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「教科書に出ている演習問題と大元の理屈は同じです。教科書を理解すれば、簡単にできますよ」
「そんなの分かってるわよ! 私だって、教科書に出ている問題くらいはできるわ。でも、この問題はダメ。全然、公式使えないじゃない」
「確かにこのままでは、すぐに公式に当てはめることはできませんが、使えるところまで、数式を因数分解するなりして持っていけばすぐです」
「どうやってやるの?」
「それは自分で考えてください」
教師が独自に作成したらしき数学の宿題プリントを前に、範子は既に戦意喪失していた。
彼女がつまづいている証明問題は、一見一筋縄では解けぬように捻ってはいるものの、所詮女学校2年生の宿題、視点を変えれば、容易に解ける良問だ。
それほど難しくないのに、一向に解けない彼女の頭の構造の方が、明智にはよっぽど理解不能である。
もっとも、そういう本音は言うべきでないと、一高時代に学習しているので、無言で苦笑いをしながら、勉強机の傍に立っていた。
「自分で考えて解らないから聞いているのに。あーあ、せっちゃんだったら、こういう時、すらすら自分で解いて教えてくれるのに。私が明日、先生に叱られたら、誰かさんのせいね」
鉛筆を机の上に放り投げ、範子はあからさまな嫌味を口にした。
そうやって、解らない問題がある度に、節子に寄りかかり、甘えているから、いつまで経っても理解できないままなのではないか、と思ったが、ぐっと飲み込む。
「……では、出来るところまでで良いですから、解いて見てください。間違えていても良い。とにかく思いつくことを試して、私に見せてください。どのように教えれば良いのか考えますから」
最初から解法を教えてしまう方が簡単なのは、明智も十分承知している。
だが、それをしてしまっては意味がないのだ。
例え正答にたどり着けなくても、与えられた問題について、自分の頭で考える訓練を積む行為自体に意味がある。
そうすることで、知識だけでなく、一端の思慮分別ある大人が持つべき、多角的な視野や高度な思考能力が養われるのだ。
だから、学生時代には思う存分勉学に励むべきなのだと明智は考えている。
奇妙な縁ではあるが、自分が勉強を教える以上、範子には、自ら考えることを疎かにして欲しくなかった。
「……今、ここでやるの? あんたがいると、落ち着かないんだけど」
「私のことはお気になさらず。さあ、早く」
それらしい理由をつけて渋られたが、一切聞く耳を持たず、解いてみろと急かしつけた。
眼鏡の奥から注がれる冷徹な視線に晒され、気圧されない者は少ない。
ぶつぶつ文句を垂れながらではあったが、子供っぽいぷっくりとした手は鉛筆を握り、たどたどしく数式を書き始めた。
その様子を見守りつつ、明智は子供部屋の隅から隅まで、素早く目を走らせる。
この部屋の捜索はなるべく早い段階で済ませておきたかった。
家庭教師なんて、契約外の役割を積極的に申し出たのも、子供部屋に入る口実を得たかったからだ。
目当ての物がしまってあるとすると、壁際に置かれた大きめの本棚か、クローゼットの中か。
ベッドの下は、先ほど主の目を盗み、落ちたペンを拾うふりをして覗いてみたが、掃除しそびれた綿ぼこりが一欠片落ちていただけだった。
クローゼットは範子が不在の時に改めて検分するとし、まずは目につく本棚からにしよう。
蓋の内側が鏡面になっている懐中時計を取り出し、本棚に並ぶ蔵書の背表紙を鏡に映し出す。
左右反転した文字を瞬時に解読するのは、訓練でも散々やらされているのでお手の物だ。
文庫本等のサイズの小さな本が並ぶ一角は後回しにし、数種類の雑誌が雑然と詰め込まれた棚を重点的に観察した。
「ここまでよ。もうお手上げ」
明智があるものを発見した直後、教科書に載っている公式が使える二つほど前の段階で、範子は降参宣言をした。
「どれどれ、よく見せてくださいね」
そっと懐中時計をベストの胸ポケットにしまうと、やや屈むような体勢で、背後から彼女が書いたばかりの数式を指でなぞる。
端正な若い男の横顔が頬が触れそうな距離まで近づき、範子は身を固くした。
明智は明智で、鼻腔をくすぐる女学生の乳臭い香りの中に、ほんのわずかだが、成熟した女の匂いが混ざっていていることに気づき、一瞬、怖気づいたが態度には出さずに済んだ。
「何だ。あと一息ですよ。良いですか? ここのカッコ内の式をさらに因数分解するのです」
「え? ここ?」
「そうです。ちょっと失礼」
鉛筆を拝借し、計算用のメモ紙に解法を書いてみせると、彼女は手品でも見せられたように目を丸くし、指が長く骨張った大人の男の手が淀みなく数式を綴っていく様に夢中になった。
基本的に自力で解かせたものの、必要に応じて解説を挟んでやったおかげか、それから程なく、範子は宿題を何とかやり遂げられた。
達成感に満ちた面持ちで伸びをした彼女は、己の悪態や反抗的な態度を思い出し、バツが悪くなったのか、俯いたまま、蚊の鳴くような声で明智に礼を言った。
そして、決してこちらの目を見ようとはしなかったものの、ぬいに頼んで茶菓子を持ってきて貰い、少し休憩しようと提案してきた。
願ったり叶ったりの提案を、明智は余裕の笑顔で受け入れた。
14歳の女学生を手なづけるくらい朝飯前だ。
今、この状況を、自分を嘲笑った無番地の同僚たちに見せつけてやりたい気分だった。
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