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「こんなことを申し上げるのは不謹慎ですが、中尉は今となっては運が良かったとしか言えませんね」



 言葉を失っている明智に、助役はピントのずれた慰めの言葉をかけてきたが、右から左へと聞き流す。三国同盟関連の機密文書は、爆発で消し炭になってしまっても、同盟の対抗勢力に漏れるよりマシだ。ベストではないが、まあ悪くない結末だろう。

 けれども、人質の命は何としても守られなければならない。乗員・乗客は罪のない無辜の善良な市民であり、テロリスト共々爆殺される謂れはない。

 松田と鳴海は……もし、人質事件の巻き添えを食らっていたとして、善良な市民とは言い難いが、それでも命を落としても構わない人間ではない。



「犯人や人質の人数、特徴などは分かっているのですか?」



「犯人は3人で、銃で武装しているとの情報です。自爆用の爆弾も持っています。どのような団体の者たちなのかは、私どもには……。人質は運転手と車掌、それにお客様ですが、正確な人数やどのような方々なのかは分かりません。ただ、赤坂見附を出た時には50人前後は乗っていたように見えたと赤坂見附の駅員が証言しているそうです」



 相手が私服憲兵だからか、助役は分かる限りの情報を提供してくれた。しかし、乗客の中に松田と鳴海が含まれているのかは判然としなかった。もどかしいが、これから人質事件が発生するなんて、一介の鉄道マンが予期できるはずもなく、人の乗り降りの激しい通勤電車の乗客を一人一人記憶するなんて不可能だ。せめて船舶のように乗員名簿があれば良いものをと考えてしまう。



「ご苦労。現在、立て籠りに使われている車両以外の電車はどうしているのです? この時間だと、先行も後続も数分置きに走っていたでしょう?」



「事件当時運行中だった他の電車は、事件の一報を受け、全て最寄駅に停車させた後に、お客様を降車させて運行中止にしています。件の電車より先行していた電車につきましては、順次渋谷の車庫に退避させました。後続電車については、各最寄駅に停車したままの状態です。なお、人質事件のことは、解決まで極秘にするよう警察からお達しがあったため、途中駅で下車して頂いたお客様にも事情は話していませんし、報道規制も敷かれているそうです」



 昨今は時局柄、人心を乱すような事件・事故は隠蔽されることが多い。

 帝都の繁栄の象徴である地下鉄がテロリストに利用され、乗客の命と引き換えに、この国の根幹を揺るがすような無理難題を突きつけられていると大衆に知れれば、大混乱になること間違いなしだ。

 政府が乗客を見捨てる判断をし、惨事が起これば、当然政府への反発も噴出する。

 例え最悪の結果になろうと、『交渉の余地もなく、テロリストが突然大規模な自爆テロを起こした』と事後報告した方が、政府に対する世論は穏健なものになると、中央は考えたのだろう。

 酷い話だが、権力者なんて、どんなに外面が良くてもそういう考え方の持ち主であり、そうしなければならない場面も存在するのが一国を動かすということだ。



「となると、人質のいる電車に一番近い後続電車はどこにいるんです? 赤坂見附ですか?」



「はい、その通りです」



 今後の作戦を頭の中で計算しながら、明智は更に質問を重ねる。



「既に事件には警察が介入しているようですが、現場の本部はどちらに設置されているのでしょう? どこかの駅の事務室ですか?」



「先ほど申し上げた通り、青山一丁目から渋谷までの各駅に警官隊がいますが、本部となると終点の渋谷です」



「そうですか、なるほど」



 眼鏡を片手で押し上げ、暫し考え込んでいるような素振りをする。駅員たちが固唾を飲んで自分の次の言動を待っている感覚を十分に堪能してから、徐に口を開いた。



「すみません。少し中座して、上司に連絡を取ってきます。この事件は、警察だけの手に負えるものだとは思えない。憲兵隊でも対策を考えるべきですので」



「承知しました。電話、こちらにもありますが、お使いになられますか?」



 事務室の電話を使うよう提案されたが、無論断る。これから電話するのは、上司は上司でも、憲兵ではなくスパイの上司だ。



「いえ、結構です。込み入った話もありますし、公衆で済ませてきます」



 エリート青年将校らしく、颯爽とした足取りで歩み、事務室のドアを開けると、目の前には水色ワンピースの女が顔面蒼白で立っていた。様子からして、中での会話を盗み聞きしていたのは明白だった。



「人質事件って、どういうこと? 私たちの乗っていた電車なのよね?」



「急いでいるので失礼」



 掴まれた腕を振り払い、省線新橋駅近くの電話ボックスを目指して走る。

 早く松田が人質事件に巻き込まれているか否かを特定し、もし巻き込まれているなら、救出作戦に移らなければならない。

 無番地に連絡し、対策を話し合わなければ。女に構っている余裕はなかった。


 地下鉄運行中止の煽りを受け、人が溢れる省線新橋駅の雑踏を抜け、やっと見つけた電話ボックスに、明智は飛び込んだ。

 はやる気持ちを抑え、皇国共済組合基金所長室の番号をダイヤルする。



 1回目のベルが鳴りかけた瞬間、ガチャリと受話器を持ち上げる音とともに、無愛想な中年の声が聞こえた。明智からの電話を待ち構えていたかの如き早業だった。



「俺だ。貴様は明智か。随分報告が遅いが、どうなっているんだ。松田もいるのか?」



 所長の口振りからして、任務が成功しようと失敗しようとも終了次第、所長に一報を入れる決まりになっているにも関わらず、松田からは何の連絡もないようだった。人質になるのは免れ、地下鉄運行中止のどさくさに巻き込まれたにしても、一切音沙汰がないのは、報告・連絡を重視する松田にしてはおかしな事態だ。



 明智は、今までの経緯を順を追って説明した。所長は相槌も打たず、彼の報告に耳を傾けていた。

 一通り現状報告が済むと、抑揚の少ない冷めた声で尋ねられた。



「誰か応援に寄越すか?」



 松田が人質になっているなら、警察に任せず、自ら救出に向かおうという明智の目論見は全て見透かされていた。つくづく、この中年には敵わない。



「構わないのですか? スパイは派手な行動は慎めといつも仰っているのに」



「それを聞くか。一人で迂回して帰って来いと言ったところで、どうせ貴様は無視するだろうが」



 図星だった。ヒクッと引きつった笑い声が電話越しに聞こえた。つられて明智の頬もほんの少し緩む。



「では、近藤を至急赤坂見附駅に向かわせてください。駅構内には入れないでしょうから、外堀通り沿いで待つようにと。私もタクシーで向かいますので」



「分かった。すぐに行かせる。貴様も気をつけて行け」



「ありがとうございます。では」



 会話を切り上げようとしたところ、不意に所長は引き止めてきた。



「明智。スパイにとって、過度に情に流されることは足枷になるが、情を捨て人間をやめることもまた、足を掬われる原因になる。訓練施設時代、そう教えたつもりなのだが、よもや忘れてはいないよな」



 忘れる訳がない。教えられた当時は、『矛盾している』と批判的に受け取っていたが、諜報員として、経験を積んできた今なら真意が解る。人の心を捨てた者に、人は動かせない。人を動かせないスパイは使い物にならない。

 所長が具体的に、どんな半生を生きてきたかなんて知る由もないが、人との繋がりを軽視せず、情やしがらみを無駄と切り捨てずにきたであろうことは、何となく伝わっていた。

 だからこそ、明智も佐々木も、きっと他の諜報員たちも、所長について行くことを選択したのだ。

 末端の諜報員を捨て駒にするような組織だったら、とうの昔に辞めているし、そもそも内務省の内定を蹴ったりなんてしなかった。



「まさか。しっかりこの胸に刻んでおりますよ」



 そう答えると、「ならいい」とぶっきらぼうな返事の直後、一方的に電話を切られた。

 受話器を置き、大きく深呼吸をした。



 作戦開始だ。



 電話ボックスを出、もう一度、地下鉄新橋駅の事務室に帰り、出迎えた駅員たちに告げた。



「上司に聞いたところ、憲兵隊も介入が決まりました。ただし、警察との関係もありますので、あくまで内密に介入します。現場指揮は私に一任されました。差し当たって、警察側の現場責任者と話がしたいのですが、繋いで頂けますか?」



 勿論です、と機敏な動作で、壮年の駅員が電話器に手を伸ばす。

 彼は電話に出た相手方に事情を説明した後、受話器を明智に渡した。



「警視庁特高部の御子柴みこしば課長です」



 黙って頷き、受話器を受け取ると、冷淡な響きの声が印象的な男が電話口に出た。

 東京憲兵隊の中尉の介入を御子柴課長は訝しがっていたが、『信じられないなら、上司の桐原大佐に確認してください』と言うと、渋々明智の言い分に聞く耳を持ち始めた。

 警視庁本庁の特高刑事相手でも、有無を言わせない桐原大佐の威光には感服せざるを得ない。

 桐原大佐といえば、生意気な女学生の娘を「範子ちゃん、範子ちゃん」と猫可愛がりし、言いなりになっている親馬鹿という印象の強い明智には、どうもしっくりこないが、折角利用できるのだから、ありがたく利用させて貰う。

 不服そうな御子柴課長に、明智は依頼した。



「人質事件が起こっている電車のすぐ後ろの電車を貸して頂けませんか? 赤坂見附に停車中のものです」



「構いませんが、何に使うおつもりで?」



 高圧的に投げ掛けられた問いに、毅然と答えた。



「テロリストの制圧と人質の解放のためです」

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