一方、クナの陣は。

 突然の蝕によって天地がひっくり返ったほどに兵は驚き、その恐怖のあまり、闇の中で同士討ちを始める者も出ていた。

「静まれ、静まれ!」

 総指揮を任されたテツモリが必死に呼ばわっているが、喚声にかき消された。

「火を、火を――」

 と、ヒコミコの安全のために、脇に設置されたかがりに火を灯した。

「灯すな――」

 というユンの叫びと、喚声に混じって遠くで、

 ぱん。

 という音が響くのとが、同時であった。

 次の瞬間、猛烈な唸りを上げる飛来物が、その灯を打ち砕いた。

 火の粉を被り、テツモリは叫びながら後ずさった。

 足元に散らばった残り火が、ささやかに周囲を橙に染めている。

 もう一度、あの音がした。

 ――ぱん。

 そして、鈍い風切音。

 散らばった残り火に薄く浮かび上がるテツモリの首から上が、卵のように飛び散った。

 その飛来物は、それでもなお運動を止めず、テツモリの後ろにいた者を吹き飛ばし、再び闇の中に消えた。


 あたった。

 とマヒロは確信を持った。

 脇で、サナの声が聞こえた。

「決して、火を灯すな。闇でよい。恐れるな」

 闇に響くそれは不思議な浸透圧でもって兵の間に染み込んでゆき、兵は落ち着きを取り戻した。


 東の空を背にしているサナの頭部に被さって周囲に白い炎を纏った太陽が、板に開けられた穴のように、ぽっかりと浮かんでいた。

 サナの姿は、その輪郭だけを僅かに闇に浮かべているに過ぎない。

 しかしそれを仰ぎ見る兵は、確かにそこにヒメミコサナがいることを思った。

「連弩、用意」

 サナの声が、こだまのように響く。

 そうすると、クナの陣のあちこちに、火が灯った。

 闇を恐れる者共が、勝手に篝に火を点けているらしかった。

「放て」

 サナが引き連れて来た千人の兵は、一斉に肩からげた連弩を構え、そのハンドルを力の限り回した。

 闇の中を、短い矢特有の甲高い音が通る。

 無数のそれは、稲を食い荒らすいなごの大群の羽音のような唸りに変わり、クナの陣に向かっていった。

 その蝗が、みるみるうちにクナの者の、いのちを食い荒らしてゆく。

「弓を持つ者は、矢を全て放て。絶やすな」

 ふたたび、サナの声。


 マヒロも長弓を撃った。

 撃ちまくった。

「次の矢箱」

 闇の中で短い矢が詰まっていた箱を打ち捨て、次の箱を装填する音が一斉に響いた。

「放て」

 再び、蝗の群れがクナの者共のいのちに向かってゆく。

「次の矢箱」

「放て」

 クナの陣の頭上に、三万本を越える矢が降り注いだことになる。

 静寂。

「行け、我が兵たちよ」

 サナの一声が、兵を盛りのついた獣のようにした。それが、闇の中、敵陣に焚かれる篝火目掛けて一斉に突進してゆく。

 マヒロも、黒雷で駈けた。

 炎に揺れながら動く敵のうち、手の届く者は全て斬った。黒雷が駆けにくそうにしているのは、夥しい敵の屍のせいか。


 ユウリも、徒歩かちで駈けている。火から火へと飛び違え飛び違えし、剣を振るいに振るった。

 ユウリの剣にかかった者は一様に、ばちゃり。と奇怪な音を立てて転がる。一歩ごとに、びちゃびちゃと水の音がするのは、敵の流した血が大地に溜まっているからか。

 リュウキはサナの脇近くに控え、動く者のめっきり少なくなったクナの陣で行われているを、ただ呆然と見ていた。


 サナの頭の後ろで白い炎を湛えている穴が、欠けてゆく。

 欠ければ欠けるほど、闇が払われてゆく。いつの間にか、蝕は終わろうとしていた。それほどまでの時間、ヤマトは闇の中で暴れ狂った。

 薄くなってゆく闇でサナが見たのは、敵の陣に塁々と積み重なる土袋のような死骸と、そこでなお暴れまわるヤマトの兵であった。

 サナの周りには、リュウキほか僅かな者しか残っていない。

 ふと、クナの陣の方からこちらに駆けてくる数騎の騎馬を見た。

 マヒロか、と思ったが、違う。

 そのマヒロは、明るさを取り戻した世界に眩しさを覚えながら、ヒコミコがおらぬ、と思った。

 この死体の山の中のどれかに、それがあるのか。

 マヒロは、そうではないと考えていた。

 ユウリと、行き合った。

「クナのヒコミコは、おりませんか」

「それらしき者は、見ておらんぞ」

 振り返る。

 遠く、サナの乗る輿に向かってゆく騎馬をマヒロも見た。

 咄嗟に、黒雷の首を回した。

 駆ける。

 全速力。

 その騎馬の一団――わずか五騎――は、サナの方にゆっくりと近付いていた。

 サナは、既にそれが何者であるのか察しており、輿から降りた。


「見事、ヤマトのヒメミコよ」

 と近付いてくるのが、そうであった。

「クナのヒコミコよ。軍を退け」

「その軍は、ここにはもう無い」

 クナのヒコミコらも、礼に倣って下馬した。

「たしかに。我らの放ったいなごのごとき矢の雨に打たれ、死んだな」

 サナは、背の高いヒコミコを見上げた。

くだれ。クナのヒコミコよ」

「馬鹿な。ならば、ここで死のう」

 不敵に笑い、矛をゆっくりと構えた。

 リュウキは気を完全に飲まれ、硬直してしまい、動けない。たとえ動けたとしても、彼の武術の腕では焼け石に水である。

「この戦い、我らが負けても、お前を討てば、勝ちだ」

 惜しむように、矛を振り上げた。

「ヒメミコ!」

 マヒロの声が、追い付いた。

 黒雷の鞍から跳び、着地と同時にヒコミコの矛を剣で弾いた。

「マヒロか。お前が来た以上、このヒメミコを討つことは叶わん。この戦、俺たちの負けである」

 と言い、ヒコミコは矛を地に突き立てた。

「降れ、クナのヒコミコ」

「それより」

 ヒコミコはサナを見、

「お前、いい女だな」

 と突拍子もないことを言い出した。

「――なにを」

「俺の女になれ」

 ずい、と歩を進め、サナの小柄な割によく実った乳房に触れた。

 同時に、ヒコミコの首筋に冷たい光が走った。マヒロである。

「手を引け。斬るぞ」

「斬れ。お前も死に、お前のヒメミコも死ぬ」

 マヒロの首筋にも、例の縮れ毛の男により斜め下から突き出された剣があてがわれていた。

 マヒロは、剣を引いた。

 同時に喉笛に強烈な打撃を縮れ毛から食らい、うずくまった。息ができない。

「この戦いは俺達の負けだが、クナはヤマトには降らぬ」

 サナは答えない。ただ、ヒコミコを見ていた。

「覚えておけ。いずれ、クナの火がお前達を焼き尽くすだろう」

 ヒコミコらは再び乗馬し、去った。

「ヒメミコ」

「マヒロ、大事はないか」

 いつものサナだった。しかし、先程までのサナは、神を宿すどころか、神そのものではなかったか。


 陽の神。

 後年になってから、先に述べた「卑弥呼」の意味に、「姫命ヒメミコ」の音写である説のほかに、「巫女みこ御子みこ」とする説と――他にも様々な説があるが――が囁かれるが、どうやらそのどちらも正しいらしい。


「マヒロ」

 陽の巫女は、その視線を向けた。

「大儀であったな」

 笑うと、ぱっと陽が差したようになるのは、昔から変わらない。

「クナのヒコミコを、討てませんでした」

「よい」

 という言葉に続け、

「お前が、無事であったのだから」

 などとは言わない。その代わり、

「いずれ、国ごと飲み込んでやるわい」

 と笑った。

「蝗は、米は食らうが獣は食わぬ。獣が一匹逃げたが、田は我らが刈り取った。とりあえずはそれで良い」

 マヒロは、答える代わりに、地に突き立てられたままのクナのヒコミコの矛に向け剣を一閃させた。

 鉄の柄が、斬れて落ちた。

 今さらのように、矢傷が痛んだ。


 夥しいまでのクナの兵の屍の群れは、戦闘が行われたその平原に掘られた大きな穴に埋められた。

 その一部始終を見守るマヒロの脇に、涌いて出たように、ハツミが寄り添っていた。

「お前、ムラに帰れ」

「親もなく祖父もなく、帰るところがありません」

「長の孫だろう。ムラの者が、面倒を見てくれるはずだ」

「いいえ、マヒロ様と共に、ヤマトにゆきます」

「馬鹿な」

 サナが、二人を面白そうに代わる代わる見、

「よいではないか。連れ帰ってやれ」

 と笑った。

 奪取したオオシマを維持するための仕置きについて、マヒロはリュウキといくつかの相談をした。その結果、タクが、海を挟んで向かい合わせのこの地をオオトと共に治めることとなった。

 手の者に、ムラを回り、この地をヤマトが治めることとなったことと、これまでの安寧な生活は保証することを触れ回させ、タク自らは、サナらと共にヤマトの地へ帰った。

「船は、初めてか」

 ぴったりと寄り添うハツミに、マヒロは訊いてやった。

「オオシマで暮らしていたのですよ。初めてなものですか」

「そうか」

「ええ」

「お前」

「ハツミです。いい加減覚えて下さい」

「ハツミ」

「はい」

 笑った。笑うと、白い歯がちらりと見えた。

「離れろ」

 マヒロは、首を少し左右に揺らしながら潮風に吹かれるサナの後姿を見たまま言った。

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