平和な策

 戦いが止み、この物語から半分退場したかのようになっているナナシに、視点を移してみたい。

 ナナシは、ナナシのままである。戦いがなければ役に立たぬ、というわけではなく、マヒロの世話をしながら、膨大になった彼の仕事を手伝っている。武の面においての実質上の副官であるコウラに対し、民政の面での副官が、今はナナシというわけである。そういう意味ではコウラよりもナナシの方が、遥かに多忙である。

 ナナシも、サナと同じく、このところ不思議な体験をすることがめっきり減っている。それは、もしかしたら己がそれを求めるかどうかに深い関わりがあるのかもしれない。仮に神の意思や精霊の声を聞いたとしても、今目の前に山積みになっている作業を代わりにこなしてくれるわけではないから、聞こえずとも、別に支障はない。ナナシは、人としての聡明さをもって、マヒロにそれぞれの地域から上がってきたばかりの、秋の実りの報告を読み上げ、マヒロが用いるのと同じ記号を木板に書き込んだ。更に、昨年の実りと比べどうであった、とか、どこそこの地域に人が足りぬ、などということも論じた。国家を回転させることとは、木の板を小刀で削ることであると勘違いをしそうなほどに、それは膨大な量となっていた。

 陽が傾くと、その日の作業は終わる。

「よし、今日はこれまで」

 朝から二人がかりで手掛けた作業であるが、まだ終わりが見えない。勿論、それを補佐する者は大勢いるが、まずマヒロとナナシの二人で、まとめ上げる作業が必要である。地域毎に積み上げられた木の板の山を座ったまま見上げ、

「ヤマトも、大きくなったものだ」

 とマヒロは呟いた。ナナシは、マヒロの呟きの続きを待った。

「おれがこの役目を始めたころ、こんな作業など一日あればすぐに終わった。しかし今はどうだ。目を通すだけでも数日かかる。それをまとめるとなれば、これだ」

「思ったことを、言ってもよいでしょうか」

「なんだ」

 マヒロは、ナナシの方に向き直った。

「なぜ、その地域の、穀物の量だけを報告させるのです」

「どういうことだ」

「それぞれの地域には、候も吏もいるのですから、種類だけでなく、それぞれの地域ごとに、どれだけの土地を使ってその量が採れたのか、昨年と比べどうであったのか、はじめからまとめた上でヤマトに持って来させてはどうです」

 マヒロは、絶句した。

「何故、もっと早くにそれを言わぬ」

「マヒロ様が、していること。きっと深い理由があると思って」

「ずっと、このやり方でやってきた。ただそれだけのことだ」

「では、来年から、各地であらかじめ、まとめた上で持って来させるようになさいませ」

「そうする」

「二人でやれば山のような作業でも、皆で手分けをすれば、すぐ終わります」

 ナナシは、そう言って眼を細めた。各地で報告の詳細な部分までまとめた上で報告させれば、採れ高をごまかす恐れがあるが、とマヒロが思い付いて言うと、そもそも、何の穀物が幾ら採れた、というあちらの申告に依存しているわけだから、その時点でごまかされていればどうしようもない、とナナシは言う。では、どうすればよいのか、とマヒロが問うと、ナナシは、

「決まりが、ないのです」

 と言う。

「どういうことだ」

「それぞれが、別の決まりに基づいて、量を計っているので、我々からすればひどく分かりにくく、不正があるとすれば、それが不正の元になっています」

「では、どうすればよい」

「穀物を計るものの大きさを決め、計り方を統一するのです」

「なんと」

 マヒロは、眼から鱗どころか、眼そのものが落ちたような衝撃を受けた。ナナシは、少しずつナシメの部屋や宝物庫から持ち出した、大陸の書物によりその知識を得ていた。

「それに、それぞれの地域の今までの採れ高を見直し、雨の多かった年、少なかった年のおおよその量を求めます。それによって、例えば、今年は雨も程よく降り日照りもなく、穀物はよく実っているはずなのに、これほど少ないのはどういうわけだ、と問い質す材料にもなります」

「ナナシ、お前の智は、リュウキ以上だ」

 リュウキも、その知識や方策を持っていたかもしれぬが、もっぱら彼は軍事専門であったことと、彼の存命中はヤマトはここまで大きくはなかったため、その知識を持っていたとしてもそれが披露されることはなかった。今や、智の神のようにして、オオトとヤマトを行き交う人は貴賤に関わらず、その道にある両国を見下ろせる開けた場所にある墓に詣でることが習慣になっているリュウキと重ねられ、ナナシも悪い気はしない。柔らかそうな膨らみを持った胸を、少し張ってみせた。

「お前がいてくれて、ほんとうに良かった」

 マヒロはナナシの手を取った。素朴に、愚直に、方法論に対する工夫をするということも思い付かず、ただただ決まったやり方で苦痛以外の何物でもない作業をこなしていたマヒロからすれば、ナナシの発案は革命と言ってよい。マヒロは、軍事においては天才的な才能を持っているが、やはり、彼は実行者であって、自ら新たな方法を開拓したり構築したりするのは不得手であるらしい。ナナシの発案に、子供のように眼を輝かせている。

 ナナシは、どのような形であれ、自分がマヒロに必要とされ、自分の存在をマヒロが喜んでくれることが嬉しい。

 まだ、二人は男女の仲ではない。マヒロにとってのナナシは、あくまで参謀であり、女性ではない。ごくまれに、覆面の向こうから漏れ出てくるナナシの女に戸惑ったり、ふわりと香る女の匂いにいたたまれなくなったりすることが無いではないが、マヒロにとってのナナシは、やはりナナシであった。

 ただ眼を細めて笑うナナシは、それで十分であったので、マヒロが無遠慮に握ってきた手を、そっと外した。

「しかし、次の秋からそれをするとして、この度は、この山をどうにかして片付けねばならぬな」

 マヒロは、急に現実に引き戻されたような顔で、木板の山を眺めた。

「心配ありません」

 ナナシは断言する。マヒロは、この山を片付ける画期的な策が、ナナシの覆面から出てくるのを期待した。

「わたしも、終わるまでずっと手伝います。少しずつ、片付けましょう」

 と、眼を細めた。マヒロは、ただ苦笑するしかなかった。陽が、大分傾いている。

「お前が、新たな策を授けてくれた祝いに、今日は夕餉ゆうげを一緒にどうだ」

 と八重歯を見せた。

「いえ。お気持ちだけ、頂いておきます」

 ナナシは、再び眼を細めた。

「そうか、また、明日が明けたらな、軍師よ」

 マヒロも、再び八重歯を見せた。

「ええ。明日が明けたら。我が主」

 ナナシは、マヒロに応えて冗談を言ったらしい。

 恐らく、ナナシがマヒロに授けた策の中で、最も平和な策であるかもしれない。血の匂いを伴わぬ軍師というのも、悪くない。

 ナナシは、満足していた。自らの策でマヒロの生死を分けたり、多くの敵を屠ったりしなくともよい今の環境が、ナナシはとても好きである。

 しかし、神宿しとしての眼や耳が鈍くなっているとはいえ、ナナシにはある予感があった。それが何なのか、神宿しとしての眼や耳が鈍くなっているがゆえ、はっきりとは分からない。

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