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『ムーラン・ルージュ新宿座』は省線新宿駅の東南、角筈地域に所在する劇場である。

 昭和6年の開業当初は、浅草オペラの模倣でしかなかった上演作品も、数々の人気俳優や演出家の台頭により、独自のものと進化した。大正末期、関東大震災で壊滅的な被害を受けた浅草地域に代わる新たな大衆演劇の発信源として、近隣に暮らす人々や早稲田大学の学生たちの支持を得、歓楽街新宿の名所の一つとなっている。



 劇場の入り口に設置された赤い風車は、明智も大学時代に佐々木に連れられて見物に訪れたことがある。その時は、佐々木が偶然通りかかった劇場スタッフに「是非、うちの役者になって欲しい」と迫られてしまい、慌てて逃走したため、中に入り、演劇鑑賞はできなかった。



 まあ、今回も観劇は難しいだろう、と演者や裏方スタッフのみに立ち入りが許されている廊下を歩きながら、明智は学生時代の思い出を回顧していた。



「いやあ、知事もお元気そうでなによりです。あの時以来、暫く姿を見なかったので、心配していたのですよ」



「ご無沙汰してしまって、申し訳ありません。おまけに看板女優に会わせて欲しいなんてご無理を申し上げてしまい、恐縮です」



「いいのいいの。知事のおかげで、うちの女の子たちも公演終わりが深夜になっても、安心して家路につけていたのだから。実は、絹子もあの頃、新人ダンサーとして研修中だったのですよ。先ほど、知事のことを話したら、覚えていて、しきりに懐かしがっておりました」



「はは、光栄です」



 ここでも山本は、劇場の支配人と顔馴染みのようで、話に花を咲かせていた。『絹子』というのは、白鳥絹子しらとりきぬこというムーラン・ルージュ新宿座の看板女優で、ナオミの女将さんが教えてくれた『新宿の姫』と呼ぶに相応しいという人物だった。



「失礼します。知事とそのお友達をお連れしました」



 ずらりと長屋状にならぶ楽屋の一番奥、『白鳥絹子様』と達筆で書かれた半紙が掲げられたドアを支配人がノックすると、扉越しに「どうぞ」と鈴を転がすような軽やかで澄んだ女の声が聞こえた。



「知事、お久し振りです。絹子です。『新宿の姫』なんて、分不相応で恥ずかしいわ。研修生の頃、路地裏で変質者に襲われたところを助けて頂いたのですが、覚えていらっしゃいます?」



 自らドアの前まで出迎えに現れた女優は、男の拳程度の大きさしかない小さな顔に、強く抱く締めたら折れてしまいそうな程、華奢な体つきをしていた。

 公演は夕方からということもあり、地味なブラウスにスカート姿で、化粧もしていないようだったが、色白の肌は陶器のように透き通り、こぼれ落ちそうなくらい大きな目に、すっと通った鼻筋、小さく愛らしい桜色の唇は無垢な少女のようで、愛らしかった。

 けれども、彼女はあどけない顔立ちの若手女優でありながら、既に言葉では説明し難いスタアの風格を漂わせていた。



「勿論覚えていますよ。あの頃から、絹子さんは突出していましたから」



 嬉しい、と絹子が微笑む。瞬間、彼女を中心に、一斉に桜の花が開花したかの如く、華やいだ空気が発生する。

 明智が今まで出会ってきた女の中で、彼女は断トツに清らかで美しかった。着飾らなくても生来の華々しい雰囲気は隠せない。美男子部門の一番である佐々木と並んだら、一幅の名画の如き絵面に、きっと見る者は魅了され、溜息を漏らすだろうと想像した。



「立ち話も何だから、入って頂戴。頂き物だけど、美味しいお茶菓子もあるから」



 そう言って、新宿の姫は山本と明智を楽屋の座敷に案内し、備え付けの卓袱台の前に座らせた。白魚のような手で、自ら茶を淹れ、新宿中村屋のラスクを小皿に並べ、運んでくる。



「ラスク、よく買えましたね。人気で、すぐに売り切れてしまうと聞いたのですが」



「熱心なファンの方がくださったの。知事も、お友達も遠慮しないで食べてね」



 卓袱台を挟み、斜向かいに腰を下ろした絹子に、優しく微笑みかけられ、明智は鼓動が高鳴った。20数年間の人生で出会った女の中で、これほどまでに彼の理想を具現した女はいなかったからだ。清楚な美人で、美貌を鼻にかけ威張っていたり、我儘も言うようなこともなく、男を立て、良く気が利く。頭の回転も良さそうだ。

 こんな女を妻にめとれる男は果報者だろう。しかし、自分なんかでは、彼女のような女神の相手なんぞ務まらないと彼は勝手に妄想をして萎縮し、怯えた。



「お忙しいところお時間を割いて頂いたので、早速本題に移りますね。最近、身の回りで変わったことがあったり、不審者がうろついているようなことはありましたか? 或いは、誰かから何かを預けられたとか」



 姫を通り越し、女神と呼ぶべき女優を前にしても、一切臆することなく、山本は絹子に尋ねた。が、彼女は、申し訳なさそうに眉根を寄せた。



「残念ですが、そういったことは何も……。お役に立てず、ごめんなさい」



「そうですか。あの、この楽屋や劇場を少し捜索させて頂くことはできますか? できれば、絹子さんにも同行願いたいのですが」



 続いて発せられた不躾な依頼に、明智は耳を疑った。本人が何も心当たりがないと話しているのに、若い女優の身辺を調べたいなんて、失礼にも程がある。おまけに調査に立ち会えとは、図々しい。


 だが、女優は気分を害する様子もなく、山本の申し出を快諾した。


 座布団をひっくり返したり、畳敷きの床に這いつくばり、終いには、畳を剥がしても、彼女は何も言わず、むしろ嬉しそうな笑みを浮かべて山本を見守っていた。



 楽屋の調査を終えると、一行は舞台やその裏の捜索に移行したが、そこでも彼女は、事細かに質問に答え、必要に応じ、支配人や役者仲間、スタッフにも協力を掛け合ってくれた。


 現在公演中のクライマックスで、絹子演じる美貌の王妃が死を迎えるシーンの立ち位置を、山本は入念に調べていた。その背中を少し離れたところから見ていると、『新宿の姫』が忍び足で明智に近寄ってきて、そっと耳元で囁いた。



「やっぱり、知事はああいうことをしている時が一番輝いているわ。『現場百遍。真実に向かい、靴底を擦り減らし、ひた走れ』素敵よね」



 甘く清らかな香りにドギマギしながら、頷くと、彼女は微笑して続けた。



「お友達さん。知事をお願いね。あの人は、頭も良いし、とても強い人だけど、一人で何でも抱え込んでしまうところがあるから」



 結局、劇場を上げた協力や山本の重箱の隅を突くような捜索活動の甲斐無く、ムーラン・ルージュ新宿座では、何一つテロ計画書のありかに関する手がかりは発見できなかった。


 気にする必要なんてないのに、絹子は肩を落としていたが、帰り際、『違うと思うけど』と謙遜しつつ、助言をくれた。



「花園神社の中にある、芸能浅間神社はもう調べたかしら? あそこは芸能にご利益があるから、私たちもよくお詣りに行くのだけど、あそこに祀られている神様は木花之佐久夜毘売コノハナノサクヤビメという美人の女神様よ」



 山本がはっと息を呑む気配がした。


 劇場を出ると、挨拶もそこそこに、彼は花園神社に向かって駆け出した。何も走る必要はないだろうにと呆れながら、明智も後に続いた。

 途中、信号待ちの際に盗み見た山本の横顔は、獲物の臭いを嗅ぎつけた猟犬の如く精悍かつ野生的で、双眸が爛々と輝いていた。

 初めて見る同期の意外な顔に、密かに驚かされる。その表情は、任務云々より、地道な捜査を重ね、真実に辿り着くこと自体を楽しんでいるように見えた。

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