誰も見ることはできない。ただ、鎧の斬れる甲高い音と、悲鳴と血で、マヒロが剣を振ったことが分かる。

 コウラの眼の前の敵が、その神そのものとなったマヒロに向かい合った。腰は引け、震えているようだった。そのままの姿勢で、矛を突き出す。

 矛ごと、その者の腕が飛んだ。

 赤い光が、二筋。

 脇腹を串刺しにしたマヒロの剣が体内で交差し、背中から飛び出てくるのが、ほんの一瞬、見えた。

 その死骸が崩れると、マヒロはコウラの前に立った。

「マヒロ様」

 コウラは馬を降り、それをのみ、言った。マヒロは、コウラの肩に手をかけた。なにか言おうとする。

 コウラの視線が、今まさに落ちてゆく陽の方に向いた。

 騎馬隊。先頭にいるのは、クシム。隣には遅れて発し、合流したらしいタクらしき軍装の者もいる。

 あれが、こちらに来た時、全てが終わる。そうコウラは確信した。


 日没。世界は急速に、青く、くらくなってゆく。

 ——決して、火を灯すな。闇でよい。恐れるな。

 マヒロが、呟いた。コウラには、何のことか分からない。

「貸せ」

 マヒロは、コウラの馬から弓を外し、その背から、最後の矢を抜いた。

「闇でよい。恐れるな」

 マヒロの声に、力がこもった。陽は落ちたのに、その目には、赤い光がまだ残っていた。

 それが、マヒロのいのちの燠火おきびであることを、コウラは知ってしまった。

 弓が、弧を描く。

 クシムか、タクか。

 それとも、ヤマトそのものか。

 この一矢で、決まる。

 これまでも、これからも、いつも変わらず、確かに存在する明日という日を生きる者が決まる。

 陽が落ちたということは、また昇るということである。だからこそ、マヒロは今、満身の傷の中で、確かな確信をもってそれを言葉にすることができたのだ。

 闇でよい。恐れるな。


 強く、耳が潰れるほどの音が鳴った。

 マヒロの弓が、折れた。しかし、矢は放たれた。

 熊蜂の羽音のような低い独特の風切音が馬蹄の音の方へと向かってゆき、溶けた。

 ぱっと首が飛び、それに従うようにして馬蹄の轟きが緩くなり、止まった。


 マヒロは、折れた弓を捨て、歩いた。

 彼が、最も求める人のいる所へ。

 彼を、最も求める人のいる所へ。

 自らの、あるべき場所へ。

 その、長い長い戦いを終わらせるために。

 クシムとタクのどちらを討ったのか、暗くてよく分からぬ。しかし、馬蹄の響きが再開した。どちらかは、生きているということだ。

 楼閣の周りには火が焚かれ、明るい。コウラらは、舞台の上の役者のように、宵闇の中に照らし出されている。

 そして、明星が、自らが孤独であるということを知らぬ様子で光っている。


 コウラは、戦うのをやめることはできない。

 彼が好きなマヒロが、その役目を終えるまで。

 彼を好きなマヒロに、その役目を終えさせてやるまで。


 慣れた手触りの壁。踏み慣れた床。この板だけ、緩いのだ。とマヒロは、くつで床板を踏みながら、思った。

 もう、きざはしを昇る力もない。

 広間に座り込み、マヒロは待った。サナがいつもそうしているように、足を投げ出し、明滅する火を見ている。

 少し待つと、マヒロが来るのを知っていたかのように、一人の女が降りてきた。

 いや、一人の女として、サナは降りてきた。

「マヒロ」

 駆け寄り、抱き締める。抱き締めたとき、サナは、マヒロの身体から、もうとっくに命など抜け落ちてしまっていることを知った。

「ヒメミコ」

 マヒロの声は、耳を澄ましてやっと聞こえるほど、小さい。

 外では、まだ戦いの音がしている。コウラが死力を尽くしてここを守っているのだろう。

「この戦いを、終わらせる」

 サナは、マヒロの口に耳を押し当てるようにして聞いた。死ぬな、とは言えなかった。マヒロは、今、死のうとしているのだから。

「手ひどく、やられてしまった」

 マヒロが、腕を持ち上げた。その固く握りしめられた指を、一本ずつ剥がすようにして、サナはマヒロの手から剣をそっと抜き取った。

 ずっとマヒロが、サナを守るために振るってきた、粗末な剣。それを、サナは、静かに脇に置いた。もう、マヒロに剣はいらぬ。

 その代わりに、自らの手を握らせてやった。これが、マヒロにとって最も必要なものであるから。

「おれは、生きた」

 サナは、頷いた。

「ヤマトとともに、ヒメミコとともに、生きた」

「毎日、毎日、ただ明日を繋ぐため、生きてきた」

 サナは、頷いてやった。マヒロには、それが見えているかどうか分からぬ。

「今、おれたちの明日は、別の者が継いだ」

 焚かれた火が、一度、ぱちりとぜた。

「その者が、明日を、紡いでくれることを、願おう」

 マヒロの手に、ほんの僅かに力が込められた。

「マヒロ」

 サナは、強く言った。この表情を、何と表現したらよいのか、筆者には分からぬ。

 少し、沈黙。ぱっと顔を上げたサナは、みずみずしい果実のように言った。


「わたしの名は、サナという」


 誰も知る者のない女王の名を、マヒロは、サナの耳元で、一度だけ呼んだ。そして、死んだ。


 サナは、しばらくその手を握っていた。もはや、それはマヒロではなくなっていた。

 それでも、サナは、その手を握っていた。もう片方の小さな、白く柔らかい手で、マヒロの額を優しく撫で、語りかけた。

 これ以上、二人の間にどのような言葉があったのか、もはや描くまい。

 いや、誰にも、この二人のそれを描くことなどできぬ。

 それが終わると、サナはマヒロの側から離れ、火の方へと向かって行った。ゆっくりと、その熱を確かめるように。

 右手には、マヒロの手にあった剣が握られている。

 それが、焚かれている火を薙ぎ払った。散らばった火が、床にゆっくりと広がってゆく。その剣が、いや、マヒロがその剣に与えた役目が終わったことを確信し、その鉄の塊を無造作に放り捨てた。

 炎の中、サナは、またマヒロの隣に戻った。そして、また手をそっと握った。足は投げ出して。

 マヒロの寝顔が、炎に揺れている。サナは、優しく、やさしく、とてもやさしく微笑んだ。

 心中、何を思ったか、分からない。しかし、こうして、ヤマトのヒメミコは、マヒロと二人、誰も知ることのなかったその名と共に、火の中に消えた。

 

 サナは、知っていた。ひょっとすると、生まれたその日から。

 マヒロと共に生きるということは、マヒロと共に死ぬということでもあることを。

 火の中にヤマトが生まれ、そしてまた火の中に還ってゆくことを。

 それでも、明日は続いてゆくということを。

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