第十章 燠火

帰還

 ヤマトは、この島国を、一定の意味において一つにした。

 クナの機構をそのまま残し、取り込む形となった。候には先のヒコミコの息子。セイもクシムも生かされたが、あくまで候の補佐をする者のうちの一人として、ヤマトから派遣された官吏の下に付けられた。

 クナに従っていた全てのクニが、ヤマトになった。フジの山を抱くヒトココの地よりも東の広大な平野や、それより北の、現在「東北地方」と呼ばれる地域はこの時代、ヤマトではない。中央に発生した権力が、その隅々まで行き渡るには、まだ長い時を要する。見方によっては八世紀、朝廷の命を受け征夷大将軍に任じられた坂上田村麿呂さかのうえのたむらまろ蝦夷えみしの英雄アテルイを討つまで、あるいは更に別の見方をすれば十二世紀、源頼朝が弟である義経を匿ったかどで奥州藤原氏を滅ぼすまで、この地域はヤマト、あるいは日本に完全に参加することはない。

 しかしこの時代、彼らにとっての「アシハラナカツノクニ」は、概念的にはその地域を含まぬ。だから、サナは、彼女らの思う、天と地の間を統べる女王となったと言える。よって、彼女は、これよりやや降った時代の表現で言うところの、「治天下大王アメノシタシロシメスオオキミ」になった。

 その治天下大王は、相変わらず足を投げ出し、ぼんやりと外を眺めている。なんとなく、彼女は、そろそろマヒロが帰ってくると思っていた。

 果たして、その通りになった。マヒロから戦勝の知らせが届き、その次の日の夕暮れには、外がにわかに騒がしくなった。

 サナは、楼閣を裸足のまま飛び出した。これまでも、この物語には、大陸より伝来したくつが登場しているが、ふつう、戦いのときや、儀礼のときにしか履かない。大陸式の身なりをしている例えばリュウキなどは普段から沓を用いていたが、この頃は室内で沓を脱ぐ習慣はなく、同じ建物の中に土足の者、裸足の者が混在することがあった。サナも勿論、沓を持っているが、普段はやはり素足である。

「マヒロ」

 サナは、この世で最も愛しい男の名を呼んだ。

「ヒメミコ」

 マヒロは、サナの名を知らぬわけだから、こう呼ぶしかない。駆け寄り、抱き合った。帰国し、広場に集結している将と、各地域の軍の引率者と、部隊長にあたる役割の兵が、一斉に歓声をあげた。

「どうした」

 サナは、マヒロの顔を、間近で覗き込んだ。

「いえ、あばらが、折れているようで。少し痛いのです」

 サナは、ぱっと身を離した。

「済まぬ」

「なんの。これしきの傷」

 マヒロの傍らには、ナナシがいる。

「ナナシ」

 サナは、名を捨てた女の名を呼んだ。

「よく、マヒロを生かしてくれた」

「いいえ」

 と自らがマナという者であったことは捨てても、女であることを隠そうとしなくなったナナシは、平気で声を発した。サナは、少し驚いた。

「わたしが必死に知恵を絞った策は、クナに破られてしまいました」

 と眼を細め、笑った。

「では、なぜ」

「きっと、人の智も神の意思も越えた力を、持っていらっしゃったのでしょう」

 辺りを見回して、

「きっと、ここにいる誰もが」

 と付け加え、再び眼を細めた。


 ナナシは、イヅモの地で、ほとんど絶望の中で、マヒロの駆け去った方を見た。ただ、見ていた。マヒロが朝の光の中に立ち上る煙の中に、自らの涙で滲む視界の中に消え、そしてもう二度と会うことはない、と思っていた。

 草の上に座り、ただ長い間、そうしていた。ずっと、涙が止まらずにいることに気づいた。

 日が、暮れた。朝からずっと、同じ姿勢をしていた。マヒロと、昨日の夜、話したことをそのまま思い出していた。

 ――あれは、確かヒメミコが九つのときであったか。館の外に生える、大きな木に蜂が巣をかけてな、それに、ヒメミコがいたずらをした。驚いた蜂が巣を飛び出し、ヒメミコに襲いかかろうとしたものだ。あれには肝を冷やした。おれは必死で、蜂と戦った。

 ――一度など、ヒメミコは川に棲む大きな蜥蜴とかげを捕まえようとして、ひっくり返って川に落ちた。あとで叱られるのはおれだから、あれには参った。

 ――オオシマでの戦いのとき、もう駄目かと思ったが、ヒメミコが、何故か来た。突然、陽が欠けて闇になり、黒い穴の周りに炎を湛えたようなそれを背負い、矢を放つよう号令をしたあの声を、忘れることはできぬ。

 ――オオトを滅ぼしたとき、おれはもう一人のおれと戦った。この剣は、その者が持っていたものだ。おれはこの剣で、もう一人のおれが命をかけて守ろうとした、もう一人のヒメミコを刺した。あのときのことは、きっとこの先も、生涯忘れることはないだろう。

 ――おれは、数多の屍を踏み越え、血の海で溺れそうになり、そしてついに、死の淵に立った。そのとき、おれは、ヒメミコを見た。ヒメミコが、おれをそこから救い上げてくれた。あのとき、おれは、ヒメミコそのものになった。

 ――ヒメミコが、このように言った。

 ――ヒメミコは、そのときどうしたと思う。

 ――ヒメミコは、知っていたのだ。

 ――ヒメミコのことを、おれは改めて大切に思ったのだ。


 マヒロの生きてきた全ては、サナだった。ナナシは、何故かそれを悔しいとは微塵も思わず、ただ、マヒロがもう、彼の好きなたった一人のヒメミコに会えぬかもしれぬことが、悲しかった。マヒロにとって、自分はヒメミコの代わりにもならぬ。別の存在である以上、マヒロにとってのヒメミコは、サナ一人である。ナナシは、ただ悲しかった。

 赤くなった陽を、ナナシは背負っていた。マヒロと、朝、今日の夕暮れが涼しいであろうという話をしたことも思い出した。その時間が、近づいている。

 向こうから、人影。遠くて顔は分からぬが、ナナシはすぐに分かった。また、涙が溢れてくる。その歩き方で、ナナシはその人影が、傷付いているのが分かった。

 草から、立ち上がる。ずっと同じ姿勢であったから、足の痺れが甚だしい。それにも構わず、駆けた。

 人影が、マヒロになった。

 マヒロにナナシは飛び付こうとしたが、鼻が折れたのか出血の跡があり、鎧もなく胸は斬れていることを見て、やめた。

 マヒロは、ナナシの頭巾と、覆面を外してやった。

「戻ったぞ」

 八重歯を見せて、

「マナ」

 と、捨てたはずの名を呼んだ。風の向きが、変わった。

 マナの髪が弄ばれ、唇を一度だけ叩き、引っ掛かった。マヒロはそっと指を伸ばし、それを取ってやった。

「行こう。今宵は、ゆっくりと眠れる」

 マヒロはナナシを伴い、ヒコミコを殺した部屋に入った。ナナシは、いつものように、マヒロの身支度を手伝った。マヒロは、いつものように、いい。自分でやる。と言った。ナナシは、いつものように、では、明日が明けたら。と言い、その部屋を出て、コウラに案内された手頃な部屋に入った。

 部屋に入って、どのようにして眠ったのか、記憶もない。気付けば、朝だった。ナナシは、いつものように、覆面と頭巾を身に付け、マヒロの部屋を訪れた。


 そして、今、マヒロは、最愛のヒメミコと再会している。

「ヒメミコ」

 マヒロは、一組の男女としてのやりとりを終えると、地にひざまづいた。サナは、女王の顔になった。

「マヒロ、オオミ、カイ。そして諸候の軍。クナを降し、戻りました」

「ご苦労であった。よく戻ったな」

「クナのヒコミコを討ち、その子を新たな候として、封じて参りました」

「わかった」

「これで、大願は成りました。あとは、このヤマトをとこしえに保つことに、我が力をお使い下さい」

「頼む」

 サナは、諸候の軍に、散会を命じた。

「たいへんな戦いであったことと思う。皆、よく戦ってくれた。明日、それぞれの地に戻るわけであるが、このヤマトの宝を、ありったけ持ち帰るがよい」

 ひとつ、息を吸って、続けた。

「忘れるな」

「お前達、皆がヤマトなのだ。そのことを誇りに、繋いだ生を喜んでほしい」

 そこにいる全ての者が、歓喜の声を上げた。中には、涙を流している者もいる。

 タチナラが、歩み寄ってきた。

「ヒメミコ」

 サナの前で膝をついた。サナは、団栗どんぐりのような眼を向けた。

「ウマは、財物は要りません。この度の戦いの場におれたことこそ、何よりの宝でありました」

「そういうわけにもいくまい。お前達だけではない。お前の帰る場所にも、ヤマトの者が沢山いる。何も言わず、受け取り、帰るがよい」

 タチナラは、なおも辞退した。サナは、押し問答は苦手である。後で直接送りつければよいか、と思った。

「ひとつ、お願いがございます」

 タチナラは、サナに、

「ナナシ様を、わが妻とすることはできませんでしょうか」

 と、突拍子もないことを言った。サナは更に眼を丸くして、ナナシを見た。ナナシも、眼を丸くしている。

「どうじゃ、ナナシ、タチナラが、お前を好いておるらしいぞ。妻となるか」

 一応、聞いてやった。ナナシは、苦笑しながら首を横に振った。

「だ、そうだ。タチナラ」

 タチナラは絶句していたが、慌てて地に手をつき、

「お忘れ下さい」

 と引き下がった。騒ぎを聞きつけたカイが、

「じゃあ、俺の妻になるか」

 と口を挟んだ。ナナシは、それにも首を横に振った。

「そうかい。それは残念だな。いや、はじめて会ったときから、女じゃないかと思っていたんだ」

「なぜ、そう思われたのです」

 とナナシは聞いてやった。

「お前みたいに、いい匂いのする男が、いてたまるものか」

 カイは笑った。

「俺は、鼻が効くんだ」

 と言い、立ち去ってゆく。タチナラも、ナナシも、サナもマヒロも、笑った。

 その夜、マヒロは痛みも忘れ、サナを抱いた。互いがこの世に存在していることを、寄せては引いてゆく喜悦の中で、何度も何度も確かめ合った。サナは、ただ、マヒロの名を呼んだ。マヒロは、ただ、彼がサナの全ての中にいる喜びを感じた。

 眠り、夜が明けると、タクがやって来た。

「戦いに勝ち、ほんとうに良かった」

 と喜んだ。

「これで、ヒメミコの国は、一つになりました」

 とサナを見て、微笑わらった。サナは、タクと出会った頃、この笑顔がなんとも恐ろしく感じたものだ、と思った。しかし今は気にせず、

「クナに送る吏は誰がよいか」

 と、事務的な話を持ちかけた。タクは、クナほどの大きな独自の機構を備えた国を統べるのは並のことではないから、その国家機構はそのまま残し、捌くのが良い。そのためには、かつてクナの国の運営に携わっていた者の力が欠かせぬこと、そして彼らがおかしなことをせぬよう、目を光らせることの出来る者がよい、それは誰々か誰々が良いのではないか、と己の考えを述べた。

 その名は全て、タク自らの直属の部下であった。

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