6

 電話を切り、駅員たちに礼を言ってから事務室を出ると、また外務省の女スパイが待ち構えていた。電話を掛けに出た時に振り切ったのに、まだ諦めずについてくるとはしつこ過ぎて呆れる。

 この忙しい時に、こいつは何なんだ。例え好みの女であっても、一刻を争う任務中に付き纏われたら迷惑千万なのに、好みとは程遠い、モガ風だか知らんが、化粧の分厚いアバズレに追い掛けれるなんて不愉快でしかなかった。



「赤坂見附に行くの? だったら私も連れて行って」



 大股で歩く明智に、女は転びそうになりながらも必死に追いつこうと走った。



「任務中だ。部外者を連れて行く訳にはいかない。赤坂見附に行きたいなら、自分でタクシーを拾って行け」



「人質を助けるのでしょう? だったら私も同じよ。さっき言ってたじゃない。目的が同じなら、無駄に争うべきじゃないって」



「無理に協力する必要もない」



 地上に上がる階段を2段飛ばしで上がり、大通りを見渡す。地下鉄の運行中止のせいで、タクシー乗り場にも、数人の列が出来ていた。しかし、幸い多くの地下鉄利用客は、振替先に省線や路面電車、バスを選択したようだ。ロータリーで客待ちをしているタクシーの台数の方が、タクシー乗り場に並んでいる客の人数よりも多かった。


 女がもたもたと階段を上っている間に、タクシー乗り場へ急ぐ。


 列に並び、腕時計を確認すると、既に6時を過ぎていた。テロリストが提示してきたリミットは夜7時。もう1時間を切っている。

 数十秒の待ち時間も居ても立っても居られず、その場で地団駄を踏みたくなる。

 松田のことだから、例え武装したテロリストに人質に取られようと、されるがままではいないはずという期待と、いくらあの狡猾で向かう所敵なしの悪魔でも、たった一人では太刀打ちできないのではないかという不安が入り混じり、心を掻き乱す。



 1秒が1時間に感じられる待ち時間を経、漸く明智の前にタクシーが停車した。

 突進するように後部座席に乗り込みながら「赤坂見附駅まで」と短く告げ、ドアを閉めようとした時だった。水色の柔らかく暖かい塊が体当たりの要領で、明智を運転席側に押し込め、無理に車内に乗り込んできた。



「なっ……」



 一瞬何が起こったか分からなかった。その隙に、水色の塊は素早くドアを閉め、運転手を切迫した声で急かした。



「すみません。早く出してください。急いでるので」



 はいよ、と運転手が返事をし、車を発進させようとしたので、明智は慌てて叫んだ。



「待て。こんな女知らない! 降りろ、アバズレ!」



 しかし、女は怯まず平然と言い放った。



「あんたも急いでいるんでしょう? こんなとこで押し問答している暇はないと思うけど」



 確かに急いでいる。ことは一刻を争う。けれども、この女と行動を共にする謂れはない。



「ふざけるな、何で貴様なんかと……」



 反駁しようとした矢先、明智の台詞は後続のタクシーが鳴らしたクラクションに掻き消された。



「お客さん、どうすんの?」



 鼻の下が長く、下膨れでカバに似た中年の運転手がうんざりした様子で振り返った。見た目だけでなく、声も話し方も間延びしていて益々カバを彷彿させた。



「出してください」



 ピシャリと女が言い切ると、カバの運転手は短い足でアクセルを踏み、タクシーを発車させた。



「階段に置き去りにしたはずなのに……」



 力技で押し切られた形が悔しく、明智は思い切り舌打ちをした。



「ふん。女をあまりなめないことね」



 女が得意げに足を組んだ。狭い座席なので、否応なく、引き締まった形の良い脚が視界に割り込んできた。

 そこで明智は、ハッとさせられた。

 表情は勝ち誇っていたが、女スパイ自慢の脚は裸足で、ハイヒールが座席の下に転がっていた。ストッキングの足先が破れ、うっすら血も滲んでいる。

 こいつ、ハイヒールが邪魔になったからって、裸足で走ってきたのか? スパイとしては失格だが、根性と任務遂行への情熱だけはただならぬもののようだった。果たして彼女の雇い先が、そこまで忠誠を誓うに値する組織なのかは、大いに疑問であったが。



「何見てんのよ」



 視線に気づいた女が、ドスの効いた声を出した。組んでいた足を戻し、靴を履き直す。



「血、出てるぞ」



 痛みに耐えているのか、軽く眉間に皺を寄せながら靴に足先を押し込んでいる女に指摘すると、彼女はぶっきらぼうに返した。



「知ってる」



「そうか」



 まあそりゃ知ってるよな、大きな怪我ではないが、多少は痛むだろうし、と納得し、明智はそれ以上追及しなかった。一人でじっくり、この後の作戦について考えたかったし、彼女と仲良くなる気なんて毛頭ない。向こうも自分のことを嫌っているだろうから、何も話さなくて構わないと勝手に解釈し、口を閉ざした。


 それなのに、だ。女は履きかけていたハイヒールを拾うと、隣に座る明智に投げつけてきた。



「痛っ! 何すんだ?!」



 避けきれず、ハイヒールは明智の左膝に当たり、床に転がった。いきなりの理由なき物理攻撃に、思わず声を荒げる。なのに、女はさも自分が不当な扱いを受けたかのような態度で、キンキンと怒鳴った。



「何すんだじゃないわよ! もう少し、何とかならない訳? 女が怪我しているのよ! 『そうか』で終わらせるとか、信じられない!」



 キーキーとやかましく喚く耳触りな声に、気が遠くなる。『信じられない!』はこっちの台詞だ。話したくなさそうだったから、黙っていたのに、どうして怒られなければならないのか、心の底から疑問だった。



「黙ってないで、何とか言いなさいよ!」



 無言を貫かざるを得ない明智に、外務省の女スパイはさらに立腹した。何か言えと言われても、部外者である運転手の同席している空間で話せることは限られている。けれど、何か話さなければ、彼女の怒りは増し、暴れ出しかねないと感じたので、彼の主観に沿って考えると意味のない質問をしてみた。



「じゃあ、怪我大丈夫か?」



「平気よ。かすり傷だから。でも、遅すぎるし、『じゃあ』が余計ね。私が言わせているみたいで不愉快だわ」



 言わせている以外の何だというのか、逆に問いたいが、突っかかられるのも嫌なので反論は諦めた。女心とは複雑怪奇なり。関わり合いにならないのが、一番の防御策だ。今の会話で女も満足しただろう。もう余計な口はきくまい。



「また黙るのね」



 いつぞや、負けん気の強い女学生にも、諦めまじりに投げかけられたことのある台詞だった。黙ることの何が悪いのか、何故彼女らは男の無言を批判するのか。二度目の経験ながら、未だに明智は理解できていなかった。



「聞かないの? 私が何故、ここまでするかとか」



「聞いても答えないだろう、どうせ」



 女だって一端のスパイなら、話せないことの方が多いはずだ。同業者の情けで、詮索するような質問はしないでいたことが、何故解らない。

 けれども、自分から例示するくらいだから、聞いて欲しいと解して良さそうだ。正直、どうでも良かったが、義理で聞いてやる。



「何でそこまでして、俺に付き纏う。何が目的だ」



 すると彼女は、物憂げに窓の外の等間隔に並ぶ街灯を見上げ、答えた。



「助けたい人がいるの」



「そうか」



 外務省側も、無番地と同じく、数人がかりで鳴海を監視していたのだろう。そして、彼女以外のスパイが松田同様、人質事件に巻き込まれた可能性は十分にある。要は、仲間を助けたいということか。なるほど。それならば、ヒステリーを起こしたくなる気持ちも解る。



「恩人なのよ」



 聞いてもいないのに、女スパイの語りは続いた。明智はふんふんと適当に聞いているふりで受け流す。



「あの人に拾われたから、私は今ここにいるの」



 今ここに彼女にいられるのは迷惑な自分は、その『恩人』とやらに対し、あまり良い感情は抱けないものよなあ、と思ったが、勿論口には出さなかった。



「だから、何としてもあの人を私は守るの」



 背を伸ばし前を睨み、決意表明する横顔は凛々しく美しかった。が、特にそれ以上の感想はなかった。好きにしてください、ただし俺の邪魔だけはするなといった具合だ。



 明智の薄過ぎる反応に、彼女は深い深い溜息を吐き、頭を抱えた。また自分は何か間違えたのかと不安になっていると、女スパイは前傾姿勢のまま、力の籠らぬくぐもった声で言った。



「あんたさ、女とまともに付き合ったことないでしょ?」



 突然の指摘に、明智は酷く狼狽した。何故、今ここでそれを指摘してくるのか、スパイとしては察しが悪そうな彼女に見抜かれてしまったのか、訳が分からず、上擦った声で否定するのが精一杯だった。



「そんな訳あるか! 失敬な!」



 だが、彼の抗議に応じたのは、ヒステリー気味の女スパイの金切り声ではなく、のんびりと間延びした中年男のそれだった。



「俺もお姉さんと同意見だ。お兄さん、仕事や勉強も大事だけど、少しは女と遊ばねえと、いい男になれねえぞ」



 今までずっと沈黙を貫いていたくせに、下世話な話題に興味をそそられたのか、カバ似の運転手はしれっと割り込んで来た。年配者特有の上から目線の説教口調が妙に堪え、口ごたえする気になれず、明智はしょんぼりと肩を落とし項垂れた。

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