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 その夜、食堂で酔い潰れている小泉たちから逃れ、明智は寝室で一人思案に耽っていた。


 お題は勿論、自分のこれからについてだ。

 当麻旭を支えたいから、共に夢を追いたいから、ここに残るという選択をしても良いのか。


 かれこれ2時間以上、悶々としていた。


 小泉、満島、佐々木の3人以外の同期は、皆未だ帰省中のようで、簡素なベッドが並ぶ殺風景な部屋は、いつもに増して寒々しく、余計に気が滅入った。



 夕食は料理上手の山本が不在なこともあり、明智が茹でたうどんを、酔っ払い二人組と旭の4人で食べた。

 佐々木は昼頃まで、旭と共に所長室の資料を漁っていたが、その後は一人で出掛けてしまったらしい。既に時刻は午後9時を過ぎていたが、未だ彼の姿は見当たらなかった。

 先月頭に、前所長がやらかしたばかりなので、まさか彼に続いてエースまで、と嫌な妄想をしてしまい、慌てて頭を振る。

 佐々木がそんなことをするはずがない。10代の頃からの親友である自分が疑ってどうする。きっと、諜報員の中でもぶっちぎりで卓越した能力を持つ彼のことだ。自分には思いもつかないような策を、着々と準備しているのだろう。


 食堂の方角からは時折、小泉たちの笑い声が漏れ聞こえてきた。旭が何やらムキになって騒いでいる声もする。多分、小泉におちょくられているのだろう。

 以前は騒々しいとしか感じていなかった喧騒に、少しだけ安心させられた。




 風呂にでも入り、一度頭をすっきりさせてから、また改めて考えようと思い、洗面用具を準備していると、不意に古びた木製のドアが開いた。


 黒いコートを羽織り、襟巻きに帽子と防寒装備を完璧にした佐々木だった。

 白磁の如き頬は薄っすら朱に染まっていたが、飲酒によるものではなく、氷点下まで冷え切った帝都の寒空の下を歩いてきたせいだろう。



「もう帰って来たのか。あけましておめでとう。また兄弟喧嘩か?」



 佐々木は己の頬を指差し、悪戯っぽい笑みをこぼした。嘘を吐くきっかけすら与えず、正解を言い当ててしまうのは、彼の洞察力云々というよりは、単なる友人として過ごした時間に培った経験則故だ。

 学生時代は、帰省するたびに弟と取っ組み合いの喧嘩をしていたので、大きな休み明けの明智は大抵どこかしらを負傷しており、その度に佐々木はからかってきた。



「まあ、そんなとこだ。それより貴様、こんな時間までどこに行っていた。正月二日じゃ、開いている店だって殆どないだろう?」



 防寒具を外し、ロッカーに収納している背中に問いかけた。



「ああ、ちょっと実家に寄ってきたよ。妾腹とは言え、俺も貴様と同じく長男だからな」



 返ってきた答えに、明智は目を丸くした。せっかく帰省したのに、数時間で戻ってきたのか、ということではなく、彼が実家に足を踏み入れたことに仰天した。



 佐々木の家庭環境は非常に複雑で、本人も語りたがらないため、長年親友をやっている明智にも分からないことが多い。

 ただ、学生時代に断片的に聞いた話では、父親は貴族院議員を歴任する子爵で、麹町の一等地に西洋の宮殿のような豪勢な屋敷を構えているとのことだった。

 佐々木の実の母親は、元は吉原遊女だったが、その類い稀な美貌に惚れ込んだ父親に愛人として落籍され、佐々木が生まれた。

 小学校の途中まで、佐々木は父の顔も知らず、母子で慎ましく暮らしていたそうだが、関東大震災で母親が死亡したため、父親に引き取られたらしい。

 けれども、父や継母、それに義理の姉たちと折り合いが合わず、彼は高等学校入学と同時に家を出、それ以降、滅多なことがない限り、実家に寄り付かなくなっていた。


 帰る家もなく、夏休み全てを狭く汚い学生寮で過ごそうとしていた友人を気の毒に感じ、思い切って、仙台の実家に呼んだこともある。


 それくらい、佐々木の家庭は冷え切っていた。


 正月に挨拶に行かない方が普通と感じてしまうほどに。



「何か、実家で不幸でもあったのか?」



 驚きを隠しきれずに問い質すと、彼はぷっと吹き出し、笑い飛ばした。



「違う、違う。何にもないさ。単に父上や母上、それに姉上たちに新年の挨拶をしに行っただけさ。で、ついでに親らしいことは、僕を中学卒業まで家に置き、金を出すくらいしかしなかった父上に、息子らしく甘えてみてきただけだ」



「甘えたのか?!」



 咄嗟に大声を出してしまった。


 佐々木は飄々とした口調で、詳細を説明した。



「ああ、甘えてきたよ。と言っても、お年玉を無心しただけだけどね。金を出すことくらいしか、僕に対する愛情表現が思いつかないらしい父上には、分かりやすくて丁度良かったんじゃないかな」



 20代後半にもなって、絶縁状態の親にお年玉をせびるなんて、間違いなく無番地のエースは何かを画策していた。

 陸軍から与えられる僅かな予算では賄えない大仕事をやってのける気なのだろうか。妖艶に微笑む親友の顔を凝視してみたが、彼が何を考えて行動しているのか、てんで読めなかった。



「それより、明智、貴様は何でまたこんなに早く帰って来たんだ。まさか、弟と喧嘩して飛び出してきた訳ではなかろう?」



 コート類を片付け終えた佐々木は、明智の隣のベッドに腰を下ろす。腰を据えて話し相手をしてくれるつもりらしい。

 心遣いは有り難かったが、同時に自分は、また彼の言葉に影響を受け、流されてしまわないか不安を感じた。


 胸に過ぎった不安を悟られぬよう、平然と返す。



「いや、こういう状況だからな。自分だけ実家で休む気にもなれず、朝一で出発して帰って来たんだ。佐々木こそ、正月返上で働き詰めなのだろう?」



 大したことを聞いたつもりではなかったのに、うん、まあと彼は歯切れが悪い返答をした。



「広瀬がさ……」



 数秒躊躇する素振りを見せた後、佐々木は切り出した。



「あいつは帰省する前に、既に残留を決めたって言っていたのだけど、その理由がな……」



 広瀬が、旭と仲が良い上、好き勝手に発明や研究ができる現状に満足しているのは周知の事実であったので、早々に残留を決めたこと自体は何の違和感もないのだが、何故か佐々木は声を潜め、悩ましげな表情で続けた。



「誰にも言わないで欲しいのだが、あいつが出入りしている陸軍の研究所で開発中の兵器が人道的に大分問題がある代物らしいんだ。あの研究馬鹿が『科学者の端くれとして、何としてもあれを使うような事態は防がなくてはならない。例え兵隊しかいない戦場だったとしても、人に使うのは阻止させなければ。あれを使ったら、日本は戦争に勝っても、未来永劫拭えぬ汚名を背負うことになる。そのためには、無番地に残り、ある程度の発言権を持って、研究に携わり続けるのが必須なんだ』と真面目な顔で話していたんだ」



 戦争で殺し合いになるのは、当たり前のことだ。斬殺だろうが銃殺だろうが、戦地で敵を倒す上では、許容される。戦場で国際法なんてあってないようなものだ。

 そして、各国の技術者はより効率的に味方の損害を最小限に抑え、敵軍を殲滅できる兵器の開発を競う。

 人道的には褒められた話ではないが、これが戦争の常識だ。

 広瀬だって知らないはずはない。なのに、それでも『使ってはいけない兵器』とはどんなものなのだろうか。


 すっと背筋に冷たいものが走った。



「それは……気になるな」



「ああ。もし奴の話しているようなものが作られているなら、僕たちは益々、諜報活動に精を出し、そいつを使わなくても良い状態を守り通さなければならない。休んでなんかいられない」



 諜報活動で殺戮を防ぎたい。



 佐々木の発言は、当麻旭の語った夢と重なっていた。一人で普通の諜報員百人力の彼がそう話すことは、とても心強いはずなのに、明智は微妙な引っかかりを感じていた。


 もやもやとした、悔しさにも似た気持ちの名称は思い当たらなかった。



「聞くまでもないかもしれないが、佐々木。貴様はここに残るつもりなのか?」



 勿論と親友は首肯した。わざとほつれているようにセットした前髪が端正な目元で揺れ、品の良い色気が香り立つ。



「貴様だったら、他のもっと条件の良い機関に務められそうなのに、何故、ここなんだ?」



 中野学校だろうが、参謀本部だろうが、佐々木程の実力があれば、引く手数多だろう。

 それでも彼が、残留という結論を出したのは、やはり自分や小泉たちと同じく、彼も所長の後任として当麻旭を認めていたり、彼女に自身の夢を託しているからだからなのだろうか。非常に気になった。



 眉間に皺を寄せ、気難しい顔つきで迫ってくる旧友に苦笑しつつ、彼は遠い昔を懐かしむような穏やかな表情をした。


 そして、問いを無視されたのかと、露骨に眉を顰める明智に問いかけた。



「明智は、無番地の口述試験で『もし任務中に、恋人を殺さなくてはいけなくなったらどうするか』という問題があったのを覚えている?」



 唐突な話題転換に戸惑いながらも頷く。



「勿論だ。スパイとしての覚悟を問う問題だったのだろう、どうせ」



「ご明察。で、その時、貴様は何て答えた?」



 簡単だ。当時の記憶を呼び起こすまでもなく、正答は分かりきっている。



「『恋人を殺さず、任務を完遂する方法を見つける』だ。それがどうした」



 真面目に返したのに、クスクスと佐々木は忍び笑いをし始めた。いくら佐々木とはいえ、馬鹿にされているようで不愉快だった。



「実はさ、昼間に当麻さんと所長の残した資料を漁っていたのだけど、その時に、選抜試験の模範解答と受験者の解答内容と成績が出てきたのさ。聞いて驚け。何と合格者は、多少の失点はあっても、その問題だけは全員正解だったし、他の問題が全問正解でも、その問題を間違えた者は不合格になっている」



「ふーん。それほど重要な問題だったのか。けれども、普通に考えれば、すぐに正解できる問題だよな」



 未だ、何が言いたいのか分からなかった。

 が、続く発言で、明智は漸く、佐々木が一見何の脈絡もない入試の話をしてきた理由が分かった。



「うち以外の諜報機関では、『恋人を殺さず、任務を完遂する方法を見つける』なんて答えた時点で、不合格確定だそうだ。正解は『恋人を殺し、任務を全うする』らしいぞ。所長は入試問題を作るにあたり、中野学校を始め、他の諜報機関の入試を研究し、流用もしたようだが、この問題だけは、正答を敢えて変えた。何でか、分かるよな?」



「無番地には、任務のためなら人間をやめられる人材は必要ないと考えていたから。『人であるから、スパイでいられる』あのオヤジの口癖だった。結果、どうしようもない馬鹿ばかり集まったけどな」



 だな、と二人で笑い合った。改めて考えると、東京勤務の8人以外の同期も、後輩も全員、普通の諜報員としての常識がまるでない馬鹿者だった。



「でも、そんな所長だったから、僕は安心して命を預けられた。そして、当麻さんもまた、所長と同じ、否それ以上の馬鹿だ。所長の代わりになろうと気張っているけど、無理だね。超えてしまうよ、あれは」



 だから僕はここに残る。


 とんでもない馬鹿と共に、馬鹿な理想を追い続ける人間でありたいから。



 そう佐々木は続けた。



 次いで、完全無欠の非の打ち所がない、どんなに努力しても追いつけない親友は、柔和な笑みを浮かべたまま、尋ねてきた。



「明智、貴様はどうするんだ?」

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