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 定食屋を出た山本は、今度は省線代々木駅方面を目指して歩き始めた。片手には未開封の一升瓶を握っている。




 定食屋夫婦からも、有用な情報は得られなかった。だが、会計時、明智の分もまとめて支払う山本に、店主は徐にべらんめえ口調で尋ねたのだ。



「知事、そういやお前さん、チョーさんのとこはもう行ったのかい?」



 財布から札を取り出そうとしていた無骨な手が一瞬動きを止めた。精悍な横顔にも、ふっと影がさした気がした。



「……まだです。あの人も忙しいですし、頼り過ぎるのも悪いですから」



 歯切れの悪い受け答えをする山本を、店主は「そりゃいけねえよ」と叱りつけた。本当の親子さながらの、遠慮会釈ない、歯に衣着せぬ言い方だった。



「お前、チョーさんには、この街の中でも一番世話になっているんだろう? 挨拶くらいしねえと、不義理だぞ。それに何か知っているかもしれない。あの人は、今でもお前のことをしょっちゅう気にかけてるぞ。頼るのが悪いなんてあるか。お前が今何の仕事をしているのか、この街の連中は知らないし、詮索もしない。何のために、『新宿の姫』を探しているかなんて、見当もつかない。けど、お前を助けたいって気持ちはみんな同じなんだよ。だからこそ、ここまで来るのに色んな奴から話を聞けたのだろう? チョーさんも同じだ。遠慮しないで頼ってやれ」



 一気にまくし立てると、ごま塩頭を短く刈り上げた店主は、店の奥から一升瓶を持ってきて、息子同然に可愛がってきた男に乱暴に突き出した。



「ほれ、これ手土産にして、チョーさんのとこ行ってこい。後で行ったかチョーさんに聞きに行くから、すっぽかしても無駄だぞ」



 帳場の前で、山本は俯き、歯を食いしばり、痛みに耐えているような表情で沈黙したが、やがて、差し出された一升瓶を受け取り、店主に深々と頭を下げた。




「なあ、チョーさんって人のところに行くのか? チョーさんって何者なのだ? どこにいるんだ?」



 一人で早足で進んで行く背中に問うても、「行けば分かるさ」とか「チョーさんはチョーさんだ」とか答えになっていない返答しかなかった。午前中からの山本の説明不足かつ手前勝手な行動に、明智の堪忍袋の尾はとうに切れていた。切れているが、仕事なので我慢して付き合っているのが、現状である。



「着いたぞ」



 代々木駅のすぐ近く、山手線と総武線が走る線路の高架下の前で、謎多き『知事』と呼ばれる男は、急に立ち止まった。陽の当たらない、トンネル様の高架を潜れば、代々木駅の西側に抜けられる造りになっている。



「あれがチョーさんだ。失礼のないようにしろよ」



 高架下にゴザを引き、座り込んでいる浮浪者を指差し、山本は無表情で言い放った。



「は?」



 咄嗟に聞き返した明智を置き去りに、彼はずんずんと歩き、高架下に入って行く。浮浪者は自分に近づいてくる男には興味を示さず、ゴザの上で胡座をかき、自分の正面に置いた施し用の欠けた茶碗の中を凝視したまま微動だにしない。


 明智も恐る恐る後に続く。山本は一直線に最短距離で浮浪者のそばまで歩いて行くと、その正面で立ち止まった。

 そこまで近づかれても、浮浪者はぴくりとも動かなかった。


 近づいて見ると、チョーさんは、白髪まじりの髪がぼうぼうに伸び、無精髭に埋まった顔は日焼けと垢で黒ずんでおり、典型的な中年男の浮浪者だった。ゴミ捨て場で拾ってきたであろう、古着をちぐはぐの組み合わせで身につけ、頭にはインド人のようなターバンを巻いている。

 ゴザの周囲には、彼の家財道具と思しきガラクタやリヤカーが雑然と並べられていた。

 明智は彼の漂わせるすえた悪臭に辟易しつつ、山本の背中に身を隠すようにして立った。



「チョーさん、ちょっといいかい?」



 浮浪者相手でも、公明正大な紳士は、ごくごく普通に敬意を持って話しかけた。うう、とチョーさんのひび割れた唇から小さな唸り声が漏れ、痩せて骨張った赤銅色の手が催促するように、施し用の茶碗を持ち上げて振った。



「先払いだよ」



 しゃがれた声がぶっきらぼうに告げた。



「分かってるよ。はい、これ差し入れ」



 山本は慣れた様子で、定食屋から貰った一升瓶をゴザの上に置いたが、チョーさんは茶碗を引っ込めなかった。数秒、二人は無言の駆け引きでもしているかのように対峙していたが、山本がポケットから財布を取り出すことで膠着状態は解ける。



「最初から金で払えってんだ。馬鹿野郎」



 小銭を受け取った茶碗を下ろしながら、浮浪者は悪態をついた。しかし、文句を言っている割には、一升瓶の方も素早く自身の背中の影に隠してしまっていた。



「いやあ、お久しぶりです。元気でしたか?」



 背広が汚れるのも気に留めず、山本はチョーさんの目の前に胡座をかいて座り込んだ。自分も同じように座った方が良いのかもしれないと思ったが、地面に直接腰を下ろす気になれず、明智は立ったまま、中途半端に腰を屈めるのに留めた。



「何が『元気でしたか?』だよ。つい2週間前にも、お前んとこの大将の使いで会っただろうが」



『お前んとこの大将』とは、まさか所長のことか? 小汚い浮浪者の言葉に、耳を疑う。正体不明さ具合なら、山本やチョーさん以上の所長だが、こんな都会の片隅で暮らす胡散臭い宿無しと繋がりがあるなんて初耳であったし、2人の連絡係を山本が務めているなんて、予想だにしなかった。



「俺も忙しいから、早いとこ本題に入りたいのだけど、その前に聞く。知事、てめえの後ろで怯えてる眼鏡の坊や、誰だ?」



 随分な言い様をされた挙句、無遠慮に人差し指で真っ向から指差しされた。



「なっ!? 別に怯えてなんか……」



 明らかに小馬鹿にされているのが分かり、反射的に抗弁しようとしたが、山本に手で制される。自分に任せてくれという風に力強く首肯したので、それを信じ、明智は口をつぐんだ。



「今の職場の同僚さ。明智という名だ。失礼なことはしないよう言い聞かせはしたのだが、何分、世間知らずの坊ちゃんなんだ。俺に免じて許してやってくれ」



 信じて託したことを猛省したい程の、酷い紹介をされた。けれども、不本意極まりないが、チョーさんはその説明で納得したようだった。はんっ、鼻を鳴らし、拍子に飛び出した鼻水を袖で拭きつつ、彼は明智を値踏みするように上から下まで観察してから、自己紹介をした。



「俺はチョー。見ての通り、この辺りに住む無宿人だが、長年飯のタネに情報屋をやっている。これでも帝都中の同業者の元締めさね。知事とはもう10年以上の付き合いだし、あのハゲの大将とはもっとだ。坊やもこの先、何かあったら来いよ。金と酒かたばこ持参でな」



 真っ黄色の乱杭歯を剥き出しにして笑った口から、鼻が曲がりそうなドブの如き悪臭が撒き散らされ、明智は吐きそうになったのを必死に堪えた。



「で、何が聞きたい?」



 吐き気を飲み込んだものの、咳き込み始めた明智を無視し、チョーさんは山本に尋ねた。


 山本は、今回の任務内容をかなり詳細なところまで話した。一介の怪しげな浮浪者風情にそこまで打ち明けてはまずいのではないか、と明智は血の気が引いたが、話し手も聞き手も眉一つ動かさず、淡々としていた。



「ふうん、『新宿の姫』ねえ。聞いたことねえな。そんな情報、上がってきてねえよ」



 全部聞き終えると、情報屋はあっけらかんと言い切った。



「やはり、何かの暗喩だと思うか?」



 ぼうぼうの頭がコクリと頷く。



「だろうね。分からねえけど。そこまで色んな奴から話を聞いて、何も出てこないってことは、言葉まんまの意味ってことではないだろうよ。或いは、そもそも新宿じゃあねえ、別の街ってこともあり得る」



「はあ。新宿以外で虎の街か。帝都周辺で、四神相応の地となると鎌倉が近いが」



「奈良や京都だってそうだぜ。遠いけど」



「いざとなったら、行かなきゃいけないかもな」



「そんときゃ、土産頼むぞ。酒でいいから」



「分かってるって」



 鎌倉でも遠いのに、奈良や京都にまで出張させられ、また同じようなことに付き合わさせられるなんて御免被る。今度は補佐を頼まれても断ろうと、明智は心に固く誓う。



「けどよ、知事お前さん、本当に全部の先入観を捨てられているか? 知らねえうちに、虎を生きた実在の動物だと思い込んで、動物園調べてた特高のアンポンタンどもと同じ穴には嵌ってねえか?」



 不意にチョーさんが発した質問に、意志の固そうな奥二重の目が見開かれた。そして、知事というあだ名の男は、ぶつぶつと早口で独り言をこぼし始める。



「捨てて……なかった。捨てたつもりだったが、まだ全部捨ててなかったんだ。そうだ!そうだった。俺は……思い込んでいた!」



 ありがとう!チョーさん!と叫び、バネ仕掛けの人形の如く、山本は突然立ち上がった。全くもって、見ている側の心臓に悪い動きの多い男だ。



「落ち着け、馬鹿。俺の話はまだ終わっちゃいないぞ」



 今にも走り出しそうな山本を、呆れ顔のチョーさんが引き止めた。含み笑いをしながら、彼は受け取った小銭と酒に見合う情報を提供した。浮浪者とはいえ、さすがはプロフェッショナル。報酬を受け取るからには、相応の仕事をする主義らしい。



「姫は知らねえが、住宅街の方で、最近明らかによそ者風の不穏な雰囲気を漂わせた奴らが、昼間にうろうろしていて、住民が気持ち悪がっている、とは知事の後輩君から聞いたぜ。いい大人の男が、働きもせずに何してんだろうなあ」



 情報屋は、思わせぶりにぼやいてみせた。もう、これで十分分かっただろ?と言いたげないたずらっぽい目つきをしている。



 山本の精悍な瞳が、獲物を見つけた猟犬のようにギラつき、新宿方面を睨みつけた。



「明智、住宅街行くぞ」



「ああ」



 ここで従うことしか、明智には選択肢はない。走り出した猟犬の手綱を握れるのは、禿頭のスパイマスターと老獪な情報屋くらいしかいないのだ。

 改めて、チョーさんに礼を言い、高架下から日の当たる往来に向かって歩き始めると、後ろから情報屋のだみ声が聞こえた。



「知事、何でお前さん、この仕事受けたんだ? 特高の尻拭いなんだろ? 要は」



 山本は振り返らずに答えた。



「俺はここに暮らす人々の暮らしや命を守りたい。それだけだ。そのためなら、特高の尻拭いだろうが何でもやるさ」



 変わらねえな、お前さんは。



 そうチョーさんが呟いたのを明智は聞き取ったが、山本の耳に届いていたかは分からなかった。

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