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 その晩、明智は久しぶりに佐々木と二人、銀座にある佐々木行きつけのバーに出掛けた。


 琥珀こはく色のウイスキーを傾け、静かに乾杯する。

 華やかな喧騒に包まれる目ぬき通りから一本奥に入ったところに位置するこの店は、二人以外に客はなく、寡黙なバーテンダーの老人は半分眠っているような状態で、カウンターの奥に椅子を置き、座っていた。


 何だか今日はとてつもなく疲れた。それもこれも、午後一にあった『誰がこまどり食らったの会議』のせいだ。

 高等学校からの親友を前に気が緩み、明智は大仰に溜息をつきつつ、愚痴を溢した。



「しかし、今日は本当に下らない時間を過ごしたな。おかげで今日は酒のまわりも早い」



「誰が饅頭を盗み食いしたかなんていう、馬鹿馬鹿しい議論でも、国際会議で繰り広げられる参加国の腹の探り合いみたいで面白かったけどね。僕は」



 ウイスキーで喉を潤し、佐々木は薄く笑った。この笑顔に一体何人の女が酔い、虜にされたのだろう。明智が知るだけでも、両手だけでは数え切れない。



「そうか? 結局、ほぼ全員が嘘をついていて、山本だけがいいとこ取りしただけだったじゃないか」



 喧々轟々の醜い言い争いや、嘘偽りだらけの腹の探り合いを一通り終え、藤吉という誠に都合の良い生贄いけにえを出すことで、あの場にいた全員が幸福になれる着地点を見つけたのに、馬鹿真面目な当麻旭はそれを潔しとしなかった。

 さらに新たな対立軸が誕生しそうになったところで、山本がなくなった菓子折り代を自分が負担するので、それでお終いにしようと言い出したのだ。

 札を渡され、困惑した旭に、「本当に山本さん、食べたのですか?」と問われると、彼は真顔でこう答えた。



「正直に申しますと、俺は食べていません。だけど、この無意味な会議が終わるなら、俺が食べたってことでいいです。真犯人たちにも名乗り出られない事情があるのでしょう。罪を公にし、制裁を加えるだけが、良いとは限りません。今回みたいな、軽微な上、過失によるところも大きい事案は特にです。こうやって、俺が罪を被り、弁償しているのを見た真犯人たちの心が僅かでも痛んだなら、それで俺は十分報われます」



 つまらぬ紛争を終わらせるためなら、自分が泥を被るのも厭わぬ大人の振る舞いを見せつけられた諜報員たちは、一瞬にして、室内の情勢が変わったことを悟った。


 もう饅頭を食ったくせにしらばっくれ、その場にいない後輩に罪をなすりつけるような下衆なやり方は古いのだ。素直に自らの罪を告白し、旭に謝罪して弁償できない者は、新たな価値観が生まれた世界では生き残れない。

 何より、聖人君子のような山本の言い分を聞き、自己保身に走る自分の行いが、大人として恥ずかしく思え、正直に口を割らずにはいられなくなってしまったのだ。


 結果、明智を含めた饅頭盗み食いの真犯人たちは、次々に自白し、自分が食べただけの饅頭代を支払った。自首した者は明智以外に、小泉、満島、近藤、広瀬、それに何と佐々木の6人だった。うち小泉、満島、近藤は2個食べたと白状した。

 誰も言い訳はせず、自己の過ちを詫びた。


 それだと計算が合わず、1個は誰が食べたのか不明であったが、それこそ藤吉が長期の潜伏生活に入る前の餞別として持ち去ったのだろうという暗黙の了解がなされた。

 彼を小泉が見かけたのは、明智以外の犯人たちが既に饅頭を持ち去った後だ。明智同様、ほぼ空になった箱を見つけ、自由に食べて良いのだと勘違いしただけなのだろう。

 彼がこれから挑む遠い異国での過酷な任務を思えば、それくらい許してやって然るべきだった。



「山本と小泉。会議を早く終わらせたいという目的は同じだったのに、人間力の差が出てしまったよね」



「片や後輩に全部なすりつけ、片や自分は悪くないのに、全部背負い込んでしまおうとしたのだもんな。山本は口数も少ないし、地味な印象だが、妙に達観しているというか大人だ」



 年齢が上だというだけでなく、学生上がりの自分たちと山本は、決定的に何かが違った。その違いを的確に表現する言葉が見つからず、『大人』としか言えずもどかしい。



「ああ。あいつは時々、俺たちとは背負っているものが違う気がする。社会で働いていた経験があるらしいが、それだけが理由とも思えない。不思議な奴だよ」



 佐々木は、グラスを持った手をゆっくりと弧を描くようにして回した。小さな氷の氷山が崩れ、カランと音を立てる。



「今回の件で、山本が一番の善人なら、一番の悪人は誰だと思う?」



 神秘的にまで美しい顔に、妖艶な微笑みを湛え、佐々木が問いかけてきた。



「一番の悪人?」



 自分を含め、饅頭を食ったくせに嘘をついていた連中は全員悪いと思うが、悪さに序列なんぞあるのか。

 分からないなりに考えてみる。



「藤吉に全部押し付けようとした小泉か? それとも、自分が食いっぱぐれたからって、あんな大々的に犯人探しをし、雰囲気を悪くした松田か?」



 明智の答えに、佐々木はクスクスと声を漏らして笑った。就職してからはあまりお目にかかれない、『彼本来』の仕草にドキッとさせられる。



「違う、違う。確かにあいつらはクズだけど、もっと悪い奴がいる。明智、そもそも何で貴様は饅頭に手をつけたんだ? 来客用のものだと分かっていたら、食べなかっただろう? そして、一番の悪人以外の奴らも同じはずだ」



 そりゃそうだ。さすがに包装紙が巻かれた未開封の菓子折りには手をつけない。




「あっ……!」



 ようやく親友の言わんとしていることが理解できた。



「未開封だった菓子折りを開け、あたかも自由にとって良いかのように偽装し、カウンターの上に置いた奴か?」



「正解」



 整った顔を無邪気に綻ばせ、佐々木は頷いた。少し酔っているのか、指まで鳴らしてみせた。今日は随分と機嫌が良いようだ。

 さらに楽しげな口調で、彼は続けた。



「自分だけが責められるなら、いっそみんなにも同じ罪を負わせてしまおうと考えたのさ。しかもそいつは、饅頭を2個食べたくせに、1個だけ食べたと嘘をつき、何となく数が合わない1個については、山本のこれ以上真相解明をするのは適切ではないという意見を利用し、他の犯人たちが見苦しい言い訳をできない雰囲気に持ち込んだ上、その場にいない奴が食ったのだろうという空気にさせてしまった極悪人だ」



 聞けば聞くほど、ずるく意地汚く、狡猾こうかつな悪漢だった。

 一体誰だと言うのか、そいつは。真犯人の中で、小泉と満島は深夜に帰宅しているので、彼等ではない。そうなると、夕飯後もだらだらと食堂にいた近藤か?



 あれこれ推理を練っている明智に、佐々木はあっさりと『一番の悪人』の正体を告げた。




「まあ、僕なんだけどね」




 呆れて開いた口が塞がらず、絶句している旧知の友に、彼は堂々と開き直った。



「だって、食べたかったんだよ」

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