死なぬための戦い

 マナは、マヒロによく仕えた。もう、季節は春になっている。草木は芽吹き、獣もその命を次代に伝えようとする季節であるが、マヒロとマナの間に、男女の関係はない。マヒロと二人のときは頭巾と覆面は外していたが、マナは、マヒロに、「ナナシ」としか呼ばれない。その真名を最も呼んでほしいはずの男のため尽くし、その結果、真名を呼ばれず名無し、としか呼ばれない女の心境は筆者には分からない。

 あいかわらず、マヒロはサナの部屋にこまめに通っているが、その間マナはマヒロの衣服などを整え、終わると与えられた自室に戻ってゆく。そして翌朝、陽が同じ高さになる頃、マヒロの部屋を訪れるのである。身の周りの世話は自分でするので必要ないとマヒロに言われているが、それと分からぬようひっそりと部屋を片付けたりしている。


 サナの部屋でマヒロは、マナのことを話していた。

「なかなかに、よい眼を持っています」

「あれは、お前のためだけに尽くそうという者だ。マナの中にはヤマトも何もない」

「ナナシは」

 とマヒロは言い換えた。

「オオトが、このところ、なりを潜めていることを気にしています」

「タクのことか」

「はい」

「あれは、どうなのであろうな。果たしてこのままヤマトのため、生きてくれるのか」

「分かりません。おれには、今は極力、表立って行動をしないようにしているように思えます」

「マナが、そう言ったか」

「はい。も、そう言っております」

 タクの動きは、微妙である。あれから、全くと言っていいほど余計な動きをしていない。心を入れ換えたようにも思えるし、何かを待っているようにも思える。

 そんなとき、小さな事件があった。オオシマの北に面する、イシという地域が、クナに寝返った。もともとクナの領土との境の地域であり、なおかつ海上交通の要所であるオオシマとはごく細い海峡を挟んですぐ目の前であるから、そこには軍を厚く持たせてある。もともとのイシの軍と、他地域から混ぜ合わせるようにして投入した軍とで合わせて二千。それが、そのまま叛いた。ヤマトから派遣している官吏も、ヤマトに早くから忠誠を誓っている候も、斬られているらしい。その情報を、地理的に近いタクがもたらしてきた。無論、例によってタクは出戦しない。オオトの守りは最重要であり、留守にしている間に海からクナに攻められればたまったものではない。

 マヒロが、直属の軍を率いてゆく。軍をオオミ、カイの兄弟に分け与えたため、このときマヒロの兵総動員で三千。ヤマトの地の守りに千は残したいところであるから、それを考えるとやや心もとない数であるので、オオミに援軍を要請し、オオミがキヅの地の守りに半分の千を残し、千を率いてやってきた。さらに、ウマの地のタチナラにも兵を求めている。

 ウマへの援軍の要請は、マナの助言によるものである。

 それが戦いに参加してくれば、総勢で三千五百となり、まず危なげない戦いが出来ることであろう。使いがウマの地に到着し、軍を発し、駆け付けてくるまでどれだけ急いでも十五日はかかるであろう。

 それを見越して、マヒロは我が軍とオオミの軍三千を率いて、イシに向けてオオトの地を進発した。北上し、大きく湾曲した形の海ぞいに進み、そのまま西に進路を取れば三日ほどの行程である。

 軍を集め、支度をし、オオミを待ち、進発するまで十日。イシの地にたどり着いて十三日。その二日後にウマの軍が合流することになる。

 マヒロは、陸路、黒雷を歩ませている。

 右側には、いつもの通りコウラがいる。左側に従っているのは、白い衣服に頭巾、布で顔を隠したナナシ。馬に乗れるよう練習し、戦いは無理でも普通の進軍には従えるようになっている。

「ナナシ様。ウマは、間に合いますか」

 ナナシは、コウラに向かって小さく頷いた。コウラはナナシを、説明の通り大陸から来た新しい軍師と思っている。

「ウマの来る前に、戦いを片付けてしまいましょう。ウマの者ども、驚きますよ」

 ナナシは、覆面から出した眼を、少し細めた。笑っているらしい。

「夜営地までもう少しだ。後列のオオミに手配りの指示をしておけ」

「はい」


 物語の冒頭において、彼らの使用していた言語について、詳しいことがあまりに分からず、どのような母音、音節を用いていたのかすらはっきりとしないが、ここであまり現代様の言葉回しを用いるのがつまらないように思うため、これよりやや後の時代の、いわゆる時代劇調の言葉に置き換え表記していることについて触れた。今マヒロが歩ませている馬も、「ヒタグロシイカヅチ」などとせず、分かりやすく「黒雷」としたことも既に紹介した。

 ここでコウラの言う「はい」という返事も、今まで何度も登場してきたが、この時代にはない。「いいえ」は、その原型である「イナ」という倭語わごとして既にあったと思われる。

 はい、という返事は、意外に新しく、江戸時代の中頃か末にならないと登場しない。「拝」という字とその音がルーツとも、あるいはもっと新しい時代になってから、広東語で同じ意味を表す「ハイ」を輸入したともされる。それよりも古い、この同意を意味するコミュニケーションに不可欠な語は、「オウ」である。しかしオウ、も、「応」という漢語の音読みから来たと思われるから、漢字がこの国の言語に混じり合った後に生まれたものと思われる。

 現代語的訳を施さず、いまコウラが何と発音し、マヒロの指示への同意を示したのかは分からない。筆者はできるだけ時代の匂いを醸し出すため、言葉には注意してきた。たとえば、ハル、ナツ、アキ、フユはあっても、「春夏秋冬しゅんかしゅうとう」や「一年いちねん」は存在せぬ。よって「季節が一巡りした。」などと表現してきた。それにより計算された暦よりも――この時代にも暦はあったものと思われるが――、季節の移ろい、自然のはたらきの一部に溶け込んで、いや、それらから異化する前の存在としての彼らの生き方を匂わせることができるのではないかと考えた。しかし彼らが話す鉤括弧内のその語彙において、この語彙はこの時代にはない、などとこだわり出すと、あらゆる漢語、熟語を台詞で使用することができなくなり、ひいては鉤括弧内で漢字を使用することすらできず、平仮名、片仮名などという更に新しい文字に至ってはもってのほか、となり破綻をきたすため、もはや気にはすまい。

 ちなみに、文字を他文化から輸入することなく、口頭のみで言語を伝承してきたアイヌ語における同意を示す語彙は、「エエ」と言う。我々も口語においても日常的に使用するが、こちらの方が文字や漢語などの濁りのない分、より古代の純度を保っていそうな気がする、ということを付け加えておく。


 ともかく、コウラは、

「はい」

 と同意の意味を示す言語とともに、後列へ伝者を走らせた。

 北上している間、四方が大きく見渡せる平地が続く。その平地が切れ、薄い山を越えるその前に、夜営をした。兵の眼があるため、ナナシは覆面を取ってマナに戻ることは許されない。黙って、焚き火を見つめている。覆面で顔を隠されていてもなお、マヒロはその顔を美しいと思った。触れると、透けて無くなってしまいそうな儚さがある。その儚いものが、うっすらとマヒロにだけ聞こえるほどの大きさの声を発した。

「実際、戦いになったら、どれほどの時間で、イシを破れるのでしょう」

「戦ってみねば、わからぬ。早ければ、朝に戦いを始め、昼には。抵抗が激しければ、長引いてゆく」

 ナナシは、火を再び見つめた。次にその眼を上げたとき、また口を開いた。

「戦うと見せかけて誘いをかけ、イシの軍を引っ張り出しましょう。決して応じず、守りに徹して。ウマが到着したとき、既にイシの軍はせっかく高めた気が萎え、こちらの兵はその気を最もめ、今か今かと出撃を待ち望んでいることでしょう。海からのウマと、陸の我らで、一気にイシを撃滅するのです」

 なるほど、現代的に見ても有効な戦略であるし、実際これよりも更に古い、大陸の戦国時代において同じような方法で快勝した記録が散見される。「敵は萎え、我は満つ。ゆえに我、勝つ」というやつである。が、マヒロは勿論知らない。

「馬鹿馬鹿しい。このおれを先頭にオオミの軍に援護させ、力の限り押して、敵を潰せばよい。ウマの兵はあくまで備えだ」

 とこの時代の戦いのやり方としては全うな意見を述べた。

「それで、マヒロ様の身に何かあれば、どうするのです」

「そのようなことを気にするのであれば、戦いなどせぬ方がよいわ」

「そうです。戦いは、せぬ方がよいのです。オオトからイシの地は近いとはいえ、我ら三千、ウマを合わせ三千五百の腹を満たす食料が運ばねばならず、この戦いで損じた武具も多く造る必要に駆られます、そして、なにより人が死にます」

 マヒロは、黙った。以前、リュウキも同じことを言っていた。

「マヒロ様の身に万一のことがあれば、このヤマトは、ヒメミコは、どうなるのです」

「それは」

「まだお分かりではないようですね。マヒロ様は、ヒメミコにとって、最も死んではならぬ人。マヒロ様を死なせぬよう、わたしが側にいるのです」

 マヒロが、ナナシの眼を見た。そこには、火に揺れる自分がいた。

「戦いが無くなった新たなヤマトで、ヒメミコは、マヒロ様と二人、生きてゆきたいとお思いなのではありませんか。そのために、今戦う。そうお考えなのではありませんか」

 これらが、ナナシが火の中に神の意思として見たのか、ナナシの心の中から生まれた策と思考であるのかは分からない。白い衣服が、ふわりと動いた。そのままマヒロの顔に、絹が触れた。口づけをしたのかもしれない。

 そこに、オオミがやってきた。

「マヒロ様」

 マヒロとナナシの身体の距離が近いことに違和感を感じた。

「もう少し、大きな声で話せ。言葉も、もっと学ぶように」

 とマヒロは慌てて言い、ナナシの身体を突き放した。

「ナナシ様は、言葉がお上手でないことを、恥ずかしがっておられるのですな」

 真面目なオオミは笑い、マヒロのとっさの演技を信じた。

「戦いのことを、相談していたのだ」

「軍師様の必勝の策を、是非このオオミにもお聞かせ願いたいものですな」

 と言い、マヒロの向かいに火を挟んで座った。

「必勝の策など、ない。負けぬ策なら、ある」

「それは」

「勝つときまで、戦わぬことらしい」

 と言い、マヒロは苦笑した。ナナシも、覆面の奥の眼を細めた。

「勝つときまで、戦わぬ。それはなんとも、リュウキ様の仰ることのようですな。いや、これは素晴らしい軍師様だ」

「図に乗るので、あまりナナシをおだてるな」

 マヒロは、ナナシが授けた策を、オオミにも伝えた。その時点で、ナナシの策を受け入れたことになる。

「なるほど。今まで、戦って勝ちをもぎ取ることしか考えませんでしたが、勝つ方に戦いを動かしてゆくのが良いと考えておられるのですな」

 とリュウキがいた頃そのようにしていたはずの、新しい戦い方に感心した。


 更に、軍を進める。やはりイシの地ではこちらの進発を察しており、都邑とゆうを出てやや東の、山と海岸とに挟まれた地に陣を敷き、ヤマト軍を一兵もイシの地に入れぬという気勢を示していた。三百ほどは、海に向かって陣を敷いている。海向こう、オオシマから迂回してくる軍を警戒しているらしかった。

「ゆくぞ」

 マヒロは、黒雷を進ませた。自らの騎馬隊百と、オオミ軍から切り離された騎馬隊五十だけが、前に出る。

 マヒロの耳に、春の風が、囁きかけている。

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