第3話 明智、メトロに乗る

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 昭和15年9月のある夕暮れ時。

 明智は地下鉄神田駅のホームで、電車の到着を待っていた。


 昭和2年に上野浅草間で開通した地下鉄は、その後も延伸が続けられ、昨年のちょうどこの時分に、東京高速鉄道との直通運転が開始された。

 現在は、浅草から渋谷まで、帝都の東西を突っ切るように、暗い地下トンネルでも目立つレモンイエローの電車が行き来している。

 と言っても、渋谷駅のホームは省線渋谷駅からも程近い百貨店の3階にあるので、厳密には全線を地下鉄とは呼べないという声もある。

 が、昭和の初め、東洋初の地下鉄という触れ込みで開通し、震災や恐慌と暗澹とした空気の漂っていた帝都の復興の象徴となった地下鉄が、今尚発展し続けているのは誠に喜ばしいことだと明智は考えている。


 初めて地下鉄が開業した時には、帝都からは遠い東北地方で「仙台には、いつ地下鉄が通るのか」と話し合っていた子供の一人だった自分が、こうして都会の紳士然とした背広に身を包み、こなれた素ぶりで、帝都の地下鉄を使いこなしていると思うと、何とも感慨深いものがある。




 平日の通勤時間帯ということもあり、等間隔にある乗車位置には数人ずつの列が形成されていた。土地柄、背広を着たサラリーマン風の男が多いが、ちらほら銀座や日本橋のデパート目当ての和服姿の婦人や、明治大学の学生と思しき学生服姿の青年も混ざっていた。


 明智が並ぶ列の先頭には、不惑を超えたくらいの小太りのロイド眼鏡をかけた男と水色のワンピースに派手な花の形の飾りがついた帽子を被った妙齢の女が立っていた。二人は特に知り合いということもないようで、各々前方にある駅の看板をじっと見据えていた。


 明智も背広を着、通勤鞄を左手に、折り畳んだ今朝の朝日新聞を右手に持ち、他の通勤客たちに溶け込んでいる。

 ドイツとイタリアとの友好関係をさらに深め、英米列強の帝国主義や共産主義に対抗すべきという威勢の良い読者投書に目を通すふりをしながら、中年男の動向に気を払う。



 彼の名は鳴海眞五郎なるみしんごろうといい、神田にある大手雑誌社の記者だ。ベテラン記者の域にある鳴海は、中央省庁の官僚や大物政治家とも親交が深く、現在は外務省付きの番記者をしている。しかし、体制側の重要人物とも懇意にし、御用記者として重宝されている彼には、現在スパイ疑惑が持ち上がっていた。


 発端は、先月に極秘裏で行われたドイツ駐日大使と外務次官の会談の模様が記録された議事録の内容が、どういう訳だか、ニューヨークに本社のあるアメリカ系新聞の日本版に掲載されてしまった事件にある。

 寝耳に水だった外務省は、慌てて調査に乗り出したところ、幹部の一人が鳴海に件の議事録を見せていたことが発覚した。

 当然その幹部は厳重処分を受けたが、長年鳴海を信用し、多少の機密漏洩も彼相手なら問題ないと構えていた外務省幹部たちには大きな衝撃が走った。

 けれども、アメリカ系新聞社に問い合わせをしたところで、取材源については黙秘を貫かれ、鳴海による犯行と特定できる証拠は見つからなかった。何とか省の面子を保ちつつ、確固たる証拠が得られないものかと外務官僚たちが頭を悩ませている最中、第2の事件が勃発した。


 今度は陸海両省と共同で当たっていたドイツ、イタリアとの軍事同盟締結に向けての交渉内容を記載した超機密文書が紛失してしまったのだ。

 欧亜局長室の金庫に厳重に保管していたにも関わらず、鳴海の来訪時、たまたま不在だった局長を秘書が呼びに行っている僅かな時間に、金庫を破られ、中の書類を奪われたと推測された。

 けれども、またしても証拠はない。


 事態はもう外務省だけの問題ではなくなり、また陸軍省・海軍省も外務省の情報管理のあまりの杜撰さに呆れ、直ちに独自調査と紛失書類の奪還に向けて動き始めた。

 そして、その捜査活動に無番地も参加するよう密命が下り、こうして明智が鳴海を尾行するに至ったという経緯だ。



 幸い現段階では、鳴海が機密文書を誰かに交付している様子はなかったが、内偵調査の結果、彼が地下鉄のホームや駅施設を他国の記者や諜報員と見られる人物との情報交換の場に利用していることが発覚している。



 不特定多数の群衆が互いに無関心で行き交う都会の公共交通機関という特徴を、彼は余すことなく利用していた。その発想力には感心せざるを得ない。



 今日の鳴海は毎日使っている布製の大振りな肩がけ鞄とは別に、革製の鍵付きブリーフケースを持っていた。厚みのある重要書類を収納し、持ち運ぶのに最適なケースだ。

 取っ手が付いているので、片手で持って下げれば良いところ、彼はブリーフケースを赤ん坊でも抱くように胸の前で両手で抱えていた。

 このケースだけは、絶対に無くしてはならないという強固な意志が背後にいても、ひしひしと伝わってくる。

 今日で毎日開催の地下鉄の旅も最終章を迎えるかもしれない。気を引き締めて行かなければ。



 電車の到着を知らせるアナウンスが薄暗くひんやり湿ったホームに流れ、轟音と共に浅草方面から強い風が吹き始める。


 帽子が吹き飛ばされないよう押さえながら、トンネルの奥を覗くと、眩い前照灯の灯りに照らされた黄色とえんじの車体が、徐々に減速しながら近づいて来る様が見えた。


 ベルリンの地下鉄を模倣したという明るい色調の巨大なおもちゃのような電車が、不意に空想科学小説に出てくる今生と異世界を結ぶ摩訶不思議な乗り物に見え、明智は己の場違いな妄想に微かに口角をつりあげた。

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