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 放課後、範子は終礼が終わると無駄話をすることなく、教室を後にした。

 やけに素直だと感心していたのも束の間、傘をさし、ツンと澄まし顔で校門から出て来た彼女の背後には、傘の柄を両手で握りしめ、今にも泣き出しそうな表情をした棚村節子が隠れていた。


 範子はもじもじとしている友人の腕を引き、校門脇に停めた送迎車のドア脇で、ベルボーイの如く屹立きつりつしている明智に話しかける。



「雨降ってるし、家まで送ってあげて良いわよね。この子の家、日本橋だからすぐだし、少しくらい寄り道しても平気でしょ」



 あくまで文法的には質問口調だが、声音や言い回しはきつく、実のところは命令だった。



 一方、節子の方は、恐々と明智の白皙を見上げ、目が合った途端、「ひいっ」と小さな叫び声を上げ、顔を背けた。


 肩まで伸ばした髪の隙間から見える頬や耳たぶは紅潮しており、か細い肩口は小刻みに震えていた。


 気が弱いだけではなく、根っからの恥ずかしがり屋なのだろう。

 家族や教師以外の異性に対しては、まだ憧れより恐れが優ってしまう性質に見えた。



「申し訳ありません。寄り道は一切せずに帰るようにとお父様とお約束しておりますので、お友達を送っていくことはできません」



 明智は柔らかい微笑みを浮かべ、お嬢様のわがままを嗜める敏腕執事役を演じるつもりで、範子の命令を断った。


 しかし、反抗期真っ盛りのお嬢様は猛然と反発してきた。



「こんなに雨の中、自分だけ車で帰れって言うの? あなたは知らないでしょうけど、この子は、節子ちゃんは私の一番のお友達なの。見捨てられないわ。今日だって、せっちゃんがいなかったら今頃私、大変なことになっていたのよ!」



 全部知っている、と心の中で毒づきながらも、明智は笑顔の仮面を貼り付かせたまま、首を横に振る。



「左様ですか。素晴らしいお友達がいて良かったですね。でも、それとこれとは別です。ダメなことはダメです。さあ、帰りますよ」



「触らないで!」



 早く車に乗るよう促そうと、セーラー服の肩に軽く触れようとした手は、思い切りはたき落とされた。

 鋭い拒絶の声に、下校中の生徒たちが何事かと振り返る。


 円滑な任務遂行のため、あまり目立つことはしたくないのに勘弁して欲しい。

 明智は舌打ちしたい衝動を堪える。


 仕事ではなかったら間違いなく、怒鳴り返していた。


 だが、よく考えれば仕事でもなければ、そもそも、こんな生意気さだけは一丁前の小娘と関わる機会なんてないのにと思い、今更ながら所長の判断が恨めしくなった。



「のりちゃん……もういいよ。私、ひ、一人で帰るから」



 二人のやりとりを半泣きで見ていた節子が、おずおずと申し出た。


 振り返った勢いで、睨みつけてきた親友の剣幕に怯みはしたものの、彼女は一言、一言、丁寧に紡ぎ出すようにして言った。



「のりちゃん、運転手さんも困ってるし、私のことはいいから。ね?」



 節子の言葉は、語気も穏やかで、押し付けがましさのかけらもなかった。

 けれども、怒り心頭な範子が、冷静さを取り戻すに十分な説得力があった。

 きっとその謎の威圧感の正体は、「秘められた強かさ」といった種のものだろう。




 親友に諭され、すっかり大人しくなった範子は、黙って後部座席に乗り込んだ。

 気が変わらないうちにと、明智は車を速やかに発進させる。




 黒塗りの乗用車の中は、雨音とエンジン音しか聞こえなかった。


 範子は車窓に流れる雨の帝都の街並みをぼんやりと見つめていたし、明智も変に話題を振り、訳の分からないわがままを言われるのは避けたいので、黙っていた。




 女学校を出て、10分ほど経った頃だろうか。


 不意に範子は独り言を呟いた。



「宿題、どうしよう。せっちゃんの家で教えて貰おうと思ってたのに」



 件の数学教師が、新しい宿題を出していたことは、一日中、盗聴していた明智は当然知っていたが、わざと知らない風を装い、聞き返した。



「難しい宿題が出たのですか?」



 思わず溢した独り言を拾われてしまい、少女の眉間に深い皺が寄る。

 バツが悪そうに顔をしかめているのがバックミラー越しに分かる。



「もし、必要ならお手伝いいたしますが」



「必要ないわよ! あんたの出る幕なんてないわ!」



 さりげなく家庭教師役を買ってやっても構わないと提案してみたが、意地になっている範子は全力で拒否してきた。

 帝大法学部次席の家庭教師をロハで受けられるなんて、相当な僥倖ぎょうこうだと思うのだが、彼女にそのことを教える必要性はないので、明智はあっさり引き下がった。



 昼間の授業風景や資料に出ていた範子の中間試験の結果からして、範子が自力で宿題をやり遂げられるとは思えない。

 明日も数学の授業はある。

 観念し、明智に助けを求めて来るのは時間の問題だろう。


 できれば、早い段階で白旗を揚げてくれると、後の調査が捗るので助かるのだが、と考えているうちに、車は桐原邸に到着した。




 ぬいという名の家政婦の老女が出迎えたので、範子を彼女に託し、もう一仕事こなす。



 邸宅周辺に張り込んでいる憲兵たちに、無線で情報交換し、朝までの警備計画に変更がないことを確認する。

 そして、これまで異常なしと結論が出たところで、車に積んでいた諜報道具を含む自分の荷物を客間に運び込んだ。



 彼が7月まで寝泊まりする部屋は、屋敷の二階にあり、範子の部屋とは隣同士だった。

 無番地の社員寮とは大違いだ。

 個室の上、調度品も豪勢で充実している。

 高級ホテルのもののようにスプリングのきいたシングルベッドに腰掛け、一息ついていると、焦げ茶色の木製のドアを外側から控えめにノックする音がした。




 数学が苦手な範子お嬢様は、思った以上に早く、降参してくれたようだ。



 扉を開ける寸前、明智はにやりと酷薄な笑みを浮かべた。


 が、次の瞬間には、ドアの前で腕組みをし、仏頂面で佇む少女を、慈愛溢れる優しげな微笑みを湛え、見下ろしていた。

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