闇をもたらす者

 ほう、ほう、とクナの老軍師ユンは、感心するときの癖である短い感嘆でもってヒコミコらを迎えた。

「お早い、お着きで」

「当たり前だ」

「おや、お怪我を?」

「大事はない」

 クナの本軍が、何故、一日も早く到着したのか。


 狼煙のろしであった。

 普通ならば海路で伝令を走らせるものであるし、リュウキもそのように予測を立てたわけであるが、この場合、ユンは、狼煙を用いて急を告げていた。

 それは高台や山に設置された狼煙台で生木などを燃やして煙を発生させ、遠く離れた者に伝達するという、後年とそれほど変わらぬ方法で行われた。


 その勢力下の地域に一定距離毎に狼煙台を設置し、煙を確認した者がまた煙を上げ、それを確認した者がまた煙を上げ、という具合に、神経細胞が電気信号を伝達するようにして合図を送る。晴れた日であれば、オオシマから僅か半日程度で、クナ本国にまで報せを届けることができた。

 細かな情報の伝達が困難であることが難点であるが、かねてからオオシマの緊急の際にのみ用いる、としていたため、ヒコミコはすぐさま運動が鈍重にならぬよう、五千の兵のみを引き連れてオオシマに急行したのであった。もちろん、その全てを、ユンは織り込み済みであった。


 想定外であったのは、マヒロという敵将がオオシマの民を慰撫したこと、そしてそのマヒロ率いる軍が異常なほどの精強さをもってクナ軍を突き崩し、あろうことかヒコミコの旗にまで迫り、討ち取りかけたことであった。



 ユンの想定から外れたマヒロの奮戦により、ヤマトにとって最悪の事態は免れたものの、作戦において一杯食わされた形のリュウキはというと、本陣に運び込まれたマヒロのもとに走り寄っていた。

 死にはせぬであろうことは見てすぐに分かったが、篝火かがりびに浮かび上がるマヒロの体は傷だらけで、特に腕とももの矢傷がひどい。

 マヒロを運んで来きた手勢の者は、はじめ進発した際は一千いたものが、激戦がため大きく削られ、戻れば四百ほどになっている。代わりに、オオトの民が数十人、付き従っていた。

 決起した民の多くはクナの矢に倒れ、彼らを率いていた長のトオミも死んだ。その孫のハツミという娘が、気を失ったマヒロの側から離れない。リュウキが、

「我らの将の、傷の手当てをせねばならない。悪いが、どいてくれるか」

 と優しく言い聞かせても、ハツミはマヒロを強く抱き締めるばかりであった。


 リュウキに従ってきた従者のハクラビが、龍の文身いれずみの入った腕でもって襟がみを掴み、引き離した。ハツミは、それにも手足をばたばたとさせ、う、う、と唸るような声を上げて抵抗を示した。

「お前、口が利けぬのか」

 リュウキに問われて初めて、ハツミは大きく息を吸い込み、

「マヒロ様は、わたしが手当てをする」

 と言った。

「わたしが、怖くなって、つがえた矢を間違って放ってしまって。そうしたら、周りの人もどんどん矢を放ってしまって、そのうちの一本がマヒロ様の腕に刺さってしまって。それがなければ、マヒロ様は、こんな風にはならなかった」

 涙を流している。

「マヒロ様は、わたしが手当てをする。治るまで、ここにいてもらう」

 と、リュウキを睨みつけるような勢いで見据えた。

「困ったな」

 リュウキとハクラビが顔を見合わせる。


 う、う、とまた呻きが漏れた。

 今度は、マヒロからである。

「マヒロ様、気がつかれましたか?」

 ハツミが大声でマヒロに呼ばわっている。

「み、みず」

「水が欲しいの?誰か、水を!」

 ハクラビが無言で駆け出した。

「――ヒメミコ」

 マヒロのかすれた声が、ハツミの鼓膜を振動させた。ハツミはその手を握ってやった。

「おれは、あなたに――」

 と、うわ言のようなことを言っている。

 どうやら、まだ夢とうつつの間を行ったり来たりしているようであった。

 ハツミは、マヒロの口元に耳を近づけた。

「――決して、あのような思いは、させぬ」

 ハツミは、みるみる顔を紅潮させ、マヒロの手をおもむろに握ると、

「ええ、ええ、わたしも同じ思いです」

 と語りかけている。どうやら、何か行き違いが生まれたらしい。


 水を持ってきたハクラビがそれを飲ませようとするが、上手く飲み込めぬようだった。桶を奪い取るようにして受け取ると、ハツミは口移しでマヒロに水を飲ませた。

 マヒロの喉が上下し、声に少し力が蘇った。

「リュウキは、いるか」

「は。ここに」

「戦いは、どうなっている」

「双方引き上げたまま、まだ夜です。敵の進軍の速さが、あれほどとは」

「ヒコミコが、おったぞ」

 マヒロが、上体を起こそうとする。

「マヒロ様、まだ寝ていなくては」

 ハツミが、それを無理矢理寝かせようとする。

 そのハツミの存在に、マヒロは今はじめて気がついたらしく、

「お前は?」

 ともっともな質問を投げ掛けたため、リュウキがハツミに代わって改めて経緯を説明してやった。

「世話をかけた。あとのことは、我らで何とかする。お前たちは明日、夜が明けたらすぐ、各々のムラへ帰るが良い」

「そんな、わたしは、生きるも死ぬもマヒロ様と一緒です」

 ハツミが涙ぐむ。


 マヒロは、己の肩にかけられたハツミの手を外して先程までの昏睡が無かったかのように立ち上がり、

「おれは、死なぬのだ」

 と遠くを見据え、言った。

 篝火が映り込むその瞳から、火の粉がこぼれてきそうな気がして、思わずハツミは手を伸ばしそうになった。

「おそらく、明日の夜が明けたら、我々とクナとの決戦になる。早く去るのだ」

「リュウキよ」

「はい」

「ヒコミコは、討ち漏らした。旗はへし折ってやったが、何の足しにもならぬ」

「あの状況で、敵陣のただ中に突っ込み、敵の将、ましてや王と渡り合うなど、正気の沙汰とは思えません」

「そうでもせねば、我らことごとく屍になっていたであろう。人間ではなかったぞ、あの武は」

「むこうも、同じことを思っているでしょう」

「明日こそは、あの首を取る」

「お願いですから、無茶はされませんように」

「そうです、マヒロ様。そんな身体で明日も戦なんて、無理です」

 リュウキとハツミの調子が合わさったので、マヒロはうるさそうな顔をし、生き残った従者に手早く手当てをさせた。


 矢傷には、オオシマの長トオミから渡された薬を使った。

 それが済むと、士気の低下を防ぐため陣中を歩いて回った。傷が大したことがないのを示すためである。


 サナは、ふと自室から外に出た。自室で燃やされる小さな篝火を作っている板を一本抜いて、手に持っている。

 その火の向こうで揺れる声はマヒロであり、リュウキであり、タクであり、マオカであり、トミであり、イヨであり、既に亡い先王であった。あるいは顔も知らぬ民達であったかもしれぬ。


 ――わたしにとってのヤマトは、彼らなのだ。

 手にかざしている火を宿した木切れが、ぱち、とぜた。

「熱っ」

 サナは身を竦めた。

 同時に、思った。

 ――こう。


「ユウリはおるか」

 とっくに床についていたユウリは、いつものぱたぱたとした調子とは異なる足音と大声で、サナの来訪を知った。

「ヒメミコ。いかがなされた」

 現れたサナの顔は、青白くなっていた。

 その青白い顔が、

「オオシマに渡る。支度せよ」

 と短く言った。ユウリは勿論事態が飲み込めない。

「明日、オオシマに渡る。供は、僅かでよい」

「一体、何があったのです」

「わたしが行かねば、あの者どもは皆、死ぬ」

 そう言って、ユウリを見ながら、ユウリの向こうの空間に焦点を合わせるようにして、サナは言った。


 あの者ども、というのが具体的に誰を指すのか分からない。この場合、実地で戦に携わっているマヒロとリュウキのことを指しているものと、ユウリは普通の解釈をした。

 ユウリもまた、サナのふしぎな力を信じていた。

 そして濃密な経験とともに人生を送ってきたこの老将は、サナがあまり不用意に周囲にそのことについて触れ回ったりせぬようにしていることも察していた。


 だが、今回はどうだ。これほどまでに慌てるサナを、見たことがあるか。

 即座に、ただごとではない、と判断した。

 しかし、戦を行っている只中の地に、この非力な――サナは、全く己の身を守る術を知らない。必ずら周囲の者が彼女をたすけて来たことをサナ自身も知っているし、自ら危ない目に遭いに行くようなことは、できるだけ避けていた――ヒメミコを、放り込むことなど許せるわけもない。


 ただごとではない、と思いながら、

「なりませぬ。気になることがあるならば、儂が見て参りましょう」

 と宥めようと試みたが、勿論、サナが納得するはずなどない。

「阿呆。わたしが行かねば、皆死ぬぞ」

 押し切るような形で、翌朝オオシマに渡ることを取り付けた。


 供は、千人。

 この頃、夜でも月や星さえ出ていれば通行が可能なように、ヤマトの本国とオオトの地を結ぶ山道を広く切り開き、地をならし、軍用道路の体を整えていた。

 それを利用し、夜明け前に山を越え、朝日が昇る頃には、それぞれ船に乗り込んでいた。

 若葉の季節の朝の海には、沖に向かってゆく風がある。

 その風を捉えると、あっという間にオオシマである。

 全くもって予想する余地のない渡海であったから、勿論オオシマで戦う両軍は、サナらの上陸に気づくはずもない。


 それより、少し前。

 空の黒が青く変わってゆく。吹き付ける風までも、青い色彩をもっているかのようであった。

 若葉と潮の匂いを乗せた風が、通り過ぎた。

 クナのヒコミコは、待っていた。

 その身の炎が、再び燃えるのを。

 あるいは、ヤマトの炎が、満ちるのを。

 ――来い、マヒロ。

 ただ、待っていた。

「ヒコミコ、敵は昨日の通り、決して侮れぬ相手。自ら打ち合うようなことのないよう、くれぐれも」

 とユンが言った。大陸式の礼であれば、王にものごとを言うときは、もっと仰々しい身振りと供に地にひざまづき、頭を地すれすれまで下げ、物を言うのが常であるが、この場合の礼は、ちょっと目上の者――例えば己の兄や、師など――に用いる程度の、長い袖を胸の前に持ってきて片手はグー、片手はパーにして組み合わせ、少し頭を下げながらものを言う、というものであった。この島々の人々はまだ儒教を知らず、いきなり重厚な礼を用いられては面食らうだけであろうから、かえってこの量感の軽い礼が合っていた。

「俺は、打ち合うぞ、あのマヒロと」

「なりませぬ。幸い、敵の陣に我が手の者が潜んでおります。その者にマヒロなる者を」

 とまで言ったとき、ユンを睨む王の眼が火を吹いたようになった。

「ユン爺、ヒコミコは昨日、馬から転げ落ちたマヒロに、自らも馬を降りて相対したのだ」

 傍らにある、セイの厚い唇が開いた。

「そなたの飼う者の手にかけさせるなど、あまりにもヒコミコが可哀想ではないか」

 可哀想、という言い方が何やらおかしくて、ヒコミコは吹き出した。しかし、セイは怖い顔になり、

「しかし、ヒコミコ。敵将と自ら打ち合うなど、決してやめるようにお願いしますよ」

 と言った。

「なんじゃ、お前までそのようなことを」

「オオシマの軍を指揮するテツモリに、マヒロと当たらせます」

「つまらんな。海の匂いも気にいらぬし、草の匂いも、強くてかなわんわい」

 この感受性の豊かな王は、オオシマの風に吹き付けられながら言った。

 指名されたテツモリは、またとない機会、と喜び、必ず敵将の首をヒコミコの前に献じましょう、と自らの指揮する兵が控えるところまで足早に向かった。


 篝火は、消された。

 青が薄くなり、天地が色彩を取り戻す。

 マヒロは、腕と腿にやや痛みを感じながら、ただそれを見ていた。

 黒雷に跨る。

 結局説得しても一人だけ帰らず、側に付いたままのハツミが、心配そうに見上げる。

 昨日の小競り合いで旗下の者は削られたが、それでも、全体の数ではヤマトが勝っている。


 リュウキは、マヒロの負傷を理由に、自ら先頭を走ることのないよう勧めながら、ヒコミコ率いる本軍の士気も考え、武力は互角、と言った。マヒロは、それとは別に、個人の武においてクナのヒコミコにも、その側近の縮れ毛の男にも、負けたと思っていた。

 しかし、ここで退けねば先はない。


 両軍の間に、見えない火が立った。

 やがてそれが朝の空を焦がすほど大きくなったとき、どちらからともなく号令がかかり、進発。

 そのとき、両軍は信じられぬものを見た。

 南北に向き合う両軍のちょうど間の、東側から千人ほどの軍勢が現れたのだ。

 白地に、真ん中を一本だけ黒く染めた旗。

 用いることなどないはずであるが、大陸では将や王は皆、各々の印としての旗を持っている、というリュウキの勧めにより作った、サナの旗である。


 マヒロは絶句した。

 その旗の下、輿に乗った女性らしき者が大声で、

「我なるは、ヤマトがヒメミコ」

 と叫んだとき、マヒロは目の前の光景が現実であることを知った。その脇に、ユウリの姿も見た。

 なぜ、来たのか。

 その答えを求めるよりも先に、サナを守らねばと思った。

 当たり前の流れとして、サナに向けて矢が雨のように放たれた。

 信じられないことであるが、その無数の矢は、千人のヤマトの兵の誰にもあたることなく、全て地に突き立った。サナも全く微動だにせず、ただ降り注ぐ矢を見ていた。


 さらに驚くべきことが起きた。

 ヤマトの方角から昇り始めていた太陽がにわかに欠けだし、辺りが薄暗くなった。いや、もともと欠けはじめてていたものが、人の目に異変として映るほどに進んでいると言うのが正しかろうが、サナが背負うそれがいきなり姿を変じたとこの場にいる者には映った。


 一同がどよめく中、みるみる世界は色彩を失い、闇を取り戻してゆく。

「――しょくだ」

 と両軍の中にある大陸渡来のリュウキとユンは、この現象についての知識を持っていた。

 そのとき既に、マヒロを先頭とした一団がサナのもとへと駆けつけている。

「ヒメミコ、ここで何を」

「わからぬ。わからぬが、お前達を、いや、我らを救いにきた」

 どんどん力を増してゆく闇で、表情は分からない。その声はいつもと変わりないようであったが、どこか透き通っているようにも思えた。

「マヒロ、弓を持て」

「弓?」

「お前の、あの弓だ」

 マヒロは闇の中、従者から弓を受け取った。

「狙え」

 この闇の中、何を狙うというのか。

 敵も味方も大変な混乱をしているらしく、あちこちで叫び声があがっている。

 敵陣の方向に、火が灯った。

 その火めがけ、矢を放った。

 闇ゆえか、矢の唸りは昼間よりも凄まじい。

 飛んだ。

 それは火を弾き飛ばし、火の粉が上がるのが見えた。

 もう一矢、マヒロはその弓につがえ、今度は、全くの闇の中に狙いを定めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る