15

 範子は優に30分は明智の胸で泣き続けた。



 最初は、「わーん」とか「うう」とかおおよそ言語とは言えない声しか出さなかった彼女だが、徐々に落ち着きを取り戻し始めると、「ごめんなさい」とか「もう終わりよ」とかの単語やら短文を口にしつつ、しゃくり上げた。



 その間、明智はどうすれば良いのか分からず、度々思考停止に陥っては、放心しそうになる意識を強引に繋ぎとめ、必死に頭を働かせていた。



 身体中の水分を全て出し切るつもりなのかというくらいとめどなく涙を流し、範子はやっと泣くのをやめた。

 遅すぎるには程があったが、ポケットからハンカチを出して渡した。

 彼女はしおらしい仕草で明智のハンカチを使い、真っ赤に充血した目の周りや頬を伝った涙を拭い、仕上げに盛大な音を立てて鼻をかみ、丸めたハンカチを寄越した。



「……」



 鼻水つきのハンカチを渡され、絶句している彼の渋面を、範子はしかと見つめ、口を開いた。



「全部、話さなきゃダメよね。でも、色んなことがあり過ぎて、気持ちがぐちゃぐちゃで、何から話せば良いのか分からない」



 やらかしたことは大事になったが、14歳の子供だ。入り組んだ事情を、整理して話すのは難しいのだろう。

 なので、助け舟を出してやる。



「では、こちらから質問をしますので、まずはそれに答えてください」



 うん、と首肯したので、早速発問する。




「何で自殺なんて馬鹿なことをしようとしたのですか?」



「……それから聞くのね」



「そりゃ、お嬢様をお守りするのが私の仕事の1つですから」



 年に似合わぬ、疲弊した力のない笑みを溢し、範子は答えた。



「もうにっちもさっちもいかなくなったのよ。お父様にもお兄様にも、本当のことなんか言えないし、学校にも行けない」



「それは、何故ですか?」



「それは……」



 何か言おうとしたが、上手く気持ちが整理できず、言葉に詰まってしまったようだった。


 自らの口で全てを語らせるのが一番だが、現状、精神不安定な範子を、あまり追い込んでしまうのは危険だった。

 明智は淡々とした口調で質問を変えた。



「では、別の質問をします。あなたは友人の棚村節子様と一緒に、お父様である桐原憲兵大佐宛の脅迫文を作り、節子様に投函させたましたよね?」



 彼女はこくりと頷いた。お下げ髪が胸の辺りで揺れていた。



「ええ。でも、何でそれに気づいたの? 探偵小説に書いてあった通り、脅迫文には指紋がつかないように手袋をして触ったし、書いた文字で犯人が分かるって聞いたから、わざわざ雑誌の文字を切り貼りして作ったのよ。脅迫の内容だって、テロリストが言いそうなことを書いたつもり」



 そう、あの脅迫状は、子供なりの力作だったのだ。二人の少女が映画や小説の知識を総動員し、見よう見まねで作ったに違いない。


 が、大人から見れば、稚拙な贋物でしかなかった。


 冷淡な笑みを口の端に浮かべつつ、明智は彼女の疑問に懇切丁寧に答えてやった。



「最初に脅迫文の写真を見た時から、大人の本物のテロリストが作ったものではないとピンときましたよ。本物はもっと要求が過激ですし、使われている活字の種類が同じことに違和感を抱きました。プロなら、たった1冊の雑誌から活字を切り取るような、雑な仕事はしないということくらい、執事の私でも分かります。ただし、証拠がなかったので、失礼ながら、お嬢様のお部屋を捜索したところ、一部のページが千切られた雑誌が見つかったので、同じ雑誌を取り寄せ、脅迫文の原本と比べてみたら、活字の種類も紙質も同じだったと分かった訳です」



 範子の部屋にあった雑誌は少女雑誌と映画雑誌の2種類だった。ルビが多く振られている上、女子が好みそうな独特の繊細な活字を使用している少女雑誌の文字を切り貼りすれば、犯人が少女であると推測されかねない。それ故、2人はごく一般的な活字の映画雑誌を使おうと思ったのだろうが、皮肉にも、犯人に目星がついていた明智は、そのおかげで捜査の手間が大分省けた。



「いつの間に……。酷いわね、女の子の部屋を勝手に漁るなんて」



「憲兵大佐に脅迫文を送り付けた不届き者の部屋を捜索したまでです。あなた方のやったことは、女の子だからと許されることではない」



 強めの語調で責められ、そうね、と範子は呟いた。



「……どうして、狂言脅迫なんて大それたことをやらかしたのです?」



 節子は「母親が亡くなり、父や兄にも構ってもらえず寂しかったから」と解釈していたが、本人はどう説明するのか、興味があった。

 しかし、範子の口から語られた動機は、節子の解釈と似通ってはいたものの、ぴったり同じではなかった。



「お兄様に、帰ってきて貰いたかったの」



「確かお兄様は、士官学校の寮に入っていらっしゃいますよね。学校を辞めて、実家に帰って欲しかったということですか?」



 だとしたら、余りに幼稚で勝手な動機だ。

 明智自身は軍人になろうなんて、ただの一度も考えたことがなかったが、陸海の士官学校の入学試験には、全国の秀才たちが集結し、その中でも高い倍率の試験を突破した者だけが入学を許される。いくら寂しいからと言って、将校になるため、日夜訓練や勉学に励んでいる潤一郎の努力を無にする資格は範子にはない。

 だが、彼女はそうじゃないと否定した。



「別にお兄様に学校を辞めて貰いたいなんて思っていないわ。まあ、支那との戦争が長引いているし、卒業後、戦地に送られるのかしらと思うと、心配にはなるけど、名誉なことだから、覚悟している。私が言っているのは、夏休みのことよ。この前、お兄様と電話で話した時に、夏休みは家に帰って来るのでしょうって聞いたら、帰らないって……。学校のお友達の別荘に行くとか言っていた。私、お兄様が帰ってきたら、一緒にお買い物に出かけたり、映画を見に行ったり、やりたいこと、沢山あったのに。お父様もお父様で、『士官学校の友人は一生の友だから、大事になさい』とか言って、却ってお兄様の背中を押したの」



「家族をないがしろにするお兄様にも腹が立ったし、それを咎めるどころか、応援したお父様にも頭にきたのですね?」



「頭にきたし、私なんか二人の眼中にはないのだと思うと、悲しくて、悔しくて、恨めしかった。お母様が生きていた時は、こんなことなかったのに。そんな気持ちをせっちゃんに愚痴ったら、『いっそのこと、思い切り心配をかけて困らせて、のりちゃんの大事さを2人に分からせてやれば?』て言われたの」



 節子の悪魔的な微笑が脳裏に蘇り、明智は気分が悪くなる。が、すぐにその妄想を振り切り、問いを重ねる。



「それで思いついたのが、脅迫文だったのですね?」



「ええ。ああいう脅迫文は、今までも時々お父様宛に届いていたけど、お父様は殆ど気にかけなかったし、実際には何も起こらなかった。ただ、今までのものは、私を名指しするようなことはなかったみたい。だから、今回の内容なら、お父様が多少は慌てる様が見られて、いい気味だし、あわよくば寮にいるお兄様まで呼び寄せられたら、いいななんて考えていたの」



「でも実際やってみたら、思っていた以上に大騒ぎになった。憲兵隊が派遣されるは、運転手兼執事として、私が現れ、正直に罪を告白する機会を逸してしまった、というところですか?」



 良心のある人間は、罪を告白してしまった方が、罰を受けた方がずっと救われるのだ。裁かれない罪を抱えて生きる方が、裁かれるより辛い。

 でも、自白する決心をし、誰かに打ち明けるまでのハードルは途方もなく高い。範子もそのハードルの前で、右往左往し、行く宛を見失い、果ては自害しか道はないと思い詰めるまでに至ってしまったのだろう。

 あまりに幼く、愚かだった。



 ところが、彼女は明智の予測を否定した。



「最初は確かにそうだったけど、途中からは違ったの。実は木曜日、せっちゃんにお父様に本当のことを話すように説得されたのだけど、私もそうした方がいいと思った。せっちゃんは、いずればれることだし、もう潮時だって言ってたわ。どう考えても、せっちゃんの言う通りにすればいいのは分かっていた」



 今までの流れで既に分かっていたが、節子は範子の説得にあたり、明智のことは一切触れなかったようだった。

 何故彼女がそうしたのかは定かではないが、彼女なりの親友としての意地故だったのかもしれない。明智に指摘されたからではなく、自ら罪を悔い、友人の道をも正そうとしたという形を取りたかったのだろう。



 では何故、範子は節子の説得に応じなかったのだろうか。


 尋ねると、やっと涙が乾いた少女の瞳が再び潤み出し、みるみるうちに雫となった涙が頬を伝った。

 嗚咽を堪えながら、彼女は答えた。




「知られたくなかったの……。私が、自作自演の脅迫文をお父様に送りつけ、色んな人に迷惑をかけているのに、それでも知らんぷりをして生活しているような悪い子だって」



 スッと鼻を啜り上げてから、彼女は清らかな瞳で明智を正面から見据え、告白した。



「私は明智に、悪い子だって、こんなにどうしようもない子供だって知られたくなかった。だって、そんなこと知ったら、私のこと嫌いになっちゃうでしょう? そんなの嫌よ。それに事件が解決したら、明智はうちを出て行ってしまう。私は少しでも長く、明智と一緒にいたかったの」



 明智を見上げる範子は、確かに女の目をしていた。



 予期せぬ出来事に、またしても彼の脳はオーバーヒートを引き起こした。

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